アグスティの戦いは彼らの勝利に終わったが、両者の緊張関係はなかなか取れなかった。グランベル側がシグルドにアグスティへの駐留を命じ、アグストリアを属国扱いにし始めたからだ。シグルドは一年で軍をひくことができるよう本国と交渉を続け、エルトシャンは彼の約束を信じて主君であるシャガール王をマディノ城に移し自身はシルベール城に駐留した。それから半年が経過したが、両者は膠着状態のままにらみ合いが続いている。このままではとおからずまた戦いが始まるであろうことを誰もが予感していた。
「……ねえ、どうしても中には入らないの?」
「何度も言わせるな。この城に入る権利があるのはアグストリアの人間だけだ。俺が入っちまったらスパイ扱いされるだけだろうが」
不満そうなラケシスに、ベオウルフはそう言って彼女の背を押した。
「ほら、早く行ってこいよ。兄貴が待ってんぞ」
「……じゃあ、行ってくるわ。なるべく早く戻るようにするから」
「気を使うなよ。一ヵ月ぶりに会うんだからゆっくりしてこいってシグルド殿にも言われたろ。こっちはこっちで適当に時間つぶすからよ」
ひらひらと手を振るベオウルフに、ラケシスは困ったように何度も振り返りながら門の中に消えていった。
「さーてと……あ、どーも、おかまいなく」
二人のやり取りを見てみぬふりをしていた門番の兵にもひらひらと手を振って見せて、ベオウルフは門の脇にどっかりと腰を下ろした。
アグスティの戦いが決着したあとも、ラケシスはシグルドの軍に残ることになった。彼女にいらぬ疑いがかかることを恐れたエルトシャンがそう勧めたのだ。それは、ベオウルフの『仕事』がまだ続くことを意味していた。彼女が無事エルトシャンの元に戻るまでは側にいる必要があるだろうし、シグルドとの契約もまだ残っている(うっかり期限を決め忘れていたのだが、彼らがグランベルに戻るまでと考えていいだろう)。
ラケシスは月に一度、こうしてシルベール城の兄に会いに来る。アグスティから馬で往復三日の道程を彼女の護衛に付いていくのもまた彼の仕事だった。この半年のうちにかなり上達したとはいえ、馬術も剣もまだ少し頼りないし、まさか年頃の少女を一人で野宿させるわけにも行くまい。
思えばこの半年、片時も彼女のそばを離れなかったことになる。先頃十七歳になったラケシスは、この半年の間に幼さが抜けてきたようで気品すら漂わせるようになってきた。はじめのころこそ自分の言動にいちいち反発したりもしていたが、最近ではきちんと話も聞くしどうやら感謝してもいるらしい。時には先刻のように気を使うような仕種も見せる。そのたびに、彼はこうして突き放してきたのだった。
いつかは離れていく運命なのだ。これ以上近づいてはいけないと、心のどこかでもう一人の自分が警告している。これ以上近づけば、二度と手放せなくなってしまう。
(……何考えてんだ、俺は)
軽く頭を振って、その考えを追い出そうとしたときだった。不意に門が開いて、そのラケシスが顔を覗かせたのだ。
「……ベオウルフ?」
「ラケシス?何だ、戻ってくるにはまだ早過ぎるんじゃねえか?」
「うん……あのね、兄さまがあなたのことも呼んでるの。一緒に入ってきてもらえ、って」
「何ぃ?」
一介の傭兵とはいえ、今の自分は彼にとって敵対者の一人だ。それでなくてもシャガール王には不信の目で見られているというのに、そんな相手を城に招き入れるとは彼らしくもない所業である。
だが、ラケシスにはそんな些細なことはどうでもいいらしく、さっさと座り込んだ彼の手を取って言った。
「ほら、早くして。兄さまがそう言ってくださってるんだから、問題はないでしょう?」
「そりゃそうだが……」
「じゃあ決まりね!早く行きましょ」
ぐいぐいと腕を引っ張られて、苦笑しながらもそれにしたがったベオウルフである。
シルベール城は城というよりも砦に近い。サイズは中級クラスだが、質実剛健という言葉がぴったりのいかつい作りである。背中に感じる視線は廊下を行き交うクロスナイツたちからのものだ。ラケシスはそれらを気にもせずにすたすたと歩いていく。やがて、ある扉の前で足を止めた彼女はドアをノックして、言った。
「兄上、ベオウルフ殿をお連れしましたわ」
「ああ、入ってくれ」
扉を開け放つと、窓から差し込む光が彼らの目を射た。その窓の前に立っていたエルトシャンがくるりと振り返る。
「お久しぶりですわ、兄上。お元気でしたか?」
