廊下を悠然と歩いていたレックスは、前方に幼なじみで親友の背中を発見して足を速めた。
「よう、アゼル」
声をかけると赤い髪の少年は一瞬驚いたように振り返ったが、大柄な親友を認めるとふわりと愛好を崩して答えた。
「何だ、レックスか。君もシグルド公子に呼ばれてきたの?」
ここはオーガヒル。海をはさんで対岸にマディノ城を臨む元は海賊の砦だった場所である。本来はアグストリアの出城だったものを海賊たちが守備隊を追い出して住み着いていたのだが、先ごろ彼らシグルド軍(グランベル軍と呼ぶには在籍者の国籍が多岐にわたるため便宜上自分たちでそう呼んでいる)が海賊を駆逐しひとまずの拠点としていた。アグストリア特産の真紅の絨毯が敷かれた広い廊下はそこが大広間、つまり軍司令官たるシグルドがいるはずの場所に通じるものだ。
「おう。も、ってことは、おまえもか?」
「うん。ティルテュも呼ばれているらしいよ。もうすぐくると思うけど」
もう一人の幼なじみの名にレックスは眉を寄せた。
「妙な組み合わせだな。いったい何の話だ?」
「さあ……行ってみればわかるよ、きっと」
「そりゃあたりまえだろ。ったく、おまえはどっかトボケてんだよなあ」
「失礼だな。レックスだって人のこと言えないじゃないか。戦いの前だろうがなんだろうがいつだってのんびり屋のくせに」
「何だと?言ったなこのやろ!」
ふざけてぐい、と首に腕を回すとアゼルは笑いながら身をよじった。
「冗談!冗談だよ!」
「いーや、そうは聞こえなかったぞ!てめえ本気で言いやがったろ!」
「わったった、ちょ、苦しいって!」
じたばたじたばた。
廊下でいささか過激なじゃれあいを続ける二人に背後から呆れたような声がかかった。
「まったく、あんたたちってほんっとに変わんないわよねー。バカをさらすのもいいかげんにしたら?」
長い銀髪をリボンでまとめた少女が腰に手を当ててこちらを睨んでいる。
「あ、ティルテュ!」
「なーんだこの雷娘が。おまえみたいなお天気ノーテンキにそんなこと言われる筋合いはねえぞ」
「何ですってこのバカ力!斧しか能がない腕力バカのくせにアゼルに触んないでよ!」
たちまちきりりと眉を吊り上げて怒鳴りだす少女に言われた本人ではなくアゼルが首をすくめる。彼女、ティルテュのかんしゃくがひとたび爆発するとその被害はけしかけた当人(レックス)ではなくもっぱらアゼルが受けるはめになるのだ。
それがわかっているレックスはアゼルの首に腕を回したまま唇の端を吊り上げてにやりと笑ってみせた。
「いやだね。俺たちゃ男同士にしかできねえスキンシップ中なんだ。そっちこそ邪魔すんなよ」
舌戦はたいていレックスに軍配が上がるのが常だ。そして言い負かされたティルテュが憤慨してアゼルに八つ当たりする。それがいつものパターンだった。だが、今回は様相が違うようだ。こめかみを引きつらせたティルテュはふふん、と鼻で笑って言った。
「あーら、そんなこと言ってていいの?あんたがご執心の黒髪の戦女神様にあることないこと言いふらしちゃうわよ?」
「な、何だと?」
「例えばぁ、ドズル家の公子様は両刀使いで女の人ばかりじゃなく男の人までお好みみたいです、とか?」
レックスは真っ青になった。彼が執心している女性は本当に冗談が通じないのだ。間違ってもそんなことを吹き込まれたりしたら身の破滅である。
「おい、冗談でも言うなよそんなこと!」
「んふふーん、どうしよっかなあ」
意味ありげに笑うティルテュにレックスは唸り声を上げた。
「ちくしょう……誰に聞いたんだよ」
「んーと、エーディン様とかぁ、エスリン様とかぁ、シルヴィアさんとかぁ、うーんと……あ、ラケシス様もおっしゃってたわよぉ。有名じゃない」
「あいつら〜〜〜……!」
口さがない女性たちにレックスが頭を抱える。一方のアゼルはといえば、列挙された中に含まれていたかつての憧れの女性の名にけっこうなショックを受けていたりした。
一方、初めて得た完全勝利の瞬間に酔いしれるティルテュは腰に手を当てて仁王立ちでびしっと指を突き出した。
「ってわけだから!さっさとその手を離しなさい!」
