レックスは自室のベッドに横たわったまま眠れぬ夜を過ごしていた。
昼間の一件を鑑みるにグランベル側が手段を選ばないだろうことは明らかだった。ひょっとすると弁明の機会など最初から与えられていないのかもしれない。何か反論すればそこから難癖をつけて一気に叩き潰してしまうのが本来の目的なのかもしれない。いざそういう段になって、はたしてあの父にとって自分がいることは障害になりうるだろうか。
(親父……か)
ランゴバルト。十二聖戦士の一人ネールの直系たるドズル家当主。聖斧スワンチカの継承者にしてその膂力はグランベル一とも謳われる豪腕の戦士だ。いかつい外見にふさわしい頑固なその性格は息子の自分が一番よく知っている。一般に強欲とさえ称されるその政治手腕の基盤がただひたすらにドズル家のためであることも。
彼は、良くも悪くも古い時代の戦士だった。戦うことこそが己の存在価値であり、それを奪われ平和のうちに朽ちていくことが耐えられない。ゆえに、戦場でこそ彼は本来の力を発揮する。そして、何よりも己の家名こそが大切なのだ。そのために何をも犠牲にできるほどに。
だからといって、彼が情に薄い人間であるということはない。むしろ、ランゴバルトは誰よりも情に厚い男だ。だが鉄の意志でその情を制御することができるがゆえに、周囲には冷たい人間と思われがちだった。今にして思えば、彼を本当に理解していたのは25年前自分が生まれた際に他界した母ただ一人だったのかもしれない。
帰参を促すということは、まだ自分は見捨てられてはいないのかもしれない。だが自分にここを離れるつもりがないと知れば、一片の躊躇もなく父は自分を切り捨てるだろう。ドズル家のために。レックスにはそれがわかっている。
ならば、自分にできることは何か。ただひとつしかない。はっきりと己の意思を示すこと。
故郷の風景が脳裏を掠めた。遠くかすむ山。どこまでも広がる緑の草原。そこを治める領主同様無骨で、それでいて優しい自然。切り捨てるには痛みを伴うそれらの光景は、だが自分を引き止める鎖にはなり得ない。その脳裏を占めるのは、ただひとつの存在だけだ。流れる黒髪と強い意志を秘めた黒曜石の瞳。流麗なその剣であまたの死体を生み出す戦場の女神アイラ。あの存在に自分は身も心も、魂さえも奪われてしまったのだから。
そのアイラは、どうやら事態にうすうす気がついているようでなにか尋ねたそうにしていた。夕食の席では思いつめたように声をかけてきたが、ちょうど現れたベオウルフに話し掛けるふりをして誤魔化してしまった。
(何を言えってんだよ)
今の段階で自分に言えることは何もない。寄せ手の先頭に立っているのが自分の父親で、しかも彼女の父親の仇であると告げればよいのか?そんなことが言えるはずもない。ここに残ると告げることで同情を買いたいわけではないのだ。望むのは、堂々と胸を張って彼女の前に立てる自分でありつづけることだけだ。
寝返りを打つ瞬間、気配に気づいた。開け放たれた窓の外、ベランダの前。誰かが、いる。
レックスは身を横たえたまま、口元をゆがめて言った。
「……何だ、寝こみを襲う気か?かわいい娘相手ならそれもありかもしれんが、あいにく俺は男だぞ。部屋を間違えたならさっさとよそに行くんだな」
気配が揺れる。カーテンの陰から姿を現したのは、先日彼らの元を訪れた男だった。
「公子様もお人が悪い……」
そう呟いて苦笑する男を、レックスはじろりと見た。
「回答の刻限は明日の早朝じゃなかったのか?」
「深夜の脱出には何かと手間もかかりましょう。微力ながら助力を申し出たく思いまして」
「嘘つけ。昼間ティルテュをさらいに来た奴らが失敗したのを聞いて来たんだろうが」
アゼルとティルテュを襲った奴らのことはレックスも聞き及んでいる。それが明らかにフリージ家の手の者であった以上、レックスの元へも同様のことが起きるのはもはや必然といえた。窓の下には一個小隊が控えているかもしれない。
レックスの返答に、男は唇をゆがめた。
「……ご理解いただけているのなら話は早い。さあ、早くお支度を」
