ベオウルフが再びシグルド率いる軍に合流したのは彼らがハイライン城に立ち寄ったときのことである。自ら彼を出迎えたシグルドは、話を聞き終えるとぺこりと頭を下げて言ったものである。
「そうか……ありがとう。きっとエルトシャンも喜ぶよ。彼は城に残してきたあの姫のことを本当に心配していたからね」
「そうだろうな。そのためにわざわざエバンスまで自分で出向いたってんだから相変わらず妹バカでフットワークの軽い王様だぜ」
まあ、あの妹が相手ならわかる気はする。目を離すと何をしでかすかわからない妙な危うさはいくら心配してもし足りないだろう。うんうん、とうなずいたベオウルフに、シグルドの表情がふっと真剣になる。
「君は確かエルトシャンに彼女のことを頼まれているんだったな。よければこのまま彼女についていてあげてくれないか?私としてはその方が助かるんだが」
「そりゃかまわねえが、いいのかい?あの姫さんの腕前じゃ危なっかしくて前線にゃ連れて行けねえぞ」
「その辺のことは君に任せるよ。心配は要らないから」
(そういう意味じゃねえんだが……)
と思いはしても口には出せず、黙然とうなずいたベオウルフである。
彼らがノディオン城に到着したのは翌日朝のことだった。シグルドの隣で黙然と馬を進めていたベオウルフは、昨日と同じ白銀の甲冑に身を包んだラケシスが三人のパラディンを従えて城門前に立っている姿を見つけて苦笑した。
向こうもすぐに気づいたらしい。花のかんばせが不快げにしかめられる。が、シグルドは彼女のそんな様子には気づかなかったようで、すぐに歩み寄っていった。
「やあラケシス、無事で何よりだ。エルトシャンの留守中に君にもしものことがあったら私も彼に申し訳が立たないからね」
ラケシスが一国の王女らしく優雅に一礼する。
「本当にありがとうございます。一時はどうなることかと思いましたが、皆様のおかげで何とか乗り切ることができました。兄に代わってお礼を申し上げます」
「エルトシャンはやはりアグスティに……?」
「はい。もはやアグストリアの諸侯はすべて敵に回ってしまいました。私一人の力ではとても兄を救い出すことはできません。シグルド様、どうか力をお貸し下さい」
「無論だ。他国に軍を入れるのは気が進まないが、今回ばかりはやむをえないからね。まもなくバーハラから正式に使いが来て進軍の許可が下りるはずだ。そうすれば、今度こそエルトシャンを助けに行けるよ」
「ありがとうございます!」
確約を得られたことでラケシスの表情がぱっと明るくなる。すると、今度はシグルドの方が微妙に表情を変えた。
「ところで……その格好だが、やはり君も……?」
「ええ、もちろん私も参戦するつもりですわ。それがどうかなさいましたの?」
「いや、私としては君にはこの城で待機していてほしいと思ってるんだが……」
「まあ、どうしてですの?皆様には兄を救い出す協力をしていただくのですし、私も一緒に行くのが当然ですわ」
「いや、しかし……」
「これでも剣は兄じきじきに教わったんですのよ。いざというときはライブの杖も使えますし、決して足手まといにはなりませんわ」
シグルドが困ったように天を仰ぐ。何を言っても聞く耳持たず、といった様子のラケシスに、ベオウルフは無遠慮に吹き出した。それに気づいたラケシスがきっと睨みつけてくる。
「……何がおかしいんですの!?」
「くっ、くく……これが笑わずにいられるかよ。昨日はロングアーチの一撃でビビッてたくせに、戦いに参加しようなんざ片腹痛ぇってもんだ。シグルド公子、はっきり言ってやんなよ。足手まといはいらねえってさ」
「ベオウルフ……」
当人より先に爆発したのはもちろん血気盛んな長男である。
「……貴様ぁっ!恐れ多くもこのノディオン王国の姫君に対して暴言の数々、もはや許しがたい!このイーヴが叩き切ってくれるわっ!」
今度こそ本当に長剣を抜き放ったイーヴが切りかかろうとするのを、二人の弟がなんとか押しとどめる。
「やめないかイーヴ!シグルド公子の御前だぞ!」
「しかし……!」
暴言を吐かれた当の本人はというと、顔を真っ赤にして拳を握り締めていたがやがて押し殺した声を絞り出した。
「前にも言いましたけど……あなたって本当に失礼な方ね」
「俺ァ事実を言ってるだけだぜ」
「わかりました。私が足手まといでないことを証明できればよろしいのね?」
