タイトルのない夏
Trinity
両谷承

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十五


 アルトのドアを開けて、キョウは乗り込む。窓越しの直射日光にさらされた車内には熱気がこもっていて、車内の気温は五十度を超えているんじゃないかと思えるほどだ。真っ先に窓を開けたが、そんなことで熱気が逃げて行くわけでもない。焼けたシートに腰を下ろして、煙草の火を点ける。ハイライトの煙がまずい。

 どうしてこんな事になってしまったのか、キョウは把握していない。自分が悪いと云うことだけは漠然と分かっている。そんなことが分かったところで、何がどうなるわけでもないが。キョウはもう、アルトに乗り込んでいる。

 ミキを残したまま、キョウは『スラム・ティルト』を出てきてしまった。ミキがそのことで怒っているとも思えないが、少なくとも愉快ではないだろう。

 どうして自分が彼女を好きになったのか――そして、どうして彼女が自分のことを好きにならないのか。いろいろなことが、どうにも不思議で仕方がない。どうしてミキじゃなきゃいけないのか。そうして、彼女にとってどうしてキョウではいけないのか。そう云った疑問を抱くキョウの方が理不尽なのだろうけれど、どうしても納得できない。自分ではクールでいるつもりでも、どこか筋道を違えてしまっているのだろう。

 こんな思いを感じているのは、自分だけなのだろうか。シンジは、ミキが欲しくはないのだろうか。ミキは、シンジが欲しくて仕方がないのではないのだろうか。いくら考えても、ひとのことは分からない。

 自分は、ミキが欲しい。はっきり分かるのは、そのことだけだ。自分自身にとっては、話はこれほどまでに単純なのに。気付いてみると、キョウは自分でも驚くほど周りの連中のことを知らない。ミキのことも、シンジやカズのことも。

 シンジが、憎いわけではない。だけどキョウが自分のために思いつくのは、シンジと闘うことだけだ。今キョウが入り込んでいるやくたいもない迷路からは、他の出口は見えてこない。

 何を考えても、全部を都合よく説明してくれる答えなんかきっとない。キョウはアルトのエンジンを始動させて、シートベルトを締める。

 CDのケースを探った。自意識過剰な選択だと云うことは承知でシンジはマタイ受難曲を選び、カーステレオに放り込む。


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