言うなりアゼルの腕を引っつかんでレックスから引き剥がす。まるで悪漢の腕から救い出される姫君のような己の状況にアゼルは運命をちょっとだけ呪いたくなった、らしい(未確認情報)。
「ったく、余計なこと吹き込んでくれるよなあ……」
すっかり腐ったレックス、背中を丸めて落ち込んでいる。その背中をよしよしと撫でてやったアゼルは、なにやら必死の形相で振り返られて思わずあとずさった。
「なあ、アゼル!やっぱこれって絶望か?俺ってアイラに嫌われてんのか?!」
「そ、そんなことはないよ」
どもりがちだがこれでも本心だ。アイラの態度は相変わらずそっけないがそれでもレックスが近づくことを嫌がっているわけではないことは雰囲気でわかる。そのくらいはいくらなんでも伝わっているのだろうに、この自信家の親友がこと彼女に関する部分だけはどうしたわけか普段の自信を失ってしまうのがおかしくて、アゼルは内心で笑いをこらえた。
「ほら、しゃんとして。これから行くところを忘れてない?シグルド公子が待ってるよ」
慰めるようにぽんぽん、と背中を叩いて彼がのろのろと立ち上がる様を確認する。それから幼なじみの少女を振り返ったアゼルはちょっと眉を寄せて言った。
「ティルテュも。レックスは真剣なんだから、笑い話にするようなことはしちゃだめだよ」
めっ、と叱られた銀髪の少女はぷうっと頬を膨らませた。
「何よぅ……あたしは、ただ」
アゼルにかまってほしいだけなのに。
とは素直に口に出せないティルテュである。
そんな彼女の内心には気づいていないのだろう。アゼルは眉間にしわを寄せたまま意思を確認する。
「いいね?」
「……わかったわよ。もう、アゼルったらいっつもレックスばっかりかばうんだから」
「そんなことないよ。さ、シグルド公子が呼んでる。行こう」
ぽんと背を叩かれ促されて、しぶしぶ後に従ったティルテュである。
数分後。彼らは大広間に続くドアの前にいた。
「ねえ……話って何なのかな」
さすがに緊張を隠せない様子でティルテュがどちらにともなく問う。
「おまえも一緒ってことは、戦いの話じゃなさそうだよな」
いつのまにか立ち直ったらしい(本当にタフだ)レックスが飄々と答える。むっとした様子でレックスを睨むティルテュに苦笑してアゼルがフォローを入れた。
「わからないけど、大事な話らしいから……さあ、行こう」
「あけるぞ」
彼らの中ではもっとも力に自信のあるレックスが扉に手をかける。それを制して、アゼルが声をかけた。
「ヴェルトマー家公子アゼル、ドズル家公子レックス、フリージ家公女ティルテュ、参上しました」
室内から司令官の柔和な声が返った。
「ご苦労様。入ってきてくれ」
レックスが頷いてドアを押し開けた。
そこにいたのは、軍の首脳と目される三人の人物だった。
一人はもちろん司令官のシアルフィ家公子シグルドである。武人らしからぬ穏やかで柔和な人柄の主だが先ごろマディノ城を攻め落とした際に最愛の妻ディアドラが行方不明となって以来ふさぎがちだった。
その隣に立つのが、レンスター王子キュアン。彼はシグルドの親友であり、グランベルを出た頃からの戦友でもある。もう一人の親友であったノディオン王家のエルトシャン王は先のシルベール城の戦いにおいてその命を無残に散らしていた。このアグストリアにおける一連の戦いは彼らにとって心痛以外の何者でもなかったに違いない。
今一人はシグルドの傍らで書類を広げているまだ若い少年だった。名をオイフェと言うこの少年は若年ながら卓越した戦略眼を有しており、この常勝軍の軍師を勤めている。
呼び出しを受けたのが自分たちだけであることを見て取ったレックスは小さく眉を寄せて問いかけた。
「シグルド公子、俺たちだけに呼び出しとは穏やかじゃないな。いったい何の用だ?」
「レックス……、ちゃんと敬語を使いなよ」
アゼルが慌てて制する。だがシグルドはゆっくり首を振って答えた。
「いや、アゼル、それには及ばないよ。レックスの疑問はもっともなものだ。だが、君たちだけを呼び出したことにはちゃんと理由があるんだ」
「じゃあまずそれを説明してもらおうか。俺やアゼルはともかくティルテュまで呼び出すからには何かあるんだろ?それも、あんまり嬉しくない理由が」
鋭い問いに、シグルドは苦笑した。