「……おい?」
ベオウルフの表情が訝しげに変わる。その胸にラケシスは持っていた皮手袋を投げつけ、言い放ったのだ。
「ノディオン王女ラケシスは今ここで傭兵ベオウルフに対し決闘を申し込みます!私が勝利した場合、今後私の行動に一切口出ししないと誓いなさい!」
「ひ、姫様っ!?」
その場にいた誰もが凍り付いてしまった。それはシグルドも同様で、とっさには言葉が出ない。その間に、手袋を拾い上げたベオウルフはにやりと笑って答えていた。
「……ああ、いいぜ。その代わり、俺が勝ったら俺の言うことも聞いてくれるんだろうな?」
「ええ、もちろん。騎士に二言はありませんわ」
胸を張って言うラケシスに、ベオウルフは口元をゆがめて笑った。
相手の胸に手袋を投げつけるという行為は騎士の正式な決闘の申し込み方法である。相手が手袋を受け取った時点で決闘を了承したものとみなされ、以降は当事者以外の何者も口を挟むことを許されない。とはいえ、申し込んだ当人がまだ十六歳のしかも一国の王女で、相手が歴戦の傭兵であるとなれば周囲の興味を引かぬはずもなく、必然的に決闘の場に指定された中庭にはシグルド軍の面々をはじめ多くの人間が集まってきたのだった。
視線が集中する中で黙々と剣を磨いていたベオウルフは視線を感じてふと顔を上げた。視線をめぐらせるとこちらを睨んでくるきつい眼差しにぶつかる。
紅い甲冑。金色の髪。たしか、ノイッシュと言ったか。シアルフィにいたころからシグルドに仕える騎士だ。忠義一直線で生真面目なその男の視線には明らかに非難の色が含まれていた。
彼ばかりではない。中庭に集まった人々の中には好奇心に混じって決闘相手であるラケシスへの同情や勝つとわかっていて引き受けた自分への非難を向ける者は少なくなかった。もっとも、そんなものを意に介するほど自分はバカではないので言いたい奴には言わせておくつもりでいる。
黙々と剣を磨くベオウルフの隣では、フィンが所在無さげに佇んでいた。15歳になったばかりの彼にとって決闘の助言役などはじめてのことで、何を言っていいのやら見当もつかない。しかも見物人の大半は相手のラケシスに同情的で、向けられる批判的な視線は隣にいるだけでも痛みすら覚えるほど鋭いものだった。
やがて、準備を終えたベオウルフはくるり、とフィンを振り返った。
「おい、坊主。グランベル式の決闘ってのぁどーいうもんなんだ?」
フィンは自分が呼ばれたことに最初気づかなかったらしい。やがて我に返ると、しかめ面を作って答えた。
「……助言者の立会いの元、立会人の合図で行います。本来はどちらかが死ぬまで行うそうですが、今回は模擬用の剣を用いるのでどちらかが動けなくなるか、「まいった」と言うまでになります。……ところでベオウルフ殿、私は正式に名乗ったはずですが?」
「14歳っていやぁ俺がちょうど初陣を飾った年だ。一人で戦場も歩けねえ奴にゃ坊主で十分だろ?」
フィンの頬がさっと紅潮する。彼は必死に怒りをこらえ、押し殺した声で尋ねた。
「……では若輩者としてあえてお尋ねしますが……なぜこの決闘をお受けになられたのです?」
「受けちゃいけねえ理由でもあんのか?」
「大有りでしょう。ラケシス姫はノディオン王家の姫君なのですよ。しかも御年まだ16、歴戦のあなたにかなうはずもない。勝つとわかりきった、しかも女性からの決闘申し込みを受けるなど……男として恥ずべき行為ではありませんか?」
ベオウルフは真夏の空の色の瞳からからかいの色を消し、真っ直ぐに少年を見返した。
「……坊主。相手が誇りを賭けて挑んでくるなら受けてたつのが男ってもんだ。相手が女だろうが姫だろうがそんなこたあどうでもいいんだよ」
低い声で告げる。剣呑な視線にもひるまず見返してきていたフィンもこれにはかすかに息を呑んだようだった。
「……しかし、それでは騎士として……」
「忘れたか?俺は騎士じゃねえ。騎士様とやらが大切にしている忠誠やらなんやらを金でやり取りする傭兵だぜ?」
「しかし……」
「覚えとけよ。手前らが後生大事にしているものは戦場じゃ糞の役にも立ちやしねえ。それが言えねえてめえらの代りに俺があの姫さんに教えてやるんだからな」
豪快に笑い、さっと振り返る。ちょうどラケシスも準備を終えたところらしく、正面からかちりと目があった。
(……まあ、目をそらさねえとこだけは合格だな)
