日常茶飯

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#66 
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騒音

 駅のホームで電車を待っていると構内アナウンスが耳に障る。 やれ何処行きの電車がまいります。 次は急行です。 白線の内側でお待ちください。 誰も聞いていないような内容を大声で云うので困る。 約50年前に内田百閒は『第一阿房列車』(新潮文庫)の中で、 <輪郭のはっきりとしない、何となくわんわん吠(ほ)えている様な大阪駅>、 と書いているから、昔から駅とは五月蠅(うるさ)い場所なのだろう。

 だから、案内放送がなければどんなに静かだろうと思うことがある。 そう云う路線もあると聞くが、只すーっとホームに電車が到着してドアが開き、 また閉じて行って仕舞う。 乗り損なう人もいるだろうが、大(たい)したことではない。 時刻表を見ればいつ来るかは弁(わきま)えているわけで、 それが遅れるときに初めて案内をすればいいことである。 のべつ喋っていると云うのはサービスではない筈で、一度でも案内放送のシステム障害が起きて、 アナウンス出来ないと云うことが起きれば、その良さが周知されるのではないかと思ってみた。 が、そんな日には駅員がホームに起(た)って拡声器のマイクで案内するだろうと考えて諦(あきら)めた。

 電車の中でイヤホンをつけて、何か音楽でも聞いている人は珍しくない。 そう云う人は歩いているときも聞いているようである。 と云うのもそんな習慣がない。 だけど携帯プレイヤーは持っている。 それで試しに先日イヤホンをつけて出かけてみた。 歩道を歩きながら聞いていると聞きづらい。 往来を走るクルマの音が妙に耳に障るのは不思議である。 普段ならクルマの音は気にならなかった。 それよりも大きな音はトラックで、見れば分かるからそんなもんで、音の大きさは気にも留めていなかった。 それがイヤホンに聴き入っていると、改めて騒音が気になる。 音楽ならジャンルにもよるだろうが、 落語なんかを聞いていると五月蠅くて仕方ない。 世は騒音と云うのを知った。 音が漏れる大音量で聞いている人を見かけるが、抵抗しているのか知ら。
'06年12月14日

詫び状

 ウイルス対策ソフトの有効期限は来年の1月に切れる。 毎年更新して使っているのだけど、その期日を覚えていたのではない。 9月にバージョンアップした「ウイルスバスター2007」は、11月になると唐突にディスプレイの右下に立て看板を出すようになった。 12月も何回か現れた。 何だろうと見ると、「契約期間がまもなく終了します。ご契約の有効期限が過ぎる前に更新手続きをお願いします」、 と教えてくれたからである。 期限まではまだあるから、「後で行う」をクリックすると看板は消えた。

 トレンドマイクロ社は、ユーザー登録するとユーザー様ではなく会員様と呼ぶ。 ウイルスバスタークラブ会の一員にされて仕舞うのである。 会員で居続けるには毎年会費を払う必要がある。 会員であれば誰でもパターンファイルを更新できるし、毎年秋にはソフトをバージョンアップするが、 それを「無料バージョンアップ」と云うのは向こうの言い分に過ぎない。 「基本料0円」と云うTVコマーシャルに似たものである。

 それが先日クラブ会員更新の案内が郵送されたのはいつものことだけど、 契約期限が間違っている。 12月31日までと印字されているのは、向こうが悪いに決まっているから黙っていた。 すると、今度はメールが届いた。 誤りを認めたお詫びである。 誰かが問い合わせたので判明し、それであわてたのだろう。 咎めているのではない。

 ウイルス対策ソフトは、はじめはシマンテック社の「ノートン・アンチウイルス」を使っていた。 この様なソフトが必要だと云うことが一般に知られる前のことである。 毎年更新料がいることは買って初めて知った。 ところがこの会社の変なのは、更新の案内をよこさない。 はじめの何年は気づいて更新したが、そのうち忘れるし、手続きの仕方も分からなくなった。 更新が切れても、シマンテック社の良いとこはパターンファイルの無料の更新と云うのがあった。 今はどうだか知らないけれど、 トレンドマイクロ社に乗り換えたのである。 それにしても、会員様の期限を間違うのは粗忽である。
'06年12月10日

大雪過ぎて

 きのうはたしか二十四節気の一、大雪(たいせつ)で、ことしもあと三週間ばかりとなった。 夕暮れになると、街路樹や街灯に巻きついたイルミネーションがキラキラ光っている。 師走は慌ただしい。 この数日も、次から次と用事が出来るから、応接に暇(いとま)がない有様で、なんとかいまは一段落している。 本欄の旧稿の日付が11月になっているのに気づいて12月に改めた。 応接に暇なしは、ここにも及んでいた。

 一応お断りしておくが、 またもクリント・イーストウッド監督の話になるのは偶然で、間(あいだ)を空けたからである。 昨夜、テレビでイーストウッド主演監督の『ミリオンダラー・ベイビー』(2004年)をみた。 新作映画の宣伝なのだろう、最近のテレビはこればっかりなので困る。 後味の悪い映画だった。 見なきゃよかったとは思わない(そんな映画はいくらもあるけど)、 映画としての完成度は高いと思った。 貧困から抜けだそうとする三十過ぎの女ボクサーがチャンピオンを目指す。 プロットをみていると、単なるサクセス・ストーリーじゃないな、と云うのは分かってたが、 あんな展開は嫌だ。