「断る……と言ったら?」
「ご冗談を……お父上のお心が理解できぬ公子さまではありますまい。兄上のダナン様も海岸でお待ちです。この上は早く……」
「強欲親父の考えることなんざ理解できるわけねえだろ」
わざと荒い言葉を使うレックスに、男が眉を跳ね上げる。
「レックス様。いくら血のつながった実のお子とはいえその言葉は不敬にあたりますぞ」
「強欲を強欲といってどこが悪い?自分の国だけじゃ飽き足らずによその国まで欲しがってわざわざ戦争を仕掛けているんだぞ?これで自分に正義があるなんてよく言えたもんだ」
「レックス様!」
声を高めた男に、レックスは獰猛に笑った。
「おっと、大声を出していいのか?見張りに気づかれるぞ。今なら見逃してやる。命が惜しければ尻尾を巻いて逃げ帰れ。そこの下にいる奴らと一緒にな」
男の顔に見る見るうちに血が上っていくのを、レックスは冷静に見やった。後ろ手に、使い慣れて手に馴染んだ勇者の斧を手繰り寄せることも忘れない。
「……もはや説得の余地はないとおっしゃるか」
「他に曲解のしようはないな」
嘯くレックスに、男は頬を引きつらせて腰の斧を抜き放った。
「では、お覚悟召されよ。ランゴバルト様には『言うことを聞かぬ場合は死体を持ち帰れ』と厳命されております。公子様相手とはいえ手加減はいたしませぬぞ!」
予想通りの反応に、レックスは頬をゆがめた。
「おまえ程度に手加減されるほど落ちぶれた覚えはないんだがな。この斧はおまえが想像もつかないほど多くの人間の血を吸ってきている。その切れ味、自分の身体で試してみるか?」
「できるものならやって見せられよ!」
「ああ、見せてやるさ。ただし、ここ以外でな!」
男の一瞬の隙をついてレックスは窓の外に飛び出した。できれば、誰にも気づかれずにことを済ませたい。この騒ぎで何人かは気がついたかもしれないが、とにかく今は場所を変えることが先決だった。
「待たれよ!逃げるとは卑怯な……!」
「自信があるなら追ってこい!」
下では予想通り一個小隊が待ち構えていたが、突然レックスが現れたことでかなり動揺したらしく隊列を乱した。その隙にレックスは手近な一人を斧の柄で叩き落して馬を奪い、またがった。突然のことに嘶きを上げて前足を跳ね上げる馬を手綱をさばいて制御し、すぐさま身を翻す。
「追え、追うのだ!」
朝日がまだ地平線の向こうにすら顔を見せぬ頃。自室の扉をノックする音で目覚めたアゼルは、ベッドの中で拳を握った。
昼間襲ってきた部隊のことを思い出すと結局一睡もできなかった。恐らく兄アルヴィスは彼らに強引にでも自分を連れ戻すように言い含めたのだろう。加減はまったくなかった。昼間はかろうじて撃退に成功したが、彼らがいつまた襲い掛かってくるかもわからない。そして、襲撃には夜半を過ぎた現在の時刻が最も効果的なのだ。
掌が自然に熱くなる。意識とは別のところで炎の魔力が全身に満ちていくのがわかる。アゼルは息を殺して相手の反応を待った。
彼の危惧を破ったのは、ドアの外から聞こえてきた声だった。
「……アゼル、起きているか?」
なるべく周囲に聞こえぬように声を潜めてはいたが、ややトーンの低い女性の声は確かに聞き覚えがあった。親友が思いを寄せている女性がまだ深夜と言ってもよい時間帯に自室を訪れるという珍事にアゼルはやや混乱しながら返答を返した。
「……起きてるよ。アイラ、どうしたの?」
「ちょっと話があるのだが」
こんな時間に話とは穏やかでない。アゼルはそっと身体を起こし、廊下に続くドアを開けた。
「すまない、こんな時間に」
小さく頭を下げる稀代の剣士にして美貌の女性は、ろくな睡眠が取れていない証拠にその白い面に疲労の色を濃く滲ませていた。アゼルが中に入るように促すと、少し戸惑ってから従う。何かの間違いで人目についてはあらぬ噂の種にされかねない。
「いや、かまわないけど……何かあったの?」
温かい飲み物を差し出しながらあたりまえの問いを発したアゼルを、アイラはひたりと見据えて口を開いた。
「……グランベル本国から使いが来たというのは本当か?」
