博物館と友達になろう!no4

真土大塚山古墳の謎


小林



今では姿を見ることは出来ませんが真土大塚山公園の南側に、真土大塚山古墳が昭和30年代までありました。四世紀後半に築造された真土大塚山古墳から、さんかくぶちししんにじゅうきょう三角縁四神二獣鏡、まがたま勾玉、柳葉式どうぞく銅鏃、ともえがた巴形銅器、鉄剣などが出土しています。また同じ鋳型の鏡が、京都府、兵庫県、岡山県の古墳から出土しています。鏡はヤマト政権が地方の豪族にいしん威信ざい財として配付したことから、真土大塚山古墳はヤマト政権と結びつきがあったと言えます。真土大塚山古墳は、はじめ前方後円墳または円墳と考えられていましたが、最近は前方後方墳が有力になっています。しかし、現在形状を留めていないので検証できません。被葬者は、この地域を支配していた人物が考えられます。真土大塚山古墳の特徴は、周辺から集落跡が発見されていないこと、生産性の低い砂丘地帯にあることがあげられます。他の古墳は台地の縁辺にあり、周辺から集落が発見されています。なぜ、古墳を造りだすような集落のない場所に古墳が造られたのか謎です。あなたならどう推理しますか?
ところで、真土大塚山古墳の造られた古墳時代はどんな時代だったのでしょう。古墳が造られたのは、3世紀後半から7世紀末までです。この頃、日本各地に古墳が造られました。また、この時代はヤマト政権が勢力を広げた時代でもありました。ヤマト政権は、地域の豪族との関係が成立すると、国造(くにのみやつこ、後にこくぞう)という称号を与えました。神奈川県における国造の成立時期は不明ですが、後の時代に書かれた「こくぞうほんぎ国造本紀」には、酒匂川を中心としたしながのくに師長国、相模川を中心としたさがむのくに相武国が記述されています。文献には出てきませんが、鎌倉から三浦半島にはかまくらのわけ鎌倉別の国がありました。また、古墳時代は大陸と交流があり、のぼり窯を用いたすえき須恵器、はたおり機織、土木、農業、製鉄などの技術や文化が渡来人によってもたらされ、技術や人や物の交流が盛んになった時代でした。
古墳は、死者を埋葬する場所であるとともに祭祀も行われました。古墳は、規模も形も様々です。死者と共に埋葬された鏡や土器などを副葬品と言います。多くの古墳には、ふきいし葺石がふかれました。はにわ埴輪は、墳頂部に置かれました。古墳は、普通に人の目線で見るとその特異な形を見ることは出来ません。なぜ、前方後円墳の鍵穴のような形を造ったのか不明です。
三角縁神獣鏡の三角縁とは、縁の断面が三角のようにとがっていることから、神獣は不老長寿の世界を表現した仙人像と青龍や白虎などの聖獣が鏡の裏面に刻まれていることから呼ばれています。銅鏡は、三角縁神獣鏡の他にないこうかもんきょう内行花文鏡、にゅうもんきょう乳文鏡などがあります。
さて真土大塚山古墳の西にも、姿を消したひより日和やま山 古墳がありました。日和山古墳からは、5世紀代と思われる須恵器が出土しました。実は、私の家は真土大塚山古墳があった場所の近くです。そんな昔にも人々は暮していたのかと思うと不思議な感覚を覚えます。また地元の方は、真土大塚山古墳を偲んで、真土大塚山公園に大きさは縮小されていますが、古墳の形を正確に再現した小山を造りました。こうしたことから、私達は一市民として地域の文化とどう向き合ったらよいのか、考えなくてはならないでしょう。
参考:写真と図解 日本の古墳・古代遺跡 西東社出版部編 写真左上:三角縁四神二獣鏡 平塚市博物館 「夏季特別展 相武国の古墳」 写真右下:真土大塚山古墳(現在消滅) 平塚市博物館「ガイドブック17 平塚の遺跡」より転載

三角縁四神二獣鏡
真土大塚山古墳(現在消滅)
戻る