 『ダーティ・ハリー』シリーズの俳優として若かったイーストウッドはテレビで気に入っていた。 が、監督としてのイーストウッドはよく知らない。 『許されざる者』、『マディソン郡の橋』はテレビでみた覚えがあるが印象に残っていない。 イーストウッドは老齢になっての監督である。 『ミリオンダラー・ベイビー』はアカデミー賞作品賞だったと云うけれど、嫌なものだった。
'06年12月08日

硫黄島(承前)

 映画ジャーナリスト、村井真郎と云う人の「クリント・イーストウッドを魅了した日本軍兵士の『手紙』」が 「諸君!」’07年1月号に載っている。 『硫黄島からの手紙』の映画づくりについて、イーストウッドにインタビューしたものである。 それによるとイーストウッドは、『手紙』と二部作となっている前作の、『父親たちの星条旗』を監督することが決まり、 準備に入り、 記録映像を見たり、関連資料を読み漁っている中で、ひとりの軍人、栗林忠道中将を発見した。 イーストウッドはこう語っている。

 <いろいろ集めた資料の中に、栗林中将が日本にいる妻や子どもたちに送った手紙を掲載した本が二冊ほどあった。 手紙はまだ若い将校だった一九二八年から三〇年にアメリカへ留学していた頃のものだった。…(中略)…
 指揮官として優れた資質がありながら、それとはまったくちがう顔を家族に見せていたことに興味を惹かれ、 非常に人間的な魅力があると感じたんだ>

 はじめは、『星条旗』の中に栗林中将のことを描き込もうとしたが、知れば知るほど詳しく描きたくなった。 <アメリカ軍と硫黄島で戦った日本人兵士がどういう状況の中で、どういう思いでいたのか。 そこにはアメリカ側と共通するものがあったはず。 そう考えると、どうしてももう一本べつの映画にすべきだという気持ちになってきた>

 村井さんの文章を読んでいて興味深かったのは、イーストウッドは演技については俳優にまかせる監督で、 <本番一発オーケーが基本であり、俳優がミスしても演技を続けさせる>、と云うこと。 映画で最も重要なのは脚本だと考えている。 細部までとことん詰める。 去年、イーストウッドは取材のため硫黄島の戦闘を経験した元兵士、遺族と面会している。 取材を受けた関係者が、アメリカ人の勝手な視点で映画をつくられるのではと怪しむのはもっともである。 ところが言葉を交わすうちに、イーストウッドが資料を読み込んでいることが伝わり、信頼を得たと云う。 遺留品や遺品などを借りることが出来たと云う。 先月、硫黄島の関係者のための完成披露試写会が開かれている。

 『手紙』は今度の土曜日に公開される。 是非、映画館に出かけてみようと思っているわけではないけれど、 ハリウッド映画にしては異色だと思うので書いてみた。
 それで云い忘れたのだが、制作はスティーブン・スピルバーグである。 商魂逞(たくま)しいこの人が出て来るのは、『星条旗』の映画化の権利(こちらは原作がある)を獲得していたからで、 その意味では矢っ張りハリウッド的映画だなあ。
'06年12月03日

硫黄島

 クリント・イーストウッドが監督した映画、『硫黄島からの手紙』がまもなく公開される。 太平洋戦争の激戦地での戦いを描いた映画は、 渡辺謙はじめ、ほとんど日本人キャストで全編日本語だと云うから、ハリウッド映画としては異色である。 イーストウッドはなぜ、日本映画をつくったのだろう。

 硫黄島は約二十平方キロ、半日も歩けば一周出来る小島だった。 位置は、サイパンと東京の中間地点にあたり、米軍にとって日本空襲の爆撃機の拠点基地として、 なんとしても手に入れたい島であり、日本軍にしては絶対に敵に渡すことの出来ない島であった。 この防戦の指揮官は、栗林忠道中将。 昭和十九年六月、飛行機で硫黄島に着任すると、栗林は自ら陣頭に立ち、 兵を奨励して全島に蜘蛛(くも)の巣のように坑道を掘らせ続けた。 掘ればたちまち亜硫酸ガスが噴出する地熱の島であった。 しかも本土からの補給は思うにまかせない。 米軍が来攻すれば全滅は必至であることは、栗林以下二万九百三十三人の将兵みな承知していた。

 硫黄島は半年にわたって爆撃され続けた。 そして、ついに昭和二十年二月十六日、戦艦七、空母十一、重巡四、駆逐艦十五の米軍大艦隊が来攻し、 三日間にわたる砲爆撃ののち十八日未明から、海兵隊は水陸両用の装甲車五百隻をもって上陸を開始した。 圧倒的戦力をもってする米軍の攻略予定期間は五日間で、 島南端の摺鉢山(すりばちやま)に星条旗が押し立てられたのは二月二十四日であったが、 地下壕を利用する日本兵は容易に屈せず、戦闘はそれから惨烈を極め、 三月下旬まで続いた。 三月二十六日午前二時ごろ、栗林以下生き残りの将兵約百四十数名は、白だすきをかけて地下壕から出撃し、玉砕した。 日本軍二万九百三十三人中、一万九千九百人が戦死し、生き残った千人余も大半傷ついていた。 アメリカ軍の死傷者は二万八千六百八十六人であった。

 以上、山田風太郎の『人間臨終図鑑』(徳間文庫)から抜き書きした。 栗林中将を、こう評している。 <栗林はスラリとして端麗な体軀(たいく)と容貌の持主であったが、一方的な戦闘となった太平洋戦争後半において 日本の指揮官中、最も効率のいい戦(いく)さをした名将であり勇将であったといえる>、と。 この話続く。
'06年12月02日

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