いのちの本質を問いかけるno8

昭和59年座禅川で魚の大量死


石井



 昭和59年(1984年) 5月1日早朝、電話で。「ホーッ、やっと出たわ、随分心配したよ。おとといからかけ続けていてよ。」「29〜30日と泊まりの学習会で、今日朝帰りだったの」「ご苦労さんよ。待ち切れず早くから悪いなー。座禅川で魚が全部浮いちゃったわい。ウナギもナマズもだぞよ。 俺はここで生まれ、住み続けていてアユっ子一匹浮いたことのないこの川でよ。前代未聞だわ、何てこった。それも天長節の日(29日)によ。儂もやらなければならないことは分かっているんだけど 年齢で体が動かないんだよ。悪いなー。水のこと頼むよ。こんなことしたら昔だったら大騒ぎになって、やった者の手は後に回っちゃったんだろうな」と受話器を置く。
 平塚市遠藤原一般廃棄物最終処分場が竣工して、平塚市民のゴミの焼却灰が4月1日運び込まれてから29日目の座禅川の状況の知らせだった。「川を歩こう」と友に電話、出ない。家人も留守で一人、目前の座禅川に入った。浅瀬を遡って200m程の所で、頭を同方向にして、渦に巻き込まれるように、折り重なって沈んでいる魚を見た。"水中カメラ"が欲しい。が無い。カメラは最後に手段しよう。死魚を取ろうと手を入れた。肩まで浸しても届かない。この一つ目の死魚穴を覗き、目を凝らした。
 私の子が昭和40年(1965年)小学6年まで、友と草や藻に潜んでいる魚を手で探り掴み取りを競い、掴んだ魚の類を手の感触で、相手は想定で言い合い、当たった時あがる歓声が聞こえてきた。その時の物と種類形態も大差ないことに、昭和50年(1975年)、座禅川が人工化され、水の色が変わったことがあっても一昨日(29日)まで変わらず生きてきた魚たちが愛しく、子供らが、掴まえた魚を生簀(川床を掘り下げ砂利で囲む)を作り、その中に放ち、内の何匹かを学童帽やチンビ笊に入れ持ち来た景を思い、自然・せせらぎに遊ぶ子らの情感を偲びつ、孫はこの川に一人も入られないことの空しさを考えつついた。
 その時、「こんな汚い川に入るの止しなよ。体に悪いよ」と声がした。「大丈夫、元気者だから」と二つ目にかかる頃、水に浸った腕が痒くなった。そして痛みが…・・。やがて足も、三つ目に近づいた時、肩から背中がウザウザした。「オーイ何してる。そこまでしなくていいよ」と声がかかる。「有り難う」と応じて、なお。川中にいる私に 「早く上がった方がいいよ」と。
 ままよここまで来たのだからと歩を延ばした。首が押し込まれるように重くなった。頭がしぼられるように痛重くなった。五つ目を見て川から上がり、側道を川上に。そこには、昔ながらの川があった。この水で痛痒さを流そう。陽光が描く川床の模様の妙味。キラリ、七彩ちりばめて波紋、新緑映す川面、膝丈までの水深は、春陽を抱いて温む。静穏。深呼吸一瞬。この妙処で、一人。無我夢中で手足をこすり洗う無味。痒みは大部とれたが残る苦痛を除くため。一瞬も早く掘抜き湧水で洗い流したい。が、頭に響いて駆けられない。帰宅し、風呂で夢中で洗い流した。痛みも半減したが首、頭の重苦しさは変わらない。冷やしつつ休む。翌朝随分と軽くなったが再びこの川に入る剛毅は持てず、草に絡む魚だけ拾って終わりにした。
 魚の死因は酸欠だと自治会役員から知らされた。酸欠になった原因はと聞くと、家畜の糞尿と言ったという。以前から変わらぬ家畜の飼育状況の中で、今まで皆無だったことなのに何故。それを鵜呑みにしてしまってよいのだろうか。市に県に疑問を投げかけた。
 市からの回答は前述と同じ。県は定点検査を行っているからと言う。魚は29日に浮いた時点で大方は流れ去ったであろう。にもかかわらず深瀬に大量の死魚。昭和47年に下水上一般廃棄物最終処分場が三笠川へりに造られた後の昭和52年に焼却処理が始まり三笠川で魚が死んだ。再びの魚の死を思う時、この魚の死姿を絵空事のように、他人事のように処す行政関係者の振る舞いは何なんだろうか。もっと高齢の人も初めてと言う事態の上にあって、当時の理念欠く首長、行政責任者の姿勢に、環境、命(健康)への不安は続く。  
 魚の死は、経済成長一辺倒に自然破壊して進む構造に、万物を抱き育む地球の自然が己れの生体を通して、方向性を見違えるなと示唆した如くに思えて、知恵あることを自負する人間らしく、生命の原点を互いが見つめ合える場造りと、環境保全対策、方策違わぬ体制をと、丘陵農村地域にいて願わずにはいられないのでした。
      ※ 死魚穴 死んだ魚が深いよどみに渦を巻   いた形で折り重なって沈んでいた所                      

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