いのちの本質を問いかける no.4

疑念多く 廃棄物最終処分場


石井



昭和47年(1972年)から、平塚市全住民の全種のゴミが平塚市土屋土沢中学校間近の谷筋に運び込まれた。昭和52年(1977)年、下水上一般廃棄物最終処分場との掲示がなされた。その後、下方の三笠川縁に水浄化施設が造られ井戸が掘られた。素捨てのゴミで積み重ねられた場所へ施した処分場工法はどのようになされたものであろうか。この期から持ち込まれるものは、一般ゴミの大半を燃やした後の灰の様だ。その灰を冷やすために使われた水を処分場内で水浄化施設に集めて無害化処理し河川に流せとの策のよう推察するのだが、処分場中の灰からの水を水浄化施設に集める手法はどうあったのであろうかと、三笠川を流れ出る水の場所に、環境(特にゴミに心置く)先駆者に立って頂いた。誰しもが苦笑の態。 ≪ゴミの焼却灰は、有害≫ 昭和50年前々半までの三笠川は、童謡『春の小川』の如。太陽の光を映すせせらぎに、キラリ銀鱗。畑仕事の一時、口をすすぎ、手足を浸して憩う。続く日照りには、その水で蘇る農作物。三笠川に添う山裾に湧く水に喉が潤う。(夏は冷たく冬は温かく)土屋に生まれ育ち土屋に住む姑は、「子供連れで歩く時でも土屋内なら水筒は持たずともよい。どこにでも美味しい水がある。」と、子等との野歩きに、水筒を持とうとした私に言う。 昭和50年代前半、三笠川が灰茶濁色に。同年代半ば、「魚がいなくなっちゃった川に(三笠川)孫がとび込んだら(川遊び)どうしようと気が気じゃない。」と言う人。井戸水(掘りぬき井戸)の汚れを懸念する人、三笠川の水の検査を市に提言したとの声も伝わる時期に、平塚市が一般棄物最終処分場を土屋の遠藤原へ建設計画との噂。「まさか!」行政者たるものが、命の根幹にある水との関連性を追わぬ事態とは。このような策は平塚市だけかと思いあぐねる中、市は法治国家日本にあって国の法に随ってのことと言う。自然に対して臆面もない。厚生省(昭和50年代)は、丘陵緑地を適地と法づけてはいないと言う。 昭和52年(1997年)廃掃法に変わって、処分場政策がとられてからの年月は浅い。飽食のゴミで天恵の水の水源を傷つけて行く愚かさから逃れねばと強く思う。 自然に囲まれ、天恵の水がめに育った子等、農作業や薪山仕事が快く楽しい日々(昭和50年代)の健康に感謝しつつ、処分場設置態勢になってから初の処分場設置地域の住民として、水源上に重ねる処分場の是非を広く問いかけ諸説を仰ぎたいと深く思った。 幅広い皆様方の御高識に、ごみ問題への不安解消される感を持つ。近年、処分場の在り方が以前より強く問われている中で、環境政策を謳う平塚市の処分場が水源地土屋に来てはや30年。 自然の摂理、地球の掟に逆らう先はと、環境への懸念は募る。水は一辺に止まらず。地下の水汚してどうあがな贖う。                                                                                                             



12月21日平塚市環境管理課を訪れ、下水上廃棄物最終処分場の処理施設の集水構造について質問した。現在、構造図等の資料が残っていないので説明できないと回答された。廃掃法(昭和52年)以前の施設なので法令の適用は受けない。しかし、有害物質(ダイオキシン、重金属等)の残留が考えられる遮水シートのない廃棄物最終処理施設から集水することが可能だろうか。平塚市は構造の説明はできないと言いつつ現在も浸出水処理施設を稼動している。集水構造が不明な水浄化処理のデータは何を意味するのだろうか。 右下の図は、平成10年に最終処分場の基準が強化された時の参考図です。コメント:小林

下水上一般廃棄物最終処分場浸出水処理施設
一般廃棄物最終処分場平成10年参考図
        
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