「ああ、元気にやっている。そっちはどうだ、何か変わったことはあったか?」
「先日シグルド様に赤ちゃんがお生まれになりましたの。とても元気な男の子で、お名前はセリスと名づけられたそうですわ」
「そうか。直接祝いにいけないのは残念だが、お前からも俺が祝いを言っていたと伝えておいてくれ」
「ええ、伝えておきます。では私、お茶を入れてきますね」
「おいおい、別にお前がそんなことをしなくても……」
「大丈夫ですわ。最近オイフェにおいしいお茶の入れ方を習っているんです。兄上もお味を見てくださる?ベオウルフはちっとも感想を言ってくれないからつまらないんだもの」
そう言ってちょっとだけベオウルフを睨んでから、彼女は部屋を出ていったのだった。その様子にエルトシャンが小さく苦笑する。
「相変わらず忙しい奴だ。あの様子ではお前も苦労しているようだな、ベオウルフ?」
「まあな……それで俺を呼びつけた目的は何なんだ?」
切り口上に近い口調で訪ねたベオウルフに、エルトシャンは目を瞬かせた。
「……やはりわかったか」
「クロスナイツの本拠地に敵対者を招き入れといて用もねえわけねえだろ。で、何なんだよ?」
「……単刀直入に聞くぞ。お前、ラケシスのことをどう思う?」
ピキン、と空気が凍りついた。
「……はっ?」
「どう思うかと聞いている」
「……そりゃどういう意味で言ってんだ?まさか……」
「あれを一人の女として愛してやれるか?」
さらに直球ど真ん中の質問に、ベオウルフは完全に凍りついてしまった。
「答えろ、ベオウルフ」
「……あのなあ、俺を何歳だと思ってる?来年にゃ三十だぞ。ラケシスはまだ十七だ。まだ子供だぞ」
「理屈はどうでもいい。俺が聞いているのはお前の気持ちだ」
嘘やごまかしを許さない真剣さを声の中に悟り、ベオウルフはがりがりと頭を掻いた。
「……わかんねえよ。考えたこともねえ。守ってやりてえとは思う……が、男とか女とかそういう生っぽい感じじゃねえんだ」
戦いを終えた後よくまつわりついてきた娼婦たちに対して抱いた欲とは違う。そんなことがしたいわけじゃない。ただ、見つめてほしいだけだ。彼女が兄に向けるような、信頼し切ってすべてを預けるようなあの眼差しで自分のことを見てほしいのだ。
「それは、俺との約束のせいか?」
「それもあったな。でも今はもう違う。俺は、俺の意思であいつを守る。それが、俺の生きる意味だからだ」
それを愛しいというのかどうかは、彼にはわからない。愛し方も、愛され方も知らないのだ。ましてこの気持ちを伝える術など持つわけでもない。できることと言えば、命をかけることだけだ。
精一杯の言葉を尽くした答えに、エルトシャンが微笑する。そして。
「……そうか……なら、お前に託しても大丈夫だな」
言葉の意味をはかりかねて、ベオウルフは思わずまじまじと友の横顔を見つめた。
「……エルトシャン……?」
「これは他言無用だ。和平は、あと半年ももたん。シャガール王は俺の言うことに耳も貸さなくなってしまわれた。……俺の手に負えないほど事態は進行しつつあるのだ」
「また……戦いになるのか?」
「いまやグランベル軍はアグストリアにとって仇敵同然だ。火種は至る所にくすぶっている」
「馬鹿な……シグルド殿が今どれだけ必死に本国と交渉してるかしらねえわけじゃねえだろ?それを……」
「わかっているさ。だが、それをだれ一人信じようとしないんだ」
「……それで、お前はどうなんだよ?まさか、本当にシグルド殿たちに剣を向ける気じゃあ……」
返ってきたのは、苦しげな声。
「……俺は、アグストリアの騎士だ。誇りを捨てることはできん」
「エルトシャン!」
「……時々お前の自由さがうらやましくなるよ。この身に流れるヘズルの血が疎ましくなる……だが俺は獅子王エルトシャンだ。お前にはなれん。ならば、俺は俺の道を行くだけだ」
「…………」
「……ラケシスを頼むぞ。あれは、お前を信頼している。お前が支えてやってくれ」
「お前……まさか」
その先は、続けることができなかった。ラケシスが戻ってきたのだ。
「なあに、大きな声出して……廊下の向こうまで聞こえてきたわよ。けんかでもしたの?」
「……いや、何でもない。ちょっとした内緒話だ」
「内緒話であんな大きな声出すなんて、変な兄さま」
「お前の戻りが遅いから城の中で迷っているのかと話してたのさ」