「察しがいいな……実はそのとおりなんだ」
「それって、私にも関係することなの?……ですか?」
口をはさんだティルテュを安心させるように頷いてみせる。
「ああ。……三人とも、落ち着いて聞いてほしい。アグストリアの国境付近にグランベルの大軍が押し寄せてきているそうだ。目的は……『反逆者シグルドとその一味の殲滅』らしい」
あまりに平板な声で告げられた意外すぎる話題に、彼らはとっさに反応し損ねた。
「……え?」
呆然とする彼らを尻目にシグルドは傍らのオイフェを振り返る。
「オイフェ、例の書状を」
「はい」
少年が差し出した書状をシグルドは無造作に広げてみせた。
「昨日、使者がやってきてね。この書状をおいていった。内容を読んでみるかい?」
どこか投げやりな台詞に違和感を感じつつもレックスがそれを受け取る。アゼルとティルテュがその両脇から覗き込んだ書状の内容は……
『シアルフィ家公子シグルド殿
グランベル国王アズムール陛下の名において通告する。貴殿と貴殿の父君バイロン卿が企てたクルト王子暗殺計画及び王家に対する反乱計画はすでに白日の下にさらされている。この上は一週間以内に大敵イザーク王国の王族を引き渡し、軍備を解いて我が方に投降することを勧めるものである。大逆の徒なれど抵抗の意思なきことを示すならばこれをもって王家の寛恕を請うことも可能となることをお忘れなきよう。
なお、貴殿が捕らえているドズル、フリージ、ヴェルトマー三家の公子公女方を解放することも条件のひとつであることは言うまでもないことを付け加えておく。
ドズル家当主ランゴバルト
フリージ家当主レプトール』
「……バカなことを!」
ぶるぶると震えたレックスの手が書状を握りつぶした。
「クルト王子暗殺計画だと?王家に対する反乱計画だと!?そんなものを企てる余裕が俺たちのどこにあったってんだよ!ったく、あのクソオヤジが……脳みそボケてきてんじゃねえのか?」
悪態をつくレックスの横でティルテュは真っ青になって震えていた。
「……お父様が……?どうして……?」
唯一平静を保っていたアゼルがかろうじてシグルドに問いかけた。
「これは、いったい……こんな根も葉もない噂だけでどうして正規軍が動いているんですか?」
それに対する返答を口にしたのは、傍らのキュアンだった。彼は苦渋に顔をゆがめて答えた。
「……言いにくい話だが、噂だけではないと言うことだよ」
「え……」
「クルト王子がグランベルに凱旋する途中で何者かに暗殺されたのは事実だ。そして、その日からバイロン卿が行方不明になっているのもね」
「キュアン」
咎めるような視線を向けたシグルドを笑って制する。
「そんな目で睨むなよ。おまえの父上がそんなことをするわけがないのは俺とてよく知っている。俺にとっても義理の父上なのだからな。ともかく、その噂が伝わってきたのがほんの三日前のことだ。そして、昨日この書状が届けられた。……意味するところはわかってもらえるな?」
レックスは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……つまり、何もかも計画の上のことだと?」
「そうなるな」
キュアンの無情な宣告にティルテュは完全に顔色を失って崩れ落ちた。床に伏せる寸前でその腕をレックスがつかんで引きずりあげる。
一縷の望みにすがるようにアゼルが口を開いた。
「僕の兄は……親衛隊長のアルヴィス卿はこのことをご存知なのですか?」
「それはわからない。正規軍が動いたといってもその大半はドズル軍とフリージ軍で構成されている。我々の手元にある情報では判断することは不可能だ」
「では、何かの間違いでは……!」
感情が激した様子で叫ぶアゼルを、シグルドが静かに制した。
「アゼル。この場合我々が正しいかどうかは問題ではないんだ。我々を討伐するためにグランベルの正規軍が派遣された。我々に残された道はこの書状のとおりにするか、戦うか。二つに一つしかないんだよ」
そして、彼らには前者の選択はありえない。彼らグランベルの貴族はともかく、明らかに敵対勢力であったイザーク王家の二人やヴェルダンの王子ジャムカ、それに旅の途中で軍に加わってくれた者たちに対する恩赦はまずないだろう。そして、シグルドは彼らを見捨てられるような人間ではなかった。
