理論化学のツボ



 <結合エンタルピー>

 結合エンタルピーは,生成エンタルピー等の実験値から「理論計算」されたものである。高校の授業で,結合エンタルピーを後で習い,計算演習までするのは こ のためである。



 <ポーリングの電気陰性度>

 原子が化合物を構成している場合,その原子自身が電子を引き付ける傾向をその原子の電気陰性度という。
 極性を持つH−Clの化学結合から分かるように,一般の化合物の化学結合は,「純粋な共有結合」と「純粋なイオン結合」の中間である。この部分的なイオ ン性によって結合は強化され,結合エネルギーは増加する。
 結合エンタルピーから共有結合のエンタルピーを引くと,イオン結合の寄与が求まる。エンタルピーとは,一定の圧力下でのエネルギーのことである。ポーリ ングは,このエンタルピーを共鳴エンタルピーと呼んだ。
 ここで注意すべきは,この結合エンタルピーはすべて単結合の値である。したがって,二重結合や三重結合では,電気陰性度を使って考えることは難しい。
 
 共鳴エンタルピー=(結合エンタルピー)−(純粋な共有結合エンタルピー)

 問題は化合物A−Bの純粋な共有結合エンタルピーをどう見積もるかである。化合物A−Bの純粋な共有結合エンタルピーとして,ポーリングは,次の2つの 計算方法を考えた。

 @ A―A分子とB―B分子の共有結合エンタルピーの算術平均
     EAB=(EAA+EBB)/2   
 AA―A分子とB―B分子の共有結合エンタルピーの幾何平均
     EAB=(EAA×EBB1/2

 はじめポーリングは,@の方法をとった。1932年の最初の論文( J. Am. Chem. Soc. 54, 3570(1932) ) では,@の方法をとったと記載している。 @とAを比較して,LiH,NaH,KHのような化合物では,共鳴エネルギーが負になってしまうことから,ポーリングはAの方法を思いつき,1937年ご ろに量子力学による計算も行って,Aに変えることを推奨している。

 実際には,Aの計算をもとに,最初,14個の元素の電気陰性度を見直した。その際,Se−H, Te−H,C−Sの3つの結合で共鳴エンタルピーがマイナスとなってしまった。この3つのデータに関しては誤差の範囲内としている。
 
 その後,正確な結合エネルギーのデータがない(重い元素は固体で,気体のデータがない)ことから,ポーリングは方針を変え,いろいろな結合エネルギーを 計算で見積もって,算術平均をとった。足して2で割るほうが,熱化学方程式を使って計算しやすい(化学反応式は足せない)ことから,多くの化学計算を@で 行った。@を使用し続けたのは,「計算しやすい」からである。その結果,ほぼ全原子の電気陰性度を決めることができた。
 
 化合物A−Bの純粋な共有結合エンタルピーとして,@もAも正しいという保証はない。このように,ポーリングの理論は直観的であり,その根拠は希薄であ る。しかし,電気陰性度が広く使われていることから考えても,ポーリングは天才科学者としか言いようがない。

 共鳴エンタルピー=(結合エンタルピー)−(EAA×EBB1/2

 この共鳴エンタルピーをΔ(kJ/mol),Aの電気陰性度をXA,Bの電気陰性度をXB,とすると,

 X − X = 0.088×(Δ)1/2

 ポーリングは,CとFの電気陰性度の値が2.5と4.0となるように,水素の電気陰性度を2.1と定めた。

 ポーリングは,実際に誘電率(電気を蓄えられる大きさ)を測定し,そこから双極子モーメントを算出して,イオン結合の割合を見積もり,その値と自分の決 定した電気陰性度を比較した。その結果,原子AとBの電気陰性度の差が大きければ,結合のイオン結合性が大きいことを示し,その境目をポーリングは, 1.7と置いた。

  電気陰性度の差 1.7 以上 ⇒ イオン結合
  電気陰性度の差 1.7 未満 ⇒ 共有結合

 したがって,AgClは,電気陰性度の差が1.1であるので,共有結合性が大きいといえる。一方,BFは,電気陰性度の差が 2.0であるので,イオン結合性が大きいといえる。ただし,化学結合の性質は,単純に電気陰性度のみで決まらないので,注意が必要である。例えば,純粋な 金属は電気陰性度の差がゼロであるが,共有結合とは言わない。



 <原子価結合法によるイオン性の計算方法>

 A−Bという分子で,

 100%共有結合する波動関数は,電子が2個だと積の形に書けるので,
  φ=x(1)x(2)+x(2)x(1)

 100%イオン結合する波動関数は,
  φi=x(1)x(2)