単刀直入に、ずばりと切り込まれて、アゼルは言葉を失った。
アイラの母国イザークはグランベルの侵攻により滅亡した。国の形こそ失っていないが国王もその王子も討たれ、王族の生き残りは彼女と彼女の兄、つまり王太子の息子であるシャナンのみだ。その元凶となる事実を作ったのが実はグランベル側であったことも彼らの内密の調査によって明らかになっていた。そして、それを直接指示したのが彼の親友レックスの父親であることが、事態を複雑にしている。
レックスは、アイラに思いを寄せていた。アイラ自身も、彼のことを憎からず思っているのは間違いない。だが彼らは互いに思いを伝えていない。不器用な二人の不器用な恋を時代背景がさらに複雑化している形である。
アゼルは迷った。もしレックスが何も言っていないとしたら。自分がそれを告げてしまってよいのだろうか。
「アイラ、それは……」
「本当なんだな?」
漆黒の双眸がまっすぐに見つめ返してくる。
ごまかしはきかない。そう直感して、アゼルは小さく息をついた。
「……事実だよ。どこまで知ってるの?」
「アグストリア方面からグランベルの大軍が押し寄せている。その軍の大将は、レックスとティルテュの父上だそうだな」
「うん。それで?」
「奴らは君たち三人の身柄の引渡しと即時投降を呼びかけていると聞いた。……私が知っているのはそこまでだ」
「それでどうして僕のところに?」
「レックスの姿が見えない」
核心に至る返答に、アゼルはひゅっと息を呑んだ。
アイラは俯いている。声にも、抑揚がない。
「……様子がおかしいことには気づいていた。夕食の席で問いただそうとしたがはぐらかされて逃げられた。夜なら逃げられないだろうと思って部屋を訪ねてみたんだが、室内からなにやら物音がして……」
「レックスはいなかったと?」
こくり、と頷くアイラにアゼルはちょっと困ったように視線をそらした。
彼女にとって重要な質問であることはわかる。わかるのだがしかし、自分に思いを寄せているとわかっている男の部屋を夜訪れるというのはいかがなものだろうか。少なくともグランベルでは考えられない、はしたないと言われても仕方のない振る舞いであることは間違いない。
そんなアゼルの考えには思いも至らないのだろう。アイラは小さな声で続けた。
「……おまえたちがどうしようと私がどうこう言える話ではないことはわかっている。わかっているが……ちゃんと言ってもらえないのは、苦しいんだ」
「アイラ……」
胸をつかれたような気がした。黙り込んだアゼルに、アイラがふわりと笑う。
「……すまない。柄にもなく少し動揺してしまったようだ。こんな朝早くに悪かったな。失礼した」
そのまま身を翻し出て行こうとする細い背中に、アゼルは呟くように言った。
「……海岸だよ」
「アゼル?」
「返答は今日の早朝、日が昇るまでに海岸で伝えることになってるんだ。だから、レックスがいるとしたら海岸だと思う」
「……それは……」
「アイラ……僕にはたいしたことはいえない。けど、レックスの親友として言う。彼を信じてあげてくれないか」
「……それは、追うなと言う意味か?」
視線を上げて問うたアイラに、アゼルは小さく首を振った。
「いや。アイラが自分の目で確かめたいというならそれはそれで正しいことなんだと思う。ただ、……ただ、彼が君に対して言った言葉を信じてあげてほしいんだ」
「……わかった」
口元に小さな笑みを閃かせて扉の向こうに消えたアイラを、アゼルは祈るように見つめていた。
***
薄暗い森を一頭の馬が疾駆する。鞍上に座したレックスは秋の早朝の冷たい風に髪をなぶられるままに不思議なほど穏やかな表情で前を見つめていた。
追っ手はオーガヒルの砦をわずかに離れた森の入り口でうまく撒いた。土地勘があり、地理に明るい彼の手にかかれば不慣れな追っ手を撒くことなど造作もないことだった。たとえ戦ったとしても、6対1という不利を撥ね退けて勝利する自信がレックスにはある。アゼルと同じくシグルド軍の中核を担う存在として斧騎士部隊を率いて常に前線で戦ってきた今の自分には、本国で腕を鍛えるでもなくのうのうと平和を貪っていた騎士たちなど敵ではなかっただろう。だが、ただ盲目に上に従っているだけの本国の兵士を手にかけることはできれば避けたかった。こんな時になって、キュアンの言葉が脳裏に蘇る。