言葉を失ったアゼルに変わり、今度はレックスが口を開いた。
「……それで、俺たちを呼び出してどうしようってんだ?裏切りの可能性がある人間はこれ以上置いておけないとでも?」
切り口上に、シグルドは小さく笑って答えた。
「いいや。君たちは重要な戦力だよ。だが、意見を聞く必要はある」
「……意見?」
「どちらを選択するのも君たちの自由だと言うことだ」
「シグルド!」
これにはさすがに驚いた様子でキュアンが声を高めたが、シグルドはかたくなにそれを制した。
「何も言うな、キュアン。既に決めたことなんだ」
逆に激したのはレックスで、彼は顔を真っ赤にしてシグルドの胸倉をつかみあげた。
「ちょっと待てよ!それじゃ何か、俺たちに戦いを前にして逃げ出せとでも言うのかよ!あんたはそこまで俺たちを見くびってんのか!?」
「レックス、ダメだよ!」
アゼルの声も届かない様子でシグルドの襟首を締め上げるレックス。シグルドはかすかに眉を寄せて、小さな声で答えた。
「……そういう……わけじゃない……」
「じゃあどういうわけだ!言ってみろよ!」
「私も……人の、親だ。親が……我が子を、心配する、気持ちは……よく、わかる……」
意外な言葉に一瞬レックスの手が緩んだ。その隙に、脇からキュアンがその腕をつかんで払いのける。神器保有者の尋常ではない力にたたらを踏んだレックスはかろうじて体勢を立て直し、表情の選択に困った様子で呼吸をつまらせて咳き込む司令官を見やった。
「なあ……わかってんのか?あんたは俺やティルテュの親父にはめられたんだぞ。そんな奴の心配をする必要がどこにあんだよ」
自分の名にびくりと反応したティルテュをアゼルがそっと支えた。
ようやく呼吸を整えたシグルドは、小さく笑って答えた。
「……父上ばかりではないだろう?兄弟、親類……君たちを心配している人間はいくらでもいる。安全が保証できない以上、私の都合だけで君たちを巻き込むわけには行かないよ」
さらに困ったように眉を寄せるレックスに、キュアンが肩をすくめてみせた。
「乱暴を働いてすまなかった。こいつはこういう奴なんだよ。時間はまだあるから、ゆっくり考えてくれ」
「……あんたはどう思ってんだ、キュアン王子?」
問うたレックスに、キュアンがふわりと笑う。
「もちろん、残ってくれればありがたいとは思うがね。強制はしないよ。自国の軍隊を相手に戦えと言うのは酷な話だ。私は司令官の決定に従うだけさ」
そういう彼も巻き込まれた側だろうに、その目には友への信頼があふれていた。
「……バカだなあ、あんたらも」
聞きようによっては失礼なその台詞に万感の思いが込められていることは、彼の性格を知る者にとっては明白だ。シグルドは口元に苦笑を閃かせて答えた。
「これが性分だ、仕方ない。書状の期限を考慮しても猶予は三日といったところだ。その間に祖国に帰るのもここに残るのも君たちの好きにしてくれ」
司令官が口を閉じると、今度は軍師の少年が口をはさんだ。
「お三方には申し訳ありませんがこのことは他言無用にお願いします。無用の動揺はできるだけ避けたいので」
押し寄せているのがドズルとフリージの軍隊である以上、アゼルはともかくレックスやティルテュの身の安全は安全とは言いがたい。彼らを人質に交渉を図ろうとする輩が出てこないとも限らないのだ。(もちろん、そんなことは戦略的に何の意味もなさないどころかかえって敵につけいる口実を与えるだけなのだがすべての兵がそれを理解しているわけではない)
「ああ、わかってるよ。自分の命が危険になるようなことをぺらぺらしゃべるほどバカじゃないさ」
そう言って笑ったレックスを、アゼルが何か言いたげに見る。だが彼は結局口をつぐむことを選んだようで、シグルドたちに向かってぺこりと頭を下げた。
「では、失礼します」
二人は頷きあうと、立ってもいられない様子のティルテュを両脇から支えた。その様子は虚ろで、事態を完全に理解していないと言うより理解することを頭が拒否しているのかもしれない。二人が促すと、機械的に手足を動かしてドアへと向かう。ドアを閉める寸前に彼らが見たものは、眉間を抑えて深いため息をつくシグルドの姿だった。
