![]() (撮影:上野彦馬) |
もしかしてご先祖?親戚? 横屋憲蔵(幸喬)よこやけんぞう(ゆきたか) 天保2年〜明治29年(1831〜1896) 備中松山藩士。黒野家に生まれ、のちに横屋家を継ぐ。幼名本之進、譲之助、隆平、憲蔵と称した。幼少のとき江戸で樫原流槍術を学び、嘉永3年(1850)九州柳川で研鑽、帰藩し槍術指南役となる。明治元年正月、岡山藩兵が松山藩封境に迫るや、藩を代表して美袋(みなぎ:岡山県総社市)で折衝した。維新後、公用人となり、のちに神奈川県大属となる。(大属とは旧制で、官庁の判任文官。属官) 『写真集・近代日本を支えた人々−井関守良旧蔵コレクション−』 東京都港区教育委員会より |
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板倉勝清ともう一枚の写真 新選組や幕末の歴史にハマル毎日ですが、先日、ひょんなことから、『近代日本を支えた人々−井関守良旧蔵コレクション−』という写真集を入手しました。ページをめくっていると、なんと私と同じ苗字の横屋憲蔵という名の武士が備中松山藩の藩主「板倉周防・勝清(いたくらかつきよ)」の隣に載っていました。 井関守良と上野彦馬 井関守良(いせき・もりよし)という人は、伊予宇和島藩(愛媛県宇和島市)出身で、明治2年(1869)4月に神奈川県知事となった人です。意外に知られていませんが、井関は伊藤博文や大熊重信とともに新政府中央で要職を務めた人です。我が国初の日刊新聞「横浜毎日新聞」も発刊しています。 撮影者の上野彦馬(うえの・ひこま)は我が国初の職業写真師で、文久2年(1862)に長崎にて上野撮影局(写真館)を開きました。そこで、土佐藩の坂本龍馬(さかもと・りょうま)や中岡慎太郎(なかおか・しんたろう)、長州藩の高杉晋作(たかすぎ・しんさく)・木戸孝允(きど・たかよし)(桂小五郎)・伊藤博文(いとう・ひろぶみ)、佐賀藩の大隈重信(おおくま・しげのぶ)など、若き日の幕末志士の写真を数多く撮影しています。この上野彦馬をモデルにした三上のぼる著「フォトガラ屋 彦馬 日本初のプロカメラマン」(リイド社)というコミックもでています。 幕末の名士 板倉勝清は備中松山藩(岡山県高梁市)五万石の藩主であり、時の老中です。話はそれますが、勝清は桑名松平家(元白河藩主松平定永)の八男で。嘉永2年(1849)に備中松山の板倉家へ養子入ります。そして文久2年(1862)には、老中職についています。徳川慶喜が上洛したときには慶喜の補佐として、京都や大坂を奔走します。 新選組と板倉勝清 勝清は幕末歴史に興味がある方にはとても有名な人です。もちろん新選組関連の書籍には必ず登場する人物です。鳥羽伏見の戦いで破れた慶喜が江戸へ逃れたとき、これに従った勝清に対して、新政府軍は官位を剥奪します。さらに松山藩の追討をお隣の備前岡山藩に命じます。 横屋憲蔵と松山城 慶応3年(1867)の12月、藩主不在の松山藩は徹底抗戦か恭順かを迫られました。結局、恭順と藩論が統一され、松山城は無血開城いたします。そのとき、藩を代表して美袋(みなぎ)で直接交渉にあたったのが、この「横屋憲蔵」なのです。 戊辰戦争を戦い抜く 一方老中を辞職した勝清は、その後、宇都宮城で大鳥圭介らと合流し、新選組や旧幕府軍の榎本武揚らとともに「五稜郭」で戦い。「箱館政府」を樹立しますが、最後には新政府軍に破れて降伏します。そして赦免されると、上野東照宮の宮司として生涯を終えています。 横屋家の謎 「横屋」という名は、広辞苑によると、出雲地方で神主または「鍵取り」の家。