『強制はしないよ。自国の軍隊を相手に戦えと言うのは酷な話だ』
今まで散々他人の命を奪ってきたくせに、自分の国の人間とは戦えないなんて。これではシグルドのことを笑えない。自分もまだまだ甘いということだろうか。
やがて森が開け、眼前に海が広がった。遠くかすんで見えるのは対岸のマディノ城。さらに南西にかすんでいるのはあれはブラギの塔だろうか。どちらにせよ今の自分に用のある場所ではない。
海岸には、小さな船が待機していた。その前に立っているのは―――レックスの予想したとおりの人物だった。
「ダナン兄貴!」
馬上から呼ばわると、父ランゴバルトによく似た荒削りで男くさい貌がふいとこちらを見て破顔した。
「よく来たな、このいたずら小僧めが」
相変わらずの物言いにレックスは苦笑しながら馬を下りた。
「小僧は酷いな。俺ももう25だぞ」
「25にもなってまだ身を固めないような男は小僧で十分だ。身長ばかりでかくなりおって……母上に似ているのはもはやその髪だけだな」
「それは俺のせいじゃない。親父殿に言ってくれ」
「言ったな、こいつ!」
豪快に笑ってダナンは加減のない力で弟の方をバンバンと叩いた。
豪放磊落。まさにその表現が似合う七つ年上のこの兄が、レックスは好きだった。ここに厳格さが加わって頑固オヤジ風の変化を遂げればそのままランゴバルトになるのかもしれない。だがダナンは父親よりもやや思慮の浅いところがあり、その分だけ情が深かった。生まれて間もなく母親を失った自分ともいささか乱暴ではあったがよく遊んでくれた。この兄が聖斧スワンチカの継承者であることをどれだけ誇りに思ったか知れない。
「それで、どうなんだ。決心はついたのか?それにしてはアゼル公子やティルテュ公女の姿が見えぬようだが……」
予想通りの問いを向けてくる兄を、まっすぐ見つめる。
小さく息を吸い、吐いて。レックスはその言葉を口にした。
「……兄貴……いや、兄者。俺は、戻る気はない」
「レックス?」
「アゼルやティルテュともよく話し合った結果だ。俺たちは、この軍を離れる気はない。戻って親父殿にそう伝えてくれないか」
笑みを浮かべていた顔が見る見るうちに鋭くなる。目を眇めて、ダナンは睨むように弟を見た。
「……正気か?」
「ああ。親父殿や兄者にドズルが捨てられぬように俺にも捨てられぬものがある。いや、できてしまった。だから、ここを離れるわけには行かない」
「何だ?女か?おまえほどの男なら国許に帰ってもいくらでもいい女が寄ってくるだろう」
簡単に言い当てられてレックスは苦笑した。
「兄者は鋭いな……ダメだよ。あんないい女は国中どこを探したって見つからない」
「レックス!」
ダナンが声を荒げる。幼い頃、どんな悪さをしてもその声で兄に叱られるととたんに意地もくじけたものだった。だが今日ばかりは意志を曲げるわけには行かない。レックスは静かに兄を見つめた。
強情な弟に、ダナンは眉を寄せた。
「……親父殿が悲しむぞ。あの人がどれだけおまえを愛してきたか、知らないわけではあるまいに……」
「ああ。俺だって親父殿のことは尊敬している。でも……俺は、ここにいたことをなかったことにはできない」
「レックス……」
「最初は確かにアゼルのおまけのつもりだった。ユングヴィのエーディン公女を救い出したら、さっさと国に帰るつもりだったんだ。でも、そこで俺はあいつに出会っちまった」
「では、その女も連れて帰ればいい。戦場を連れ歩くよりも国に帰って正式に結婚して、親父殿に孫の顔でも見せてやれ」
レックスはゆっくりと首を振る。
「無理だよ、兄者。あいつは、戦場でこそ輝く女だから……」
「何?」
「兄者の下にも聞こえているだろう?『戦女神』の異名を持つイザークの王女の名は」
ダナンが息を呑んだのがはっきりと伝わってきた。