ティルテュをとりあえず彼女の部屋に連れて行った二人は部屋の扉を閉めた瞬間同時にため息をついた。
「まさかこんなことになるなんて……」
アゼルが途方にくれたように呟いた。レックスは無言でティルテュを抱えてベッドに横たえる。放心したままのティルテュは完全に無反応で、そのまま意識を遮断するように瞼を閉じて眠りに落ちていった。それを確認して、立ち上がったレックスはまっすぐに親友を見た。
「アゼル、おまえはどうする?」
直球の問いに、アゼルは一瞬言葉に詰まったようだった。
「どうするって……レックス、君は?」
逆に返された問いには答えず、レックスは書卓に置いてあった文鎮を手にするなりやおら手首を翻した。放物線を描いたそれは壁際の紗布めがけて落ちてゆき、不自然に跳ね返った。思わず息を呑むアゼルを尻目に、レックスはふんと鼻を鳴らして口を開いた。
「女性の部屋に無断で侵入とは穏やかじゃないな。誰の命令だ?」
数拍の間を置いて、紗布が揺れる。そこから姿を現したのは黒い衣服に身を包み顔を隠した男だった。
「……さすがはドズル公子様、私の気配に気づくとは……」
「おべんちゃらはいい。質問に答えろ。妙な真似をすると今度はこっちをお見舞いするぞ」
恫喝を口にするレックスのその手にはペーパーナイフが握られている。刃を鈍らせたそれでもレックスの膂力にかかれば立派な武器だ。ひくりと肩を揺らした男は観念したように膝をつき、口を開いた。
「……私がここに参ったのは公子のお父上の伝言をお伝えするためです」
「親父のだと?」
「はい。『明後日までにここにおわすお二方をつれて軍を離れ、国へ戻るように』との仰せでございます」
「……ってことは、ティルテュの親父殿も同じことを言っているわけか」
「御意……お二方とも公子様方のことを大変心配しておいででした」
レックスは皮肉の形に唇を吊り上げた。
「……すぐには無理だ。準備に時間がかかる」
やがてそう口にしたレックスを、アゼルはギョッとしたように見た。
「レックス!?」
「では三日後の早朝、北の海岸にてお待ち申し上げております」
「わかった」
「ちょっ……本気なのか?!」
慌てるアゼルを制して、レックスは男に問いかけた。
「ひとつ聞きたいんだが……」
「何なりと」
「ダナン兄貴は来てるのか?」
聖斧スワンチカの継承者たる長兄の名に、男がぴくりと反応する。彼は顔を上げぬままに答えを口にした。
「……はい。グラオリッターを率いて既に参加されております」
「そうか……わかった」
「では、御前失礼いたします」
男が姿を消す。その気配が完全に消えた後、レックスは深いため息を吐き出した。
「ったくクソオヤジめ、やってくれるぜ……」
「レックス」
厳しい声に顔を上げると、アゼルの真剣な眼差しにぶつかった。
「ちゃんと説明してくれ。まさか、本気でここを出る気じゃ……」
「アゼル、もう一度聞くぞ。おまえはどうしたい?」
さえぎるように問うたレックスに、アゼルは言葉に詰まった。
「それは……」
「シグルド公子の言うことは一理ある。降伏するか、戦うか、選択は二つに一つだ。だが相手はグランベルの正規軍なんだぞ。戦って勝てる相手だと思うか?前者を選択するってことはつまり玉砕を覚悟するってことと同じなんだよ。おまえは義理や人情だけで自分の命が捨てられるのか?」
「……」
「親父殿たちは俺たちを罪人扱いする気はないようだ。国へ戻るならこれが最後のチャンスだぞ。よく考えろよ」
言葉もなく黙り込んだアゼルに、レックスは小さく吐息をついた。
「ティルテュにも話しておけよ。こいつはこんな事態を予想してたわけじゃない。ただ物見遊山気分でクロード神父にくっついてきただけだ。巻き込まれただけなんだから、国元に戻るには何の不都合もないだろうよ」
背を向けようとする親友に、アゼルはポツリと問うた。
「……レックスはどうするのさ」
「聞いてどうする?」
「参考にはならないけど、聞く権利くらいはあるだろ。……そんなことを言っといて、自分は残る気なんじゃないか」
レックスの肩が揺れる。アゼルは確信を抱いた。