相手に飲まれないこと。決闘だけでなく、戦い全体に通じる一つの普遍的な原理である。
「────無制限一本勝負、はじめっ!」
銅鑼の音が空気を震わせるのとほぼ同時に二人は飛び出した。甲高い金属音と共に火花が飛び散る。
「……速いっ!」
シアルフィの騎士ノイッシュが唸るように呟いた。
「あの姫様、なかなかやるな……」
同じくシアルフィの騎士アレクも感心している。
確かに、ラケシスの剣は速い。柔らかく手首を使って流れるように剣を繰り出してくる。体格が小さいというハンデを小回りが利くという利点に変えて、ひらりひらりと舞う様はそのたびに翻る薔薇色のマントとあいまってまるでワルツを踊っているようだ。
「でも……」
言いかけたシアルフィの重騎士アーダンの言葉の後半を、隣にいたイザークの王女アイラが引き取った。
「奴も、すべてかわしている」
そう。その変幻自在のラケシスの攻撃を、ベオウルフはすべて受け流しているのだ。ここまで彼はただの一合たりとも打ち込んではいない。
「……このままでは王女の負けだ」
エバンス城で剣闘士をしていたホリンが低く呟いたとき、剣を払われたラケシスがよろめきながら数歩下がった。ベオウルフは呼吸一つ乱さずにその姿を見返しながら、内心舌を巻いている。
(意外にやるじゃねえか)
さすがはエルトシャンの妹といったところか。素地はすでにできている。その気にさえなればこの場で決闘を見物している騎士たちよりはるかに強くなれるだろう。非力さを補って余りある俊敏さは立派な武器だ。
何より、目がいい。圧倒的な力量差を見せ付けられてもあきらめずに睨み返してくる真っ直ぐな瞳は爽快ですらある。だが、そろそろ潮時だった。このあたりで引導を渡すべきだろう。ベオウルフはにやりと笑って声をかけた。
「どうした、姫さん。もう降参かい?」
「……まだまだですわ!それに、私にはラケシスという名があります!そのような呼び方は失礼でしょう!」
「あいにくだったな。俺は一人前と認めた相手以外は名前で呼ばねえことにしてんだ」
「何ですって!?」
上気していた頬がさっと紅潮する。狙いどおり、挑発に乗ってきたようだ。
気合をひとつ発して、彼女は剣を繰り出した。鈍い金属音と共にベオウルフが受け止め、押し返す。それを、彼女は刃の上を滑らせるようにして受け流した。
「っ!?」
その瞬間、小柄なラケシスの身体はいとも簡単に懐に飛び込んできた。脳裏にはじけた記憶。それは、懐かしいアグスティの闘技場での一コマだ。こんな感じでエルトシャンの懐に飛び込んで、そして……
繰り出された剣を、とっさに出した手で受け止めた。瞬間、ぱっと鮮血が飛び散る。生々しいそれにラケシスは息を呑んだようだった。その耳元で、ベオウルフは低く囁いた。
「……すきあり、だ」
鳩尾に軽い当身を入れる。それだけで、少女の身体はかくん、と力を失った。
「姫様!」
悲鳴のようなパラディンたちの声を無視して彼女の体を抱きとめたベオウルフはシグルドを振り返った。
「ってことだ。俺の勝ちでいいな?」
「あ、ああ」
「俺はこのじゃじゃ馬を部屋に運んどくから、後は適当に収めといてくれや。おう、こいつの部屋はどこなんだ?」
女性陣を向いて尋ねると、エスリンが進み出てきた。
「では私がご案内しますね」
「あんたは?」
「シアルフィ元公女、現在はレンスター王子キュアンの妻で、エスリンと申します。お兄様、いいわよね?」
シグルドが苦笑して答える。
「ああ、頼む」
にこりと微笑んで歩き出したエスリンの後に、ラケシスを抱き上げたベオウルフが続く。後を追いかけようとしたイーヴたちをシグルドとキュアンが制するのを肩越しに見やって、ベオウルフは後ろ手にドアを閉めたのだった。
やはりというかなんと言うか、甲冑を身につけていてもラケシスはひどく軽かった。ベッドにおろしたところでマントに血の痕をつけてしまったことに気づき、少し反省する。そのまま部屋を後にしようとしたベオウルフをエスリンが呼び止めた。
「あ、ちょっと待って」
「何だ?」
「その手。刃のない剣でも、素手で受け止めたりしたら大変だわ。治しておいた方がいいでしょう?」
ライブの杖を持ってにっこりと笑う彼女に、ベオウルフは肩をすくめて手を差し出した。
「……目ざといな。気づかれてないと思ってたぜ」