「レックス……おまえ」
「そういうわけだ。どんな理由があれ、俺は親父殿がしたことを許せそうにない。だから、国には帰れない。……たとえ、ここで兄者と戦うことになっても」
そう言いながら、レックスの手は動く気配を見せない。ダナンは目を眇めて、腰に挿した銀の斧を抜き放った。
「……覚悟はできているんだな?」
「ああ」
「では、斧を取れ。その覚悟を確かめてやる」
言い放ったダナンに、レックスは小さく頷いた。
鍛錬や模擬試合をあわせてもこの兄と斧を交えた回数は両手の指に及ばないが、彼我の実力差は明らかだった。相手は聖斧スワンチカの正当な継承者だ。同じくネールの血を引くとはいえ、傍系の自分が叶う相手ではないことをレックスは身にしみて理解していた。それでも、斧を取らねばならないということもまた確かで。不器用な自分たちは、刃を交えることでしか理解しあえないのだ。
腰から抜き放った勇者の斧を見て、ダナンが笑った。
「いい斧だな。どこで手に入れた?」
「ヴェルダンの湖に鉄の斧を落としたら、精霊が出てきて正直者の証にくれた……と言ったら、信じるか?」
「ふん、おまえらしいな。だが、おもしろい。では久しぶりに手合わせと行くか!」
ガキン、と鈍い音を立てて刃が打ち合わされた。
斧同士の戦いは腕力勝負になりがちと一般には目されている。それは一面では事実で、それはこの無骨な武器が力をこめて振り下ろすことでもっとも威力を発揮するからなのだが、そればかりが能ではないのもまた一面の事実である。聖戦士ネールの血を引くレックスは常人よりもはるかに腕力に優れていたが、それでもダナンには及ばない。だが剣士が多いシグルド軍で修行を積んできた彼は力に頼らない戦い方をその身に叩き込んでいた。
打ち下ろされる銀の斧は凄まじい破壊力を誇る。それをレックスは斧の柄を利用してうまく受け流す。そうすると、力があるがゆえにダナンはバランスを崩し、その隙にレックスは攻撃を仕掛ける。斧にしては軽量の勇者の斧だからこそできる技だ。一合、二合と打ち合ううちにダナンもそれに気づいたようで、口の端を吊り上げて笑った。
「ふん、腕を上げたなレックス!」
「なんの、まだまだ!」
レックスも笑う。不謹慎だと思われるかもしれないが、この兄と刃を交えるのは本当に楽しい。ここが稽古の場ではなく、その手にしているのが刃をつぶした模擬用ではなく戦場で用いる実戦用の武器であることを差し引いても、真剣勝負の場であることには変わりない。
一方のダナンも、背筋がぞくぞくするような感覚を味わっていた。確かに力はやや劣る。だがそれ以上に技が多彩だ。この弟は、本当に腕を上げた。昔は強引に力で対抗しようとして二合と打ち合わないうちに斧を飛ばされていたのに、うまくこちらの攻撃を受け流して反撃に転じてくる。気が抜けない。そのことが、ダナンの戦士の血を滾らせる。
何度目かに打ち合って、二人は左右にさっと分かれた。
互いに息を整える。楽しんで戦えるのはここまで。あとは、互いの命を奪うために斧を振るう。
じり、と互いに動いた、その時だった。
「ダナン様!」
森の向こうからばらばらと姿を現したのは、先ほど撒いてきたはずの追っ手だった。よく考えれば相手が見つからないなら出発点でもあるここへ戻ってくるのは当たり前の話だ。それを今まで失念していた自分に、レックスは舌打ちした。
男たちはレックスを見るなり顔色を変えて腰の斧を抜き放った。
「助勢仕ります!」
「な……いらぬ、余計な世話だ!」
ダナンが叫び返すが、わずかに遅い。兵士の手を離れた手斧がレックスの頬を掠める。その間に、男たちはわらわらと周囲を取り囲んだ。
「もう逃げられませぬぞ!」
「お父上への暴言ばかりか、兄上にまで刃を向けられるなど……恥を知られませい!」
口々に叫ぶ男たちを、ダナンが一喝する。
「手を出すな!」
「ダナン様!?」
「余計な世話だと申しておろう!これは俺の戦いだ!」
ダナンの剣幕に、男たちは一瞬怯んだ。だが先頭の一人が顔をゆがめて叫び返す。
