いのちの本質を問いかける no12

文明生活の基本は 自然生態系を軸に


石井



 昭和10年(1930年)後半から義父が始めた稲作りの場は、大正年間の耕地整理で、田一枚の面積を一反歩(9.9アール)割りにし、それを連ねた凡そ20町歩(200アール)の田園地帯の中の一部分にあり、一枚分が田毎に、1.8尺(54cm)幅の畦畔が土で盛り作られて居り、それを含めてが固有田地でした。その畦畔に沿って(北から南に向く)1.8尺(54cm)の水路が手掘りで直線で通り、更にこの水路に平行して、幅6尺(180cm)と3尺幅の土道が交互に設けられている形態でした。
 自然の理を踏まえ、働き良さが加味されつ、乳幼児期からここの田仕事に連れて来ても不安なく、秋春間は子供達の遊び場として和やかでした。
 昭和30年(1950年)代半ば、この田圃からの砂利採掘話しが。…義母が、「砂利が適度にある地は使い易いんだよ」と言い、私もそう思う中で、義父はと思いつの時始まり、稲作りに熱心な義父が何故と腑に落ちぬ中に、砂利採りが終え整備されたという田。そこに足を運ぶ…。
 幅54cmの土盛りだった畦畔が、幅15cm程のコンクリート造りの畦畔に。コンクリート三面張りの水路に。
 今日はここの田植えの日。植え手の人の持ち幅を示す縄を田の面に引き置くことから始まり、例年に習い、長い方の畦畔に沿って引く縄に向けて、短い方の畦畔に相対して立ち義父の動きに合わせて運びます。義父は最初に手に持った縄が瞬時に手から放れてしまい、「ボヤボヤしてるな」と高い声で言う。?手外した縄は田に落ちてしまうのです。之から植える田に足を踏み入れるのは禁です。(足跡に植えた苗は浮き出し等で定着しないからです)
 縄を手にしている方が静かに引き寄せ、畦畔を通って縄を渡しに行くのですが、この畦畔では駆けられません。これにじれる義父を感じながら、次に引く縄への動作も去年までとは違う様の義父。私もこの畦畔では、去年までの様な畦畔との一体感が持てず、足元に気を注がざるを得ない不如意さの中に、義父のじれが伝わり来るのです。
 自分で縄を手外して、離れた位置から怒鳴る如く伝わる義父の声に、去年までは畦畔をかけ歩いていたのに、今年は何故と状況判断をしてくれぬ義父に今まで持っていた義父へのイメージが崩れたのでした。
 次は苗振りです。この畦畔では一輪車も使えず、苗を纏め置く場所もなく、駆け動けぬ中に「苗が無いよ」の声が飛ぶ。状況は解してくれているのだが、一斉に横並びに始まる田植え作業に、苗が手許に振られてないと、その一瞬が遅れる元になるので、声してしまうのだと解しつ、今まで経験したことのない追われる苗振りに気落ちした私でした。
 砂利採りの目的は何だったのでしょう。
 昭和40年(1965年) 県道舗装工事の件に一切触れぬ義父に、私は県(公)と直面せざるを得なくなり、之を通して、砂利採りの件に際し、田植の時に義父に向けた不信感を悔い、敗戦の憂き目の中、民主主義体制がとられてから20年経て、県と話す過程で、公が民に処す姿勢は(愚直庶民に限られてか)一方的。高飛車なのだなと私は思える中で、物を大切にする義父が父親が携わって整理したという田園からの砂利採りにも従せざるを得ずのその結果の田の初作業の失敗に心が動揺してのことにあったのかなと、思い巡らせ、県道舗装工事の結果に、論理、道理より金銭力、見た目だけの文明生活邁進の広がりを案じました。
 県の意向に沿い造り使用許可を得た橋を義父は使うことなく、残る昔の畦畔を出入りしつ、昭和43年(1968年)3月義父の急逝直後〔稲一代、昭和35年4月〕と記し重ね綴じられたノートに触れる。
 食料困窮期を知る世代が多くいる世上で、命育む要素持つ自然、山野、河川、海の景を人の手で大きく変化させる時期になり、優しかった風景が、こわもて風景に転じ始めた頃のこと。
 田舎に住んで数10年間変わらぬ風景を見続けて来た私は、平和時に至って自然が破壊される風景に自然が成せる命への贈り物を失わしめる人の物品欲望行動への不安を隠し切れないのでした。

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