「まあ、ひどい!兄さまったら私がいつまでも小さな子供だと思ってらっしゃるのね」
「では今まで何をしていたんだ?」
「それは……お茶の量を間違えて、入れ直していたの。あとは、ちょっとポットをひっくり返しそうになっただけで……」
「ハハハ、ドジなところは相変わらずのようだな」
「そんな言い方ってないと思うわ!ねえ、ベオウルフも何とか言ってよ!」
憤慨するラケシスに水を向けられて、我に返る。
「……砂糖と塩は間違えてねえだろうな?この間はそれでひでえ目にあったからな」
「何だ、そんなことまでやったのか?」
「おう。ティータイムにってみんなにふるまったはいいんだが、全員吹いちまってな。ありゃあひどかった……」
「あれは……お砂糖とお塩が似たような入れ物に入ってるのが悪いんだわ」
「なめてみりゃわかるこったろ?それ以来毒味役を仰せつかってる俺の身にもなれっての」
「……もういいわ!そんなに言うならいれてあげないから!」
「そりゃもったいねえ。今度のは自信あんだろ?」
「もちろんよ」
「じゃあいれてみろよ。ま、こいつはたいていのもんは平気だぜ。なんせ味オンチだかんな」
「ベオウルフ、人のことが言えるのか?」
「……もしかして二人とも私のこと馬鹿にしてない?」
その日、日が傾く前に彼らはシルベール城をあとにした。あすの夕方にはアグスティに戻る予定だ。その日のうちにできるだけ行程を急いで、途中の森で一泊するのである。
ふだんなら、焚き火を焚いてラケシスが眠る間火の番をする。獣がよってこないよう火を絶やさないのは野宿の基本だからだ。体力に劣るラケシスをゆっくり休ませるため、ベオウルフは一晩寝ずに火の番をするわけだが、この夜はどういうわけか彼女が眠ろうとしない。食事が終わっても彼の隣にすわったままじっと炎を見つめている。
「ラケシス、もう寝ろ。明日も早いぞ」
「……ベオウルフこそ、疲れてるんじゃない?今夜は私が火を見ているから、ゆっくり休んで」
「お前には無理だ。体がもたん。俺は平気だから、早く休め」
「じゃあ……もう少し一緒にいていい?」
「……ラケシス?」
いつもと様子が違う。その直感は正しかった。
「どうした?何か気になることでもあるのか?」
「……兄さまのことなんだけど……何だか変だったと思わない?」
「変?」
「どこが……とは言えないの。どことなく……そうね、まるで……出撃される前の兄さまみたいだった」
まるで死を覚悟しているかのようだったのだと、そう言って彼女は小さく笑った。
「……私、バカみたいね。そんなことあるわけないのに。……でも、もし本当にそうだったらって……考えたら怖くなって……」
こつん、と肩に額を乗せる。
「……大丈夫よね?もう……戦いになったりしないわよね?」
グランベル対アグストリアの戦い。半年前とはわけが違う。今度は全面戦争で、しかもアグストリアの先頭に立ってくるのはエルトシャンなのだ。そうなれば彼女は祖国ばかりかたった一人の兄までも敵に回さねばならない。それはあまりにも辛い選択だ。
「……もし、そうなったらどうする?ノディオンに戻るか?」
本当はそれが一番良いのだろう。だがそれを潔しとしない性格であるのは彼が一番よく知っている。
「冗談を言わないで。私はみんなのために戦うと決めたの。今更逃げたりしないわ」
「……それだけの決意があるなら不安になるこたねえだろ?」
「うん……でも、やっぱり戦いは嫌だもの。このまま平和でいてほしいわ」
そう呟いた彼女の髪を、そっとなでる。
「……心配すんな。何も起こんねえよ。あと半年もすりゃグランベルも引き上げる。そうすりゃ兄貴のところに戻れるさ」
「そうよね……気のせいよね。ありがとう、何だか安心しちゃった」
そう言って子猫のように額をすり寄せた彼女は、そのまま眠りに落ちてしまったようだった。小さく吐息をついて、ベオウルフは彼女の肩を静かに抱き寄せた。
認めるしかない。今この胸にある暖かい感情を愛しいというのなら、自分は確かに彼女を……ラケシスを愛している。だが彼女の中にあるのは、兄の元に返りたいという想いだけだ。ならば、それでもかまわない。自分はもてるすべての力で彼女を守り、彼女が返るべき場所に送り届ければいい。それが、自分が彼女を愛した証しになるはずだ。
だから……今だけは許してほしい。最愛の兄の代わりに、自分が側にあることを。
そんな願いを込めて、眠る彼女の額にそっとくちづけた。