テレキャスター・ダンシング
Monkey Strut
両谷承

八へ戻る。十へ進む。



 尚美は初めて、自分から上岡さんに電話を掛けた。午後十一時を少しまわっていた。

 初めてだ、という事に気付いたのは、プッシュホンのボタンを五つめまで押した時だった。上岡さんは一日おきくらいに必ず電話を掛けて来てデートに誘い、尚美はその度にそれに応じる。いつのまにか、それが自然な事だという気になっていた。

 もう、そんなふうには思えない。

 六回めのコールで、上岡さんは受話器を取った。会いたいんです、と尚美は素直に伝えた。明日にでも、できれば今夜にでも。

 上岡さんはどこかとまどった声で、今夜はだめだ、と言った。その声に、どうしてか尚美は、上岡さんは正直だなと思った。どうしてそう感じたのかは分からない。

 じゃあ明日の夕方、いつもの場所で。そう告げた自分の声が意外なくらいクールだったので、尚美は驚いた。上岡さんは少しためらったけれど−−多分、電話の向こうでスケジュール表でもめくっていたのだろう−−承諾して、電話を切った。

 尚美も受話器を置いた。そうして、しばらくの間置いたばかりの受話器を見つめていた。電話で言葉は交わせるけれど、互いの表情を見る事はできない−−そんなあたりまえの事を尚美はぼんやり考える。

 電話だからこそあんなにストレートに、会ってほしい、なんて言えたのだろう。そして尚美が知りたい事はきっと、電話じゃ分からない。きっとどこかに嘘がまじってしまうだろう。誰が誰につく嘘かは別として。尚美は、本当の事が知りたいと思っている。この街ではじめて上岡さんと再会した晩に、止まったクーペのまわりに立ちこめていた霧が、そのまま今でも自分と上岡さんの間に残っているのに、尚美は気付いている。霧のようなあいまいさに別段苦痛は感じなかったし、慣れてしまえばいくらか心地よさもあった。

 けれどそれは、もう耐えられない。尚美ははっきりした事が知りたかった。それが上岡さんの事なのか、尚美自身の事なのかはまだ分からないけれど。

 どちらにしても、今夜の電話は尚美にとって最初に大音研の部室を訪れて以来の冒険だった。尚美は電話から目を離して立ち上がると、シャワーを浴びるためにバス・ルームに向かった。

 夏の昼下がり特有の、どこか懐かしい湿った匂いのする空気につつまれているのを感じながら尚美は駅のステンド・グラス前に立っている。

 もう三十分も、立ちっぱなしだ。約束の時間を十五分も過ぎているのに、上岡さんは現れない。

 平日の午後だというのに、立っている間にふたりの男の子に声を掛けられた。撃退するのは面倒だったけれど、初めて着た淡い緑色のワンピースがまんざら似合っていないという訳じゃないらしい、と思うと尚美は少し安心した。

 同時に、上岡さんはこのままいつまでも現れないかもしれない、という思いも頭をよぎる。その方が、いいかもしれない。上岡さんと会うのが、今の尚美には少し恐い。何かを失くしてしまいそうな予感がする。もちろんそんなつもりで、上岡さんを呼び出した訳じゃないのだけれど。

 もう十五分待ったら帰ろう、と尚美が決めた瞬間に、ストライプのシャツとチノ・パンツが目に入った。きょろきょろしていた視線が尚美を見付け、上岡さんはおだやかな表情で歩み寄ってくる。

「ごめん、遅くなって。−−どうかしたの」

「あたしから電話しちゃ、変ですか」

「そんなことないけどさ。初めてじゃない」

 嬉しかった、とは言ってくれない。

「どうしても、会いたかったんです」

 尚美が小声で言った言葉の中味を、上岡さんはとり違えたらしい、尚美に向けられた笑顔は、どこか満足げに見える。

「どこに、行こうか」

「どこでもいいです。上岡さんと話せる場所なら」

 上岡さんの前で、尚美はこんな言い方をした事はない。上岡さんは少し目をまるくしたけれど、そのことには触れない。

「じゃ、ちょっと走ろうか」

 上岡さんのクーペでドライブするのは、快適だ。車内の気温は居心地よく保たれているし、エンジン音も上岡さんの選ぶ口当たりのいいBGMを邪魔するようなことはない。適度な固さのシートは尚美の身体を包み、疲れさせない。ドライバーも含めて、あらゆるものがでしゃばりすぎる事なく、節度をもって尚美に接している。