「これでも一児の母ですもの。それでなくてもお兄様やキュアンはすぐ無茶をするから、気をつけていないとだめなの」
「へえ、子持ちか?キュアン殿もすみにおけねえや。こんな若くてきれいな奥方に子供まで生ませてるたあな」
「まあ、お上手ね」
くすりと笑って、エスリンはライブの杖をかまえた。
宝玉が放つ癒しの光はたちまちのうちに手の傷を治してしまった。目を閉じていたエスリンが顔を上げてにこりと笑う。
「さあ、これでもう大丈夫よ」
「助かったぜ。これでも一応大事な商売道具だからな」
「どういたしまして。でも、ちょっと意外な感じだわ」
「何が?」
「正直言って、あなたがそんなに他人を気遣う方だとは思ってなかったから」
「……は?」
意外な台詞に思わず顔を上げると、笑顔にぶつかった。シグルドとは正直似ていない兄妹だと思ったものだが、不思議と笑ったときの雰囲気だけはよく似ている。もっとも、この妹の方がかなりしっかり者であるようだが。
そのしっかり者の妹はやっぱり笑顔のまま言葉を続けた。
「そうでしょう?憎まれ口を叩くふりをしてラケシスの暴走を止めてくれたり、彼女が傷つかないよう気を配ってあげたり。普通はなかなかできないことよ」
真摯に向けられる言葉に、ベオウルフは押し黙った。
『いい人』なんてろくなもんじゃない。言われたところでくすぐったいだけだし、柄でもない。金で雇われている雇い主と深い関わりをもつ気もなかった。いっそ嫌われるか、さもなくば煙たがられてでもいたほうが後々楽でもある。だからいつも、周囲を突き放してきた。今度もそのつもりで口を開く。
「……よしてくれよ。俺はこいつの兄貴に借りがあるんだ。そいつを返してえだけさ」
皮肉な笑みを浮かべて否定する。だが、それに対するエスリンの反応は彼の予想を越えていた。
「まあ、では照れ屋なのね?面と向かって御礼を言われたりするのが苦手なんだわ」
「……おい?」
「道理であのエルトシャン様までが気に入られるわけね。皆そろいもそろって他人に媚を売る人間が大嫌いなんだから」
「あのな……」
自分の説にうんうんと一人納得するエスリンにあきれ返って口をはさもうとするが、まるで聞く耳を持たないのが彼女だ。
「では私はエーディンを呼びに行ってくるから、しばらく彼女を見ていてくださる?」
「なっ、おい!」
呼び止める間もなく部屋を出て行くエスリンの後姿を、ベオウルフは唖然として見送ったのだった。
あの夫にしてあの妻あり。いや、実は逆なのか?相手に否定する暇すら与えない強引さは確かに不快なものではないが、しかし……
などとぐるぐる考えていたところへ、ノックの音がした。さっきの今で戻ってくるとは考えにくい。恐る恐るドアを開けると、そこに立っていたのはエスリンでもエーディンでもなく、シグルドだった。
「よお、司令官殿じゃねえか」
「やあ、ラケシスはどうだ?」
「姫さんならまだおねんね中だぜ。そんなに強く殴ったわけじゃねえからもうすぐ気がつくと思うがな」
「そうか、それはよかった」
妹より少しやわらかい笑顔を浮かべて入ってきたシグルドは、ベッドに寝かされたままのラケシスを見やってポツリと呟いた。
「このままおとなしくあきらめてくれるといいんだが……」
苦笑交じりの台詞は、そうはならないだろうとわかりきっているからこその言葉だ。それはベオウルフも同感だったが、彼には別の考えもある。
「そのことなんだが……俺は連れて行ったほうがいいんじゃねえかと思うんだがな」
「え?し、しかし……」
「もちろん、前線には出せねえ。杖がちったぁ使えるらしいから後方待機ってことでよ。そうでもしねえと、目ぇ離したらまた暴走すんぜ?」
「……確かに……」
「それに、筋は悪くねえ。まともに練習すりゃすぐ強くなれるだろうさ。当人にその気があれば、だが……いつまでも甘やかしとくわけにゃいかねえだろ?」
最後に低い声で言った言葉にシグルドがさっと表情を変えた。
確かにそうだ。エルトシャンが囚われている今、彼女はノディオン王国を代表する身なのだ。それに……考えたくもないが、最悪彼の救出に失敗した場合は文字通り母国を背負わねばならない。もはや何も知らぬままではいられないのだ。
やがて、シグルドは深いため息をついた。
「……わかった。連れて行こう。その代わり、彼女の護衛を頼むよ」
「ああ。奴にはかりがあるからな。まあ、きっちり守ってやるさ」