演劇ラボ

[俳優訓練の理論1]

十七年前にこの俳優訓練の理論体系を構築しました。
読み返せば未熟で難しい言葉で、(最近読み返すと、自分で分かって書いてるのか?とも思いました。)
関係者以外に発表することもなく来ました。
いま自分でも何言ってンだバカ・・と思いますが・・
幼いテキストですから読み辛いと思います。いいえ、読みづらいです。
でも若さと再会するような感動もあり、何卒ご寛恕の上、ご一読をお願い申し上げます。
平成7年1月

[序]
1973年12月より俳優訓練として論じられるに到る今日迄、稽古法の実践を通じて多くの友人達の協力を得た。
その人々に感謝の念を込めてここに「感性の稽古」が一先ず稽古法としてまとまった事を報告する。
今日より再び「より新しく」「より優れた」稽古法を研究していこうと私は思う。
願わくば、忌憚なき御批評を賜りたい。
1978年10月27日

■序論俳優訓練への想い

第一章 舞台への熱き想い

舞台芸術の様々な要素の中で、根本不変とも言い得るものは、人間が演じ人間が直接鑑賞することであろう。
舞台に関わる者にとって、観客が舞台から何かを感じ味わって帰っていくことこそ、無上の喜びである。
今日の情勢の中で舞台に関わる者が、広く観客の選択を行うことは難しい。
逆に舞台を鑑賞する観客は、その演目によって或る特殊な階層を形成し、
観客の総人口は舞台関係者の想像するより遥かに少ないかも知れない。
そのため将来観客となる人々への働きかけや、今新たな観客を動員する事が舞台関係者にとって急務である。
あらゆる舞台芸術は、観客によって育まれると言っても過言ではない。
即ち観客が見物人と化し舞台を冷ややかに眺めるとき、その舞台で行われていることは発展を止め形骸化するだろう。
観客が熱い観客で有り続けて欲しいと念ずるのは、舞台関係者誰しものことである。
観客自身にとっては尚更であろう。
舞台関係者が観客の意識を云々する事は可笑しい。
いわんや観客に向かって[考えよ][理解せよ]と求めるのは論外だ。
観客はただ見て・聞いて・感じて・味わって舞台へ何かを返してくれる。観客はなにを感じ味わって喜んでくれるのだろう。
[演技の真実が観客の生活体験に基づく信頼を得て、観客の心を引き付け舞台に熱中させる]と演技書にはある。
真理であろう事実であろう、しかし真実ではない。
観客は楽しむために舞台を見に来るのであって、見に来させられるのではない。
観客は見物人でない。
私達はより多くの観客を迎えたいと願う。
ならばこそより多くの人々が観客になってくださる事を願う。
それ故舞台を楽しみに来る人々を、失望させてはならない。
観客も俳優も、同じ人間である。
いかに優れた演技も所詮嘘偽りの絵空事まがいものの虚業の技でしかない。
何故俳優が自らの演技を誇り得ようか。
観客に喜ばれて、初めて誇れるものとなる。
演じる者の一人よがりの傲慢さが、観客の見る楽しみを奪って、観客を見物人にしてはなら無い。
観客は演技者自身の演じる喜びや、演技訓練の成果を見るために代価を支払うのではない。
自分自身の楽しみを買うのである。
しかし観客にとって大切なものは演技者である。
主人公ばかりではない。登場する全演技者達なのである。
観客と演技者の信頼関係を見失ってはならない。
演技とはみせかけることでも、真似ることでもない。
人間の生きている姿を、その人生中から任意に取り出して観客の目前に描く、[人生の断章]の創造に他ならない。
それは現実の社会に良く似た世界に生きる人間であるかも知れない。
また全く架空の世界の住人であるかも知れない。
人間とは呼べないものかも知れない。
しかしその各々の世界で真実生きている人間[生き物]の姿であり、演技とはその人間[生き物]の創造なのだ。
其れは演技者の肉体と心の資質すべてを用いて創造されるべきものなのである。
人間であるということは容易だ。
しかし人間として生きる、あるいは人間であろうとすることは難しい。
もし観客が舞台の上の出来事から何かを感じ取るとすれば、それは演技者が真摯に素直に人間であろうとする姿以外にあり得ない。
私は独断と偏見に満ちて演技者に求めよう。
素晴らしい演技を産み出すものは、究極技術ではない。
人間らしい人間に成ろうとする努力こそ素晴らしい演技の糧なのだ。
様々な肉体的技術も様々な表現様式も、豊かな演技経験ももちろん必要だろう。
しかし根底に人間と言う生き物に対する限りない好奇心と優しさと、観客へ夢と希望と理想を伝えたいと言う心を持って欲しい。
育んで欲しい。人間は恐らく優れた生物とは言い難い。
地球上で一番狂気に満ちた生き物だろう。
演技者は自分を見つめよう。自分の中に人間の全てがある。
人間を知ろうとすることは、自分を知ることに他なら無い。
自己の探究が人間の探究なのだ。自分に素直でいて欲しい。
そうすれば他人にも素直でいられる。自分に優しくあろう。
そうすれば他人にも優しくいられる。自分の狂気を見つめよう。
そうすれば他人の狂気も理解できる。人間の存在、そしてその行為自体には、善も無ければ悪もない。
人間はただ人間として生きなければならない。
舞台上のあらゆる演技は、ただ人間としての存在を演じるだけだ。