 窓の外に続く海岸線を眺めながら、尚美はいつかのキャディラックを思い出す。広いふわふわのシート、きしむサスペンション、騒々しい同乗者。

 どちらが、楽しかっただろう。

「なんか、うわのそらだね」

 濃いサングラスで瞳をおおった上岡さんが、フロント・ウィンドウの向こうに目をやったまま尋ねる。どう答えたものか、尚美は少し迷った。いつもみたいに、言葉がうまく出てこない。

「この間は、ごめんなさい」

「この間? ああ、あの男のことか。あいつに、あれから会ったかい」

「いいえ」

 尚美は、和がどこに住んでいるのかさえ知らない。知っていたからといって、多分何もできなかっただろう。

「そう。じゃさ、今度会ったら二度とあんな不愉快な態度は取らないように言っといてくれよ。−−あんなやつがバンドにいたら、うまくやっていくのは大変だろう」

 大変なのは確かだ。だけど、バンドをやっていくのに大事なのはそんな事じゃない。上岡さんには分かっていたはずなのに。

「でも彼、かっこいいべース弾くんです」

 どこか軽薄な言い方になってしまう。尚美が和を弁護したと思ったのか、上岡さんは不愉快そうに、

「シド・ヴィシャスみたいなもんかい」

 恋人を殺して自殺したセックス・ピストルズのベーシストの名前を挙げた。

「似てるところが、あるかもしれませんね」

「勘弁してくれよ。子供じゃないんだから」

 上岡さんは苦笑して、いつもの煙草をくわえた。その笑い方がすこしも魅力的に見えない事に、尚美は気付く。

「−−あたしは、子供です」

 思いもよらなかった言葉が、なめらかに尚美の口から流れ出る。上岡さんは何も答えずに、車を松林の横に止めた。

「どうしたっていうんだい?」

 上岡さんは尚美に顔を向ける。サングラスの奥の目がどんな表情を示しているのかは、尚美には見えない。

「あたしは、子供なんです。分からない事がいっぱいあるし、分からない事は全部知りたい」

 上岡さんの吐いた煙が、尚美との間に広がる。

「なに言ってるんだよ」

 上岡さんの腕が、尚美の首に回される。尚美は抱かれるままになりながら、乾いた夏の光にさらされたアスファルトと左手につらなる松林に視線を泳がせている。

「サンバイザーの鏡は、誰のためなんですか」

 上岡さんの腕の筋肉が一瞬だけ固くなるのを、尚美のうなじが感じ取る。

「−−あたしのためじゃ、ないですよね。上岡さんは一度もあたしに教えてくれなかった」

「−−まいったな。どうでもいいじゃないか、そんな事」上岡さんは尚美に触れていない右手でサングラスを外した。「今、この車の助手席に座る女の子はきみだけだよ」

「どうでもいい事なのは、わかってます」尚美は上岡さんを見た。逆光になったその顔からは、サングラスを外す前とおなじくらいに表情が読みとれない。「でも、あなたは話してくれなかった」

「少なくとも、俺にとっちゃそんなのはささいな事だよ。きみにとっても、ね」

「そうかもしれません。でもあなたは、あなたが見せたいって思っている部分しか見せてくれなかった。あたしも、あなたが見たいって思うようなあたししか、見せられなかった」

「何を言い出すんだよ」

 上岡さんはたてつづけに煙草を口にして、神経質なしぐさで火をつける。

「やっぱり、きっとあたしは子供なんだと思います。伝えられる事は全部伝えたいし、全部伝えてほしい」どうしたわけか、尚美の口調は自分でも不思議なほど淡々としている。「あいまいなものをあいまいなままで呑み込んでしまえるほど、きっとあたしはまだ大人じゃないんです」

「わからないな」

 上岡さんは投げ出すようにつぶやいた。その声で、尚美は自分の中のはっきりしない気持ちをつかまえる事ができた。

「はっきり伝えろって、どういうことだい?」上岡さんは続ける。「愛してる、とでも言ってほしいの」

「今日、ここに来るまではそうだったかもしれません。でも、違うって事がわかりました」尚美はシート・ベルトを外す。「誰かの腕の中で安心しちゃうのは、あたしには早すぎるんです。もっと、あたしは前に進みたい」

 上岡さんはまた、ごまかすような苦笑を見せる。その笑顔が何を伝えようとしているのか、尚美には受け止められない。

「どうしてほしいっていうんだ」

「どうしてほしいっていうんでも、ないんです。あなたに包まれたままじゃ、きっとあたしはここで止まってしまう」

 尚美はそこまでしか言葉を継げなかった。上岡さんの腕をゆっくりと外して車のドアを開け、尚美は初夏のくっきりした陰影の中に歩み出る。目は、上岡さんの笑いからそらさないまま。