その家が神社の片脇にあるからいう由来があるとのことです。「鍵取り」は、@律令制で中務省内蔵寮・大蔵省などに勤務し、朝廷の倉庫の鍵を管理した官人。典鑰(てんやく)。主鑰。かぎのつかさ。A寺社・荘園や近世の村で、厨子・倉庫・郷倉などの鍵を預かる役。とあります。 中世からあった特殊な職業らしいことがわかっています。横屋家の元々の先祖は、神主か倉庫番だったのでしょうか? 中国地方や山陰地方にある名前 ネットで検索してみると、神戸市東灘地区に「横屋八幡」というのがありました。ここから「だんじり」の山車が出るようです。地名としては神戸市東灘区の魚崎町があり、以前の魚崎村と横屋村が合併してできたらしいです。岐阜県の大垣から樽見までを結ぶ樽見鉄道に横屋駅があります。そして、岐阜県養老郡養老町に横屋という地名があります。島根県では、島根県能義郡伯太町に横屋という地名が残っています。 東北で地名を探す 平安時代には荘園が各地にできましたので、全国に横屋という地名が多くあってもいいはずです。ところが東北には皆無です。 生まれ故郷の岩手でも同姓は叔父、叔母、従兄弟の親戚がほとんどです。ラーメンが有名な乙部の「横屋食堂」。こちらは祖父の本家筋にあたります。私のラーメン好きは関係あるのでしょうか?(笑) |
酒造店と温泉旅館 岩手県東磐井郡千厩町に大正創業で「玉の春」という日本酒を造る「横屋酒造」という会社がありますが、創業は佐藤さんで「横屋」との関係は不明です。 神事にお酒はつきものですから、こちらは屋号として残っているのかもしれません。 「横屋酒造は、大正元年に創業した造り酒屋で、明治年間に塩釜の宮大工が建てた本宅や、創業当時から使用されている蔵が並んでおり、貴重な文化遺産であります。」とありました。 宮大工?後に出てきますが、この人物と横屋の関係が少々引っかかります。 またこの建物は文化庁より有形文化財として登録されたようです。千厩町文化財のサイトには大正元年(1912)に、摺沢村の「横屋」、佐藤秀蔵氏の三男秀平氏が、分家後、同地に居住し、司馬屋酒造店の土地建物を基に酒造業を創始し、「玉の春」を世に売り出しました。 とありました。摺沢村は大東町に属しています。 大東町は、岩手県の南に位置する「宝蓬謙水の里」といわれ、「宝蓬」は緑豊かな山々を、「謙水」はふるさとの山 野を流れる清らかな水を象徴しています。「宝蓬譲水」はふるさとの偉人・芦東山が山紫水明の自然を後世に伝えるべく命名した言葉なそうで東部は標高895mの高さをる室根山、北西部は宮沢賢治の詩で有名な種山高原と多くの野鳥 が生息する阿原高原が広がっています。また、町の東から西へ貫流する砂鉄川は、支流の興田川や曽慶川を集めて地域の中心的存在となっています。 町の歴史を溯るれば、今から1270余年前、奈良時代の養老年間に大野朝臣東人があら玉を堀り、それを摺り磨いて朝 廷に献上したことから「摺沢(須留沢)」の地名ができたと伝えられており、その頃から一帯には村落が形成されてい た。豪族の安部氏が衣川を拠点に勢力をふるっていた頃はその治下にあり、その後平泉の藤原氏が三代にわたり90年間の栄華を誇り、このあたりを東山として治めました。文治5年からは葛西時代が400年間続き、天正19年に伊達藩の所領になり300年間はその配下にありましたが明治9年に岩手県に属し、昭和30年4月1日大原町、摺沢町、興田村、猿沢村、渋民村が合併して現在の大東町が誕生しております。 、下閉伊郡岩泉町には横屋建設 がありますが、名前の出生は不明です。 また東北では宮城県の鳴子温泉に本陣横屋というのもありますけど、こちらも関係はