タイトルのない夏
Trinity
両谷承

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十四


 カズのアパートから『スラム・ティルト』までは、のんびり歩くと三十分以上の距離だ。『スラム・ティルト』を往復するのはここの所ずっと朝か夕方、そうでなければ夜中だったので、同じ道のりを午後の陽射しの中に歩くのは随分久しぶりと云うことになる。

 暑いのは得意な方ではない。学校の校庭で倒れたことも、中学くらいまでは何度かあった。ジャケット代わりに羽織っていたシャツを脱いで、タンクトップ一枚になる。中央線の高架をくぐって、吉祥寺通りへ。

 店の前には、旧いハーレイが一台。黒とモスグリーンに塗り分けられたタンクは、見間違えようがない。シンジの、ロードスターだ。

 嬉しくなった。店のドアを開けて、中を覗き込む。カウンターに座っているのは、ミキひとりだ。

「こんちは」

 店内に入って、なんだか不機嫌そうにバック・バーを眺めているミキの隣に座る。目の前に、空のロックグラスがあった。マスターがカウンターの中で立ち上がる。

「なんだか遅いお越しだったな」

「まず『いらっしゃいませ』でしょ。――シンちゃんは」

「あっちよ」

 ジャック・ダニエルズのボトルの辺りを泳いでいる視線をカズに向けもしないで、ミキが店の奥を示した。ピンボール・マシーンを囲んで、髭面のシンジと妙にこぎれいな身なりのキョウが立っている。プレイ中らしい。 「なんだよ。帰ってきて早々、あれかい」ミキに視線を戻す。「どうかしたの」

「勝負なんだって」

「そりゃまあ」

 あのふたりがピンボールでマッチ・プレイをするときは、いつだって勝負だ。――そう云おうとしたとき、ミキが初めてカズを見た。

「賭けてるんだって」ひどく複雑な表情だ。「それで、景品はわたしらしいわ」

「なんだよ、それ。――キョウが?」

「そう」

「ミキちゃん、そんなの納得したの」

「冗談じゃないわ、するわけないじゃない。なんだかね、あの人達の問題なんだって。ひとを何だと思ってるのよ」

 そう云うことか。たまらない話だ。

「トロイのヘレン、ってとこかな」

「ふざけないでよ」

 口調は静かだ。怒っている、と云う感じではない。それは、楽しいはずはないが。

「キョウはさ、ミキちゃんを自分だけのものにしたいんだよ。でも、ミキちゃんはシンちゃんが好きなんでしょ」

「みんな、好きよ。――カズくん」

「うん」

「たとえばさ、わたしがシンジくんを欲しかったとするじゃない。でもきっと、彼はわたしのものにならない」

「そうだろうね」

「じゃあどうして、キョウくんは」

 そう云って、ミキはふたりに目をやった。

 なにを云うべきなのか、カズには見当も付かなかった。キョウは確かにひとのことを考えない無茶を言いだした。それでも、キョウのことだからそれくらいはやりかねない、ということはカズにも見当がつく。分からないのは、それを受けたシンジの気持ちだ。

 ミキに言葉を返すのはやめて、カズは立ち上がった。店の奥に向かう。

 プレイはキョウの番だった。カズのことには気付いているのだろうが、マシーンに向けた顔を上げようとはしない。傍らのシンジに目をやると、ウィンクが返ってきた。

「ご無事でお帰りで」

「ああ。首になったんだって」

「まあね。なに、やってんだよ」

「勝負だよ」

「へえ。勝った方には、何かいいことでもあるの」

 シンジに向かって、キョウにも聞こえるように云う。

「さてね。おれは知らないけどさ」

 シンジの優しげな笑顔が、キョウは気に障る。マシーンのボードを見た。三ボール目。キョウのポイントは二百万点を少し超えていた。シンジのスコアは百三十万点。

 まるで水面に顔を突っ込んでどこまで息が続くのか試しているみたいに、キョウはプレイに集中している。どんなスコアを取ったところで賞品が本当に手にはいるわけでもない、ということが分からないはずはないのに、キョウはそのことを理解するのをあえて拒んでいる。