 上岡さんはしばらくの間表情を変えずにじっと尚美の視線を受け止めていたけれど、ふっと軽い笑い声をたてると何も言わないまま視線をフロント・ウィンドウの向こうに移した。少しだけ勇気をふるって尚美は優しくドアを閉じる。BGMと一緒に、尚美の三年ぶんの想いが封じ込められる。

 クーペは走り去る。その後ろ姿を目で追いながら、尚美はワンピースが汚れるのも構わずに車道と歩道をへだてるブロックに座り込んだ。どうして、大好きでした、と言えなかったのだろうと思いながら。

 松林とアスファルトの単調な風景がポラロイド写真の色あいから少しずつセピアに変わってゆくのを、尚美は途方に暮れながら眺めていた。

 自分が今、どこに座っているのかさえ分からない。駅から車で小一時間は走ったから、歩いて帰ろうとすれば少なくともその四、五倍の時間はかかるだろう。

 車がひんぱんに行き交うような場所なら、ヒッチ・ハイクという手がある。けれど尚美がその事を思い付くまで車は十台も通りかからなかったし、次の車が来たら親指を立ててつかまえようと決心してからは一台も通りかからなかった。

 もう、二時間は座りっぱなしだ。あきらめて立ち上がろうとした時に、遠くから古いリズム・アンド・ブルースが聴こえて来るのに気付いた。サム・アンド・デイヴの『ソウル・マン』が、ゆっくりだけど確実に近づいて来る。カー・ステレオの音に違いない。

 尚美は立ち上がる。『ソウル・マン』を流している車は、幸運にも尚美の姿にブレーキを掛けた。

 いつかの、おんぼろキャディラック。

 サングラスを掛けた男がふたり、車から降りて来る。ちびと、中肉中背のジャグラー。残りののっぽは運転席から顔を出す。

「なんだ、我らがお姫さんじゃないの」

「誰かと思った。あんまり、綺麗だからさ−−あれ、あらら」

 尚美は声をあげずに泣き出していた。上岡さんに伝えられなかったひとことのせいか、目の前にジャグラーズが唐突に現れた嬉しさのためか尚美自身にもわからない涙が、次々と湧いて出て頬を伝う。

「どうしたんだよ、尚美ちゃん」

「だいたい変だよ。どうしてこんなとこにひとりでいるんだい。−−さては、誰かに置き去りにされたな」

「そんなひでえ奴がいるのか。ちくしょ、ただじゃおかねえぞ。追いかけようぜ」

 ふたりのジャグラーは運転席の末っ子に目くばせすると、キャディラックの後部座席に尚美を押し込んで、尚美をサンドイッチにする形で自分たちも車の両側から乗り込む。

「行くぞ。かっとばせ」

 キャディラックは気違いじみた加速で発進する。

「さあ尚美ちゃん、教えてくれよ。そのろくでなしはどっち行ったんだ」

 尚美の涙は、まだ止まらない。涙がファンデーションを溶かしながら流れ続ける感触は、他人事のようで、どこか不思議だった。

「尚美ちゃん、泣いてばっかじゃわかんないよ」

「泣きやんで、教えてくれよ。きみをそんなひどい目に会わせる奴なんて、おいらたちゆるせないんだからさ」

 八気筒V型エンジンの野太い排気音にまけないくらいににぎやかに、ちびと中背のジャグラーは繰り返す。

「歌でも歌ってあげれば、泣きやんでくれるかなあ」

 ずっと黙っていたのっぽのジャグラーが口をはさむ。

「そりゃいい。おいらたちそれしかできねえしな。何がいいかな」

「やっぱ景気のいいやつだろ。『エブリバディ・ニーズ・サムバディ』なんてどうかな」

 のっぽがカー・ステレオを止めるとすかさずちびのカウントが入って、三人組はウィルソン・ピケットのジャンプ・ナンバーをとびきり陽気に歌いはじめる。尚美はなんだか楽しくなって、小さく笑い声を立てた。涙はやっぱり、止まらないけれど。

「お、お姫さんが笑った」

「歌を止めちゃだめだよ。もっと派手にやんなきゃ」

 いつもの綺麗なハーモニーなんか忘れたみたいにがなり立てるジャグラーズと尚美を乗せて、キャディラックは海岸沿いを走ってゆく。


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