「わかってるよ。口では何を言ってたってレックスが仲間を捨てられるわけがないんだ。ここにはアイラがいるんだから」
ため息をついて、レックスは振り返った。口元をゆがめるだけの皮肉な笑みがそこにはあった。
「だからどうした?俺には俺の理由があるように、おまえにはおまえの理由があるはずだ。決めるのはおまえだし、それについて俺はどうこう言うつもりはねえよ。ただな、ティルテュのことも少しは考えてやれよ」
「ティルテュの?」
わからない、と言った様子で首を傾げるアゼルにレックスは内心ため息をついた。鈍いにもほどがある。これではティルテュが哀れというものだ。
「レックス、それはどういう」
「あー、あとは自分で考えろ。俺はしらねえ。っつーわけであと頼むな。俺は自分の部屋に戻る」
「レックス」
「これ以上女の部屋に入り浸っててアイラに見つかったりしたらしゃれにならねえからな」
ドアの隙間からひらひら、と手を振ってぱたりと閉める。
「ったく、自分のこととなるとてんで鈍いんだからなあ……先が思いやられるぜ」
それでも、彼らには幸せになってほしかった。できれば、戦のないところで。
それを見届けたい気持ちもないとは言わない。だが、自分には既に何を捨てても手に入れたい存在ができてしまった。だから、もう側にはいてやれない。
小さく息をついたところへ、硬質の声がかけられた。
「レックス?」
ぎくり、と顔を上げる。そこに立っていたのはつい今しがたまで自分の思考の半分を占めていた美貌の女剣士で、あまりのタイミングのよさにレックスは常になく動揺した。
「あ、アイラか。よう、訓練の帰りか?」
どもって上ずりかけた返答を返したレックスに、アイラは訝しげな顔をした。
「闘技場に行っていた。今帰ってきたところだ。それより、そこで何をしている?ここは独身女性専用宿舎だぞ」
そういえばそうだった。海賊の砦だった割にかなりの広さを誇るここでは独身女性専用の階が設けられ、独身の男性はよほどのことがない限り出入りを禁止されているのだ。
「あー……と、ちょっとな。ティルテュを部屋まで送った帰りなんだ」
「ティルテュ公女を?」
「ああ、ちょっと具合が悪くなっちまってな。今アゼルの奴が様子を見てるよ」
「事実か?」
すっと眇められた黒曜石の双眸に剣呑な光を見て、レックスは背筋が冷たくなるのを覚えた。
「もちろん。そうでもなきゃおまえがいないのにこんなところまで来るわけがないだろう?」
「おまえは信用できん。口が軽すぎる」
手厳しい物言いに苦笑する。
「俺はいつでも本心を言ってるつもりなんだがな」
「普段から恋だの愛だのと口にするような男は信用できんと言っている。シレジアのフーテン王子に女性の口説き方など習っている時間があったら少しでも己を鍛えた方がずっとましだと思うが」
「そりゃ誤解だ。俺がレヴィンと話していたのはあいつがドズルにも言ったことがあるって言うからちょっと思い出話に花を咲かせていただけで……」
「どこの国の女性が一番だのという話題もその思い出話とやらの一部と言うわけか?」
……確かにそんな話題になったことはある。あるが、しかし。
「……誰に聞いたんだ、それ」
「レヴィン王子が吹聴していた。よくよくひまな御仁と見えるな」
アイラの返答に、レックスはにやりと笑った。
「それをわざわざ聞きに行ったのか?興味のない話題には耳も貸さないおまえが?」
……現代風に言うなら鳩が豆鉄砲を食らったような顔、とでも言うのだろうか。目を見開いて言葉を失ったアイラに、レックスはこらえきれずに吹き出した。
「……レックス!貴様という奴は……!」
アイラがきっと眉を吊り上げる。彼女の怒気を片手を挙げることでやんわりと制して、レックスは笑いを収めて言った。
「いや……すまん。おまえって割と正直だよな、そういうとこ」
「まだ言うか!」
「そう怒るなよ。別にからかってるわけじゃない。そんなちょっとしたことでも俺を気にしていてくれるなら嬉しいと思っただけだ」
「嘘をつけ!」
「嘘じゃないさ。さて、これ以上ここにいて変に疑われても困るからな。俺は退散するとしよう」
ひらひら、と手を振って立ち去っていくレックスを、アイラは不満そうに睨みつけていた。