 馬鹿だな、と思った。そうして、いつか感じたのと同じ切なさが戻ってきた。

「なんで、こんな勝負受けたのさ」

「こいつに挑まれて、逃げる訳にはいかねえだろ」

 そんな問題じゃない。シンジの緩んだ口元を、カズは殴り飛ばしてやりたくなった。その時に、ボールがマシーンに吸い込まれたことを示す電子音が聞こえてきた。

 ゆっくりとキョウはマシーンから離れて、大きく息を吐いた。

「くだんねえ事云うんじゃねえぞ」

「その前にその口、塞いであげるよ」

 ありったけの殺気を込めて云ったのに、なんの反応も返ってこなかった。キョウはシンジから目をそらすようにして、その背後に回った。

 マシーンのフィールドには既にシンジの最後のボールがリリースされている。シンジはまずカズを、それからキョウを見てにやりと笑うと、いきなりマシーンを蹴飛ばした。

 警告音。シンジはもう一度蹴る。

 ティルト。ボールがプランジャーから弾かれる前に、ゲームは終わった。振り向いたシンジのむなぐらを、顔を赤くしたキョウが掴んだ。

「どういうつもりだ」

「どういうつもりもなにも、おまえの勝ちだよ」

「寝惚けてんのか、てめえ」

「うるせえな。めんどくせえことぬかしてんじゃねえよ」

「めんどくせえってのはなんだよ。おれは真剣にだな」

「おまえが真剣だから、どうしたってんだよ。おれには関係ねえだろ」

 シンジは云いたくないことを云ってしまった、とでもいう風に顔をしかめた。その気持ちが、カズには分かった。シンジはキョウの気持ちをなぜだか大事に思って、それでこの勝負を受けたのだ。――そのことに、恐らくキョウはまるで気付いていない。

「なにが、関係ないんだよ」

「ともかく、おれはおまえとピンボールをプレイするときに、余計なもんが入り込んでくるのは嫌なんだ」

「じゃあどうする」キョウは手を離して、シンジの鼻先に右に握り拳を突きつける。「こいつでやるか」

「やめとくよ。勝ち目ねえからな」

「おい、馬鹿にしてんのか」

 馬鹿にされてもしょうがないことをしているのは、キョウの方だ。カズの目からしても、キョウはシンジに甘えてだだをこねているようにしか見えない。カウンターを振り返ると、ミキは相変わらずこちらを見ないようにして座っていた。