「ドズルの継承者たるあなたが裏切り者の血で斧を汚す必要はありませぬ!これはお父上も了承済みのことです!」
「なに、親父殿が……?!」
「さよう。もし帰参を拒むことあらばその場で始末せよとの仰せです。ここは我らに任せられませい」
「何をバカなことを……これは俺の弟だ!兄が弟の始末をつけることの何が悪い!」
「先ほども申し上げました。ドズルの次期当主たるあなた様がその斧を汚されることはない、と」
ダナンが言葉に詰まる。その間にも、男たちはじりじりと包囲の輪を狭めてくる。レックスの背筋を冷や汗が伝った、その時。
「―――レックス!!」
鋭い声が朝もやを切り裂いた。黒い影が風を切るスピードで眼前を掠める。
「ぐあ!」
「がっ!」
短い悲鳴が同時にいくつも上がった。周囲を取り囲んでいた男たちが血飛沫を上げて転がる様を、レックスは呆然と見た。6人をあっという間に切り伏せる早業。そんなことができるのは―――彼女しかいない。
「……アイラ……?」
それでもなお自分の目が信じられずに呆然と名を呼ぶ。その傍らにぴたりと身を寄せたアイラは、低い声でその失態を厳しく叱った。
「何をぼうっとしている!死にたいのか!?」
「あ、いや……その、これは」
慌てて弁解しようとするが、彼女の鋭い視線は既に目の前のダナンに向けられている。
「あれも、敵なのか?他の雑魚どもとは雰囲気がずいぶん違うようだが……」
呆然としていたのはダナンも同じだったが、向けられる殺気に我に返った様子で口の端を吊り上げて笑う。
「凄まじい剣技だな……レックス、その女か?」
意味のわからない問いにアイラが顔をしかめる。レックスは笑って頷いた。
「ああ。いい女だろ?」
「レックス、何の話だ?」
「ふん、確かにな。しかし体型がガキくさいぞ。おまえ、宗旨変えしたのか?」
「こいつはこれがいいんだ」
「おい、レックス」
「ベタ惚れというわけか……とっくにモノにしたんだろうな?」
「いや、残念ながらまだ」
「おい」
「何だ、意気地のない。ドズルの血が泣くぞ」
「さっさと押し倒せって?首に剣を突きつけられてか?俺はまだ死にたくないぜ」
「おい!!」
頭上で交わされるわけのわからない会話に、ついに堪忍袋の緒が切れたらしいアイラがレックスの襟首を引っつかんだ。
「いいかげんにしろ!こいつは誰だ、いったい何の話をしている!」
その様子に、堪えかねた様子でダナンが吹き出した。
「くっくっく……おもしろい。確かに国には絶対にいないタイプの女だ。さすがは『死神』の異名をとるだけはある、か」
その台詞にアイラの全身にさっと緊張が走った。その呼び名を使うのはグランベル軍だけだ。今にも剣を抜きそうなアイラの手に、レックスはそっと自分の手を重ねた。
「その生きの良さに免じて俺から名乗ってやろう。俺の名はダナン。ドズル家の嫡男だ」
「……!」
ギョッとして、アイラは思わずレックスの顔を見上げた。
「似てないだろう?だが確かにその男は俺の弟だ。あいにくと、俺は父親似でな。綺麗に遺伝子が分かれてくれたわ」
「兄者、そういう話では……」
「その横着者を引きずってでも連れ帰るつもりで来たが……確かに、こんな美女が傍らにいては動きたくもなかろう」
「兄者」
ちょっとふてくされたようにレックスは兄を呼んだ。アイラは、何かを探るように目の前の男を見つめている。
肩をすくめて、ダナンは手にしていた銀の斧を腰に戻した。
「ふん、やる気がうせた。後は親父殿に任せるとしよう」
「兄者……?」
「どこへなりと行け。これから冬を迎える寒いときにこれ以上寒いところへなど行っておれぬわ」
謎かけのような言葉に、レックスははっとする。
北には、何がある?シレジア王国だ。レヴィン王子の故郷。これから極寒の冬を迎えるユグドラルで最も厳しい自然に囲まれた天馬の国。南のレンスター及びトラキアと並んでいまだグランベル王国の力が及んでいない中立国。ダナンはそこへ行けと言っているのだ。
くるりと背を向けたダナンの後ろ姿を、二人は凝然と見送った。
微妙な沈黙を、先に破ったのはアイラだった。
