夢の剛健旅行
甲州街道100kmの旅
日川高校創立100周年・17会京浜支部記念行事
山梨県立日川高等学校(山梨市)では、古くから年1回、「剛健旅行」なる愛称で約100kmの距離を24時間で踏破する行事が行われていました。校歌にある「質実剛毅の魂を・・・」という歌詞に示される校風を、体で実感する機会だった。しかし、戦争中と戦後の一時期は、様々な理由で中止された時期があった。
高校17回卒業生(昭和40年卒)たちは在学が丁度休止期間に当たり、伝統ある剛健旅行に参加できなかった。その人たちが「夢の剛健旅行」として企画しました。新宿から出発して母校まで全コースを9回に分けて歩き、2001年11月の創立100周年記念の同窓会式典に、最後の到達点として雪崩れ込もうというもの。
17回とわれわれ4回卒組は、京浜支部でなにかの行事で担当が一緒だったとの関係からこの企画に誘われ、第1回から参加できるという名誉に与れた次第です。
第1回 1997年10月25日(土)
JR新宿駅南口=京王線調布駅前 15.8km 参加
経由地:大原交差点(4.0)=八幡山駅前(4.8)=京王線調布駅前(7.0)
【写真】
新宿駅南口(高島屋前)で夢の剛健旅行の趣旨を説明する手島廣三さん(17回京浜支部代表)
校歌、応援歌を歌い、調布へ向かって出発しました。行進の先頭には、旗手がいつもこの校旗を押し立てて歩きました。
帽子、ヤッケ、ウエスト・ポシェットetc.
この企画のグッズも揃っています(有料)。
私は帽子、ヤッケとポシェットを購入、参加する時はいつも身につけています。
第2回 1998年 5月 9日(土)
京王線調布駅前=JR中央線日野駅前 15.5km 不参加
経由地:東府中駅前(4.8)=日野橋交差点(8.1)=中央線日野駅前(2.6)
第3回 1998年10月24日(土)
JR中央線日野駅前=京王線高尾山口駅前 13.4km 参加
経由地:八王子駅前交差点(7.0)=高尾山口駅前(6.4)
第4回 1999年 5月 8日(土)
京王線高尾山口駅前=JR中央線相模湖駅前 12.4km 不参加
経由地:大垂水峠
第5回 1999年10月23日(土)
JR中央線相模湖駅前=JR中央線四方津駅前 14.7km 参加
経由地:藤野駅前(4.7)=郷土資料館=上野原駅前(5.0)=四方津駅前(5.0)
第6回 2000年 5月13日(土)
JR中央線四方津駅前=JR中央線大月駅前 14.9km 参加
経由地:鳥沢駅前(8.5)=史跡・猿橋(2.6)=大月駅前(3.8)
第7回 2000年10月28日(土)
JR中央線大月駅前=JR中央線笹子駅前 10.5km 不参加
第8回 2001年 5月12日(土)
JR中央線大月駅前=勝沼ぶどう郷 18.0km 参加
経由地:矢立の杉=旧道笹子峠=勝沼ぶどう郷
第9回 2001年11月 3日(土・文化の日)
JR中央線勝沼ぶどう郷駅前=日川高校同窓会会場 6.0km 参加
総距離:115.2km 1日平均踏破距離:12.8km
1時間平均徒歩距離:3km
ちなみに、私が在学当時の参加実績は次の通り。
年 = 学年 目的地(経由地) 到達地点 メモ
1946年=中学1年 信濃大町(塩尻峠経由) 富士見(農工学校) 夜、道に迷う。
戦後の復活第1回目 東京方面は道路荒廃のため西を目指す
1947年=中学2年 新宿(御坂峠経由) 谷村(工商学校) 雨で歩行困難。
台風被害のため笹子峠を通れず 全距離は約140km(36里)
1948年=中学3年 新宿(笹子峠経由) 日野(扇屋酒店)
以降、このルートが定着する
1949年=高校1年 新宿(笹子峠経由) 日野(扇屋酒店)
1950年=高校2年 新宿(笹子峠経由) 調布駅前 時間切れと体力の限界?
1951年=高校3年 新宿(笹子峠経由) 救助員として藤野救護所担当
最近は道路事情からか、男子は柳沢峠越えの国道411号線を奥多摩まで、女子はバスで柳沢峠まで運ばれそこから歩き始めているようだ。
結局、私は終着目的地まで到達できていない。そこで
今回の企画に参加し、第1回で新宿=調布駅前間を歩いたことで46年振りに完全踏破を実現した。
午前10時、校庭に集合し、校門から等距離に引かれた出発線に並び、ドンの合図で走り出す。(その前に、自宅から学校まで約6kmの道のりを既に歩いて登校している)。腰には草鞋(わらじ)と履き慣らした下駄1足をぶら下げ、おにぎりを風呂敷に包んで背中から巻き付けるという出で立ち。時間の節約からおにぎりを歩きながら食べたことも。着順を狙う輩は笹子峠の登りを含め、大月あたりは小走りに通過した。
夜間は単独で歩くのは避けよと指示あり。小仏(大垂水)峠など、歩きながら眠った覚えあり。峠の頂上から東京都内に入るが、ここから舗装道路となり(ということは、ここまでは未舗装)、急激に足に痛みを感じやすくなる。歯のすり減った下駄に履き替えたり、草鞋に戻したり、巻脚絆をほどいたり、なんとかして自分の足を騙して歩き続けた。浅川(現高尾)駅前から直線の銀杏並木が長く続き、精神的にこの地点で参ってしまった。
府中=調布間では、長い筒状の物体(燃料タンク?)を積んだ米軍トラックが道路の端をよたよたと歩くわれわれに向かって高速で寄ってくるのに恐怖を感じながら、夜明けの道を、制限時刻を気にしながら歩いたことを覚えている。
今度、若い後輩(先輩も若干参加している)たちと一緒に歩いて見て、体力の減退を痛感した。−−なにしろ1日に18キロが限界とは!! 道路状況も交通事情も大幅に変わっていたが、目に入る周囲の山や川の地形は同じ。半世紀も前に自らが体験した剛健旅行を思い出しながら、若い(比較的に)人たちと歩く楽しみを頂いている。
当時は、歩くことは日常の基礎行動。片道6キロの通学にも自転車を買って貰えなかった。山猿を自称していたが。かっての歩兵甲府49連隊(兵隊は主に山梨・神奈川県下からあつめれれた)も行軍力では天下に響いていたとか。
幹事さんたちが、前もって周到な現状調査、休憩地点の手配などを実施し、紙上ナビまで用意してくれているのには大いに助けられ、かつ楽しんでいる。ご苦労さん、ありがとう!!
2001年11月記
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