■第二章 煌く感性との出会い

観客が舞台上から何かを感じ取るとすれば、其れは演技者の優れた演技によって生みだされたもの以外には在り得ない。
優れた演技は何を生みだすのだろうか。
私はそれを[感性の煌き]と呼ぶ。
[感性の煌き]とは、何者にも抑圧を受けない純粋な心の反応が、素直に直接、肉体の動きとなって現れたある瞬間、或る時を言う。
[感性の煌き]と言っても特殊なものではない。
程度の差こそあれ誰もが経験していることなのだ。
日常生活の中で普通に見かける笑うという行為、同じく泣くという行為、此れ等の行為の殆どが煌く感性に満ちている。
しかし、舞台上の俳優は、[日常的な煌く感性]を演技に活用することは困難である。
観客に見られている緊張、覚えた台詞を間違いなくしゃべろうとする緊張、など演技のための緊張に囚われて心と体の制御を見失い易い。
[感性の煌き]は心と体の緊張とは全く相容れない。
[感性の煌き]は緊張とは全く相反する。
それゆえ演技者は緊張とは無縁な素直な心の反応と其れを素直に現せる肉体が必要になる。
緊張から解き放たれる技術を、一連の訓練としてまとめたものが「スタニスラフスキー・システム」等を始めとする演技訓練である。
システムによって、緊張から開放された肉体が表現する[感性の煌き]とはなんだろう。
演技に活用できる[感性の煌き]とはなんだろうか。
思い出という形で忘れられない出来事が誰にでもある。
その思い出の中には想い出そうとするだけで、すぐさま鮮やかに甦ってくるものがある。
強烈な衝撃を伴い、まるで時間を逆行して思い出の場所に再び立っているかのようにその情景が甦って来ることもある。
特に楽しい出来事、悲しい出来事など、激しく感情を動かした出来事であった場合、
甦ってきた情景はその時生じた強い感情さえも再び甦らせることがある。
何故なら人間はその出来事を、自分の感じたままに脳細胞へ深く刻み込んで記憶しているのである。
その作業はほぼ潜在意識によって行われると言う。
長い年月を経て忘れ去ったと思っている出来事も、心に刻み込まれた出来事は決して消え去ることが無い。
ほんの些細な出来事、例えば電車の中で他人の香水の残り香を嗅ぐということから、恋人の香りを思い出すかも知れない。
電車の線路の響きが、恋人と旅をした時を思い出させるかも知れない。
車窓から見える青空が、あたかも隣に恋人が座っているかのような安らぎを与えてくれるかも知れない。
その一瞬過去のある瞬間に舞い戻ったように感じられるかも知れない。
このように記憶を呼び覚ます鍵は、現実にその瞬間本人に信じられた些細な感覚であり、その感覚が連鎖的に幾つかの感覚を信じさせ、
更に記憶の内の具体的な状況の中へ本人を導くのである。
その結果その思い出された出来事から再生された爆発的な感情の発露が、演技に活用できる制御された[感性の煌き]である。
[感性の煌き]とは、心の素直な反応が肉体の動き(純然たる筋肉の動き・発声・感情表現)として現れた時の、人間の営みの一瞬のことである。
演技者の生得の感性は、日々の生活の中で充分豊かに育むことが出来る。
また、創造意志さえも、日常の中の問題意識によって生みだされていくのだろう。
しかし演技者の感性が演技にまで昇華するためには、彼の肉体が彼の意志や感性に素直に従って動くことが必要である。
鋭敏な感性は傷つき易く、普段は日常の生活の中で表面化することはない。
静かに眠るまた或る時は抑圧さえされている感性と、緊張や弛緩によって制御しにくい肉体とを結び付けるためには訓練が必要となる。
この訓練を「感性の稽古」と名付けた。
この訓練が演技者の抱える全ての問題を解決することなどありえない。
「感性の稽古」は一つの訓練の方法論としてまとまったが、演技者が演技者として生きるための一手段の一つであり、志向性を探る手掛かりであり、
自己の探究と演技創造の糧の一つとなるものでしかない。
世に俳優訓練なるものがあって、誰でも其れを修得すれば俳優になれるという、一種の詐欺のような事が流布されているが、其れは大きな間違いである。
俳優とはその仕事の特殊なことによって俳優なのではない。
俳優とはその人間の人生に対する考え方が俳優であると言うことであり、言い換えれば生き方そのものが俳優なのである。


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