「……あれが、おまえの兄上なのか」
一瞬呼吸を止めて。レックスは、静かに頷いた。
「……ああ。聖斧スワンチカの継承者だ。俺は、たとえ剣士と戦っても自分が負けるとは思わない。でも、あの兄貴にだけは勝てる気がしないんだ」
それは、血の故ではなく。背負うものの差なのだろうと、レックスは思う。公爵家の次男として周囲に傅かれながら遊びまわっていた自分と、早い時期に聖痕が現れたことで父ランゴバルトの片腕として手腕を振るっていた兄とでは、心構えが違う。
静かに目を閉じるレックスを、アイラは横目で見て呟いた。
「自信家のおまえらしくもない言葉だな」
「仕方がない。これが、俺と兄貴の差なんだ」
ふっと目を開けて、レックスは寂しげに笑った。
「アイラ……俺を、バカだと思うか?命を狙ってきたこいつらを、斬ることができなかった俺を……」
周囲に倒れ伏している、既に事切れたドズルの兵士たちを指差す。
「笑っちまうだろう?戦場であれだけ人を殺してきたこの俺が、相手が自分の国の人間だと思うだけで斧を向けることができなかったんだ。自分の国と戦うってことがどういうことなのか、俺はちっともわかっちゃいなかったんだ……」
「……レックス」
「軽蔑してくれていい。俺は、おまえを好きだと言いながらおまえの国を滅ぼした俺の親父を憎むこともできないんだ……これではシグルド公子のことを笑えないよな……」
自嘲気味の笑みを口元に刻む。
アイラはしばらく黙っていた。やがて、手にした勇者の剣を鞘に収めて隣に立つ男を見上げる。
黒曜石の瞳をまっすぐに向けて、彼女は口を開いた。
「……バカな男だとは思っていたが、ここまでとは思わなかったぞ」
傷心に止めを刺すような言葉に、レックスの口元がわずかに引きつる。それを気にした様子もなく、アイラは言葉を続けた。
「自分の親をそう簡単に憎めるはずがないだろう。おまえの反応が正常なんだ。軽蔑などするものか」
「……アイラ」
「正直に言う。私は、おまえの父親が憎い。私の帰る国を、私の家族を奪った男を許すことはできない。……でも、おまえがその父親を憎めないことは当たり前のことだし、……矛盾するかもしれないが……嬉しいとも思う」
「え……」
「おまえが、その……家族を簡単に切り捨てられない男だということがわかって、嬉しい。……私は言葉がうまくないから、どういう言い方をしたらうまく伝わるのか、よくわからないんだが……」
目をそむけて俯いたアイラを、レックスは呆然と見た。
身長は、さほど大きくない方だとは思っていた。だが、彼女がこんなに小さく見えたのは初めてだった。震える手を差し伸べて、そっとその肩を抱き寄せる。
いつもならすぐに跳ね除けて飛び退るのに、今日は動かない。引き寄せられるままに腕の中に収まった身体を信じられない思いで、それでも手放すことができずに抱きしめた。
「アイラ……俺は、おまえが好きだ。ここに残る理由は、もちろんそれだけではないが……おまえの側にいたい」
俯いたまま、アイラはレックスの肩にこつんと額を載せる。
「……私も、嫌いではない……と、思う。でも……好きかと聞かれれば、わからない」
「わからない?」
「……私は、小さい頃から剣ばかり振るってきたから……男女の感情の機微には疎い方でな。おまえに対するこの気持ちが、どういうものなのか……よく、わからないんだ」
レックスはふわりと笑った。子供のように無垢なアイラ。この愛すべき女は自分の感情に名前をつける術を知らないのだ。その笑顔を見て、アイラがむっとした顔をする。
「……笑うな、馬鹿者。私は真剣なんだぞ」
手を上げようとするのを制して、さらに抱きしめる。
「すまんすまん。……なあ、俺とこうしているのはいやか?」
再び頬を染めて、俯くアイラ。
「……いやじゃ、ない」
「なら、それでいいよ。今すぐに答えが欲しいわけじゃないんだ。だから……側に、いてもいいか?」
最後は囁くように尋ねた。
答えは、音にならなかった。剣を振るうそのしなやかな腕が背中に回されたことに気づいて、レックスは彼女を抱きしめる腕に力をこめた。