 この2式より,
 ψ=N(φ+νφi

 この波動関数を用いて,変分法によりνを求める。

 存在確率は波動関数の2乗で表されるので,イオン結合の割合xは,
 x=ν/1+ν



 <マリケンの電気陰性度>

 ポーリングの方法は,実験値に基づいた直観的な方法であるので,より理論的な尺度が考え出された。

  x=(E+A)/544

  E : イオン化エネルギー(kJ/mol−1)   A : 電子親和力(kJ/mol−1) 

 軌道のエネルギーが計算で求まれば,理論的に軌道ごとの電気陰性度が算出できる。

  C(sp) 3.29 > C(sp) 2.75 > C(sp) 2.48

 s軌道の割合が大きいと,電気陰性度が大きいことが分かる。



 <分極率>

 分極率とは,「外部から電場をかけたり,イオンが近づいた時に,原子や分子の電子がどの程度移動するか」を表した量である。分極率が大きいと,その原子 や分子の電子は動きやすい,すなわち「やわらかい」ということができる。

 一般に,

 原子が大きい ⇒ やわらかい
 電気陰性度が小さい ⇒ やわらかい

 やわかいと,共有結合しやすい。

 (例1) AgFよりも,AgIのほうが共有結合性が高い。したがって,AgFは水に溶けやすい。
 (例2) 共有結合性の大きなAgイオンには,電気陰性度の大きなOよりも,分極率の大きなNが配位結合する。



 <水素結合>

 HとF,O,Nの間に働く。電気陰性度が大きい元素との間に働くとされるが,注意が必要である。NとClの電気陰性度はほぼ同じ(3. 0)である。Cl は原子が大きく,Hと強い結合をつくらない。Clがやわらかい(分極率が大きい)からである。
 水素結合について面白い計算結果がある。
 水分子の二量体を,Fireflyというソフトで,基底関数を6−31G(d)として構造最適化し,さらに,諸熊のエネルギー分割法によって水素結合の エネルギーを計算したところ,


kcal/mol
静電エネルギー ー7.58
交換反発エネルギー 4.22
分極エネルギー ー0.48
電荷移動エネルギー ー1.65
高次相互作用エネルギー ー0.16
ー5.64
重なり誤差 0.93
水素結合エネルギー ー4.71

・静電エネルギー
 いわゆるプラスマイナスのエネルギーである。

・交換反発エネルギー
 マイナスどうしの反発力のことではなく,量子力学特有の効果。電子は別の軌道であれば,同じスピンを持つものが安定である。電子が接近して同じ軌道に入り,逆のスピンを持たなければならなくなったとき,反発するエネルギーをさす。い わゆる電子雲の重なりに関係するものである。

・分極エネルギー
 誘起双極子が引き起こすエネルギーである。

・電荷移動エネルギー
 相手の空軌道に電子が入るエネルギーである。高校で習う配位結合のこと。

・高次相互作用エネルギー
 この場合,分散力(高校で習うファン・デル・ワールス力)等を意味する。

・重なり誤差
 量子化学計算で,相手の軌道を余分に入れて計算してしまうことの補正である。

 この計算結果から,水素結合は,イオン結合のように,分子の分極の大きさで決まってしまう。だから,「電気陰性度が大きい原子」という教 科書の記載がなされているの である。そこに量子力学的な反発力が加わり,エネルギーがほぼ決まってくる。



 <双極子間引力>

 プラスとマイナスに働く力は距離の2乗に反比例す る。これを知っていると簡単そうに感じるが,非常に難しい話である。
 双極子はプラスとマイナスが隣あって,さらに,3次元的に向きがあるので,計算は大変である。2つの双極子の引力は,距離の4乗に反比例す る。しかも,この双極子は運動している ので,より難しい。ボルツマン分布しているとして計算すると,その力は距離の7乗に反比例する。



 <電子親和力>

 「中性の原子に,マイナスの電子がなぜ近づくのか?」と言えば,原子核のまわりの電子の電荷が一様に分布していないからである。一様に分布していると見 なされる貴ガスの電子親和力は,ほぼゼロである。



  <電気二重層>

 沸騰水に塩化鉄(V)水溶液を「一気に」加えると,水酸化鉄(V)のコロイド溶液が得られる。このとき摩擦(電気的な抵抗力)等で帯電し,鉄(V)イオ ン等がコロイド表面に吸着し,コロイドは結果としてプラスの電荷を帯びている。では,マイナスのイオンはどこに行ったのであろうか?
 
 [答え] 近くにいる。

 プラスイオンとマイナスイオンがちょうど「コンデンサー」のようなものを形成する。これを電気二重層という。コンデンサーといっても,溶液であるのでマ イナスイオンは常に熱運動をしており,完全に電荷が中和されているわけではない。
 そこに電場をかけると「電気泳動」が起こり,プラスの水酸化鉄(V)コロイドは陰極に移動するのであるが,これもまた複雑な話である。

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