 シンジは口をつぐんで、何秒間か天井を仰いだ。それから、キョウをにらみつけた。さっきまでの柔和な雰囲気はもう、ない。

「分かったよ」

「なにが分かったんだ」キョウの敵意が、空回りしている。「云って見ろよ」

「いつもの十六キロで、勝負を付けようぜ」

「十六キロ? なるほど」キョウはカズを見やった。「それなら、邪魔も入らねえしな」

 そんな言いぐさはない。言い返そうと口を開く前に、シンジに目でたしなめられた。

「今からか」

「勝負したがってんのは、おまえの方だろ」

「よし、今からだ。車を取ってくるぜ」

「待ち合わせは」

 問いかけるシンジに、キョウは鋭い一瞥をくれる。

「ループの入り口だ」

 ピンボール・マシーンを離れると、キョウはミキに目をくれることもなく『スラム・ティルト』を出ていった。

「どういうつもりなんだよ」

「どういうつもりもねえだろ。勝負すんだよ」問いただすカズの目から、シンジは逃げない。「あいつを、たたきのめしてやる」

「どうしたってのさ。下らないよ」

「あの馬鹿野郎にとっちゃ、下らないことじゃねえみたいだぜ」

「そういう問題じゃないじゃん」

「そういう問題なんだよ」

 シンジはカウンターに戻っていく。カズも仕方なくついていった。シンジはミキの隣に腰を下ろして、グラスにつぎっぱなしになっていた気の抜けたビールを呑み干す。

「なんだか、おかしな事になっちまった」

 シンジはミキに話しかけた。

「なに考えてんのよ、ふたりとも。わたしは物じゃない。わたしがなにをどうするのか決められるのは、わたしだけよ」

 そこまで云って、ミキはやっとシンジに視線を移した。カズはシンジの肩越しにミキを盗み見る。相変わらず怒っているという感じではない。傷ついた、という表情だ。

「キョウだって、別に勘違いしてるって訳じゃないよ。ただ――」

「ただ?」

「あいつは、他に思いつかなかったんだよ」

「なによ。どういう意味なの」

 ミキの静かな口調が、逆に何となく重苦しい。

「おれとの間のことだからな。なんとかしなきゃ、あいつも納得いかねえんだよ」

「わかんないよ」

「じゃ、仕方がないな。あいつのことは、悪く思わないでやってくれ」シンジは立ち上がる。「おれも、そろそろ行かなきゃ」

「シンちゃん」

 カズが問いかけると、シンジはカウンターに片手をついて振り返った。

「あ?」

「本当は、シンちゃんもやりたくてやるんでしょ」

 カズが期待したような笑顔は、返ってこない。

「案外、そうなのかもな。マスター、お勘定」

 シンジが声を掛けると奥に座っていたマスターは無言で近寄ってきて、カウンター越しにシンジの髪を掴んだ。

「おい、シンジ」

「はあ。なんでしょう」

「もう一回マシーンを蹴飛ばすような事しやがったら、おまえはこの店に出入り禁止だ。わかったな」

「すみませんでした」

 シンジは神妙に答えた。

「それと、もうひとつだ。キョウの勘定、一緒に払ってけ」

「ええと、それは」

「わたしが払うわ」

 ミキが口を挟む。マスターはシンジの髪から手を離した。

「ミキちゃんさ」反論したのはシンジだった。「それは、筋が違うよ」

「わたしが、払うの。――このことを、あなたたちふたりだけの問題にはさせない」


 シンジは自分のビール代だけを置いて出ていってしまった。カズは仕方なく、どうにも冴えない表情のミキの横に腰を下ろす。何をどういうふうに、話し掛ければいいのだろう。

「おいカズ」悩んでいると、マスターに話し掛けられた。「うちの商売がなんだか覚えてるか」

「何って――居酒屋だっけか」

 マスターは二秒ほど絶句したが、続ける。

「そんなようなもんだな。カズ、おまえ普通居酒屋の客が店に入ってきたらまず何をするか知ってるか」

 オーダーを忘れていた。

「ええっとね。マンデリン、頂戴」

「それでいい」

 マスターがカウンターから離れていった。カズはそっと、ミキを窺う。

「ミキちゃん」

 ミキは溜息をひとつ吐いて、カズを見た。疲れているような雰囲気はあったけれど、さっきのような痛々しさはない。少し、ほっとする。

「なあに、カズくん」

「キョウのこと、あんまり責めないでやってよ。あいつ、ミキちゃんに夢中なんだ。でも、ミキちゃんは少なくともキョウひとりだけが好きな訳じゃないじゃない。自分でも、どうすればいいのかわかんなくなってんだよ」

「本当に、そうなのかな。キョウくん、一体わたしの何が欲しいのかな」

 ミキの言葉に、カズは答えられない。一体何が欲しくて、ひとを好きになるんだろう。

「でもキョウは、その何かをシンちゃんが手に入れてると思ってる。そうじゃなかったら、シンちゃんには手に入れられると思ってるんじゃないかな」

「わたしの事なんて、考えてないのよ。だってどうせわたし、来週には静岡に行っちゃうのよ」

 もう、八月も終わるのだ。

「そんなことないよ。キョウはあなたのことが大好きなんだ。ぼくも――シンちゃんも多分そうだけど、キョウはちょっと違う」

 キョウはいつだって、全身全霊を賭けて女の子を好きになる。そのことを忘れてしまうのも、早いけれど。

「ただ、シンジくんとじゃれたいだけなんじゃないの?」

「少しは、それもあるのかもしれないけどね」

 ミキはピルスナーグラスの中身を干した。

「ねえ、あのふたりはどこ行ったのかな。何をしようとしてるの」

「そうだなあ。十六キロとか云ってたけど」

「おまえ、何年あいつらと付き合ってんだ」

マスターがカズの前にグラスを置く。「あのふたりが十六キロって云ったら、ひとつしかねえだろ」

「なんだよ、マスターには分かってるの」

「十六キロの間ずっとアクセルを開けっ放しに出来る真っ直ぐな道が、ここいらにひとつだけある」

「第三京浜、ね」

 答えたのはミキだ。なぜ思いつかなかったんだろう。

「なんだよ。あのふたり、レースで片を付けようっての」

「あいつららしいじゃねえか」

「三京かあ。じゃあ、結果がどうだったか見られないなあ」

 第三京浜では、車かオートバイでなければ行くことが出来ない。

「うちに、おとうさんの車があるわ」

「ある、って、ぼく免許ないよ」

「わたしが持ってる。運転させてもらったことはないけど」

「ミキちゃん、行くつもり?」

「どうせ結果が出たら、保土ヶ谷に立ち寄るんでしょ」ミキの目に、いつもの力が戻っている。「云ったじゃない。わたしはこの事を、あのふたりだけの問題にはさせておかないって」

「ぼくも行く」

「命知らずね」ミキが、やっと笑った。「知らないよ。たどり着けなくても」

「構わないさ」

 カズにとっては、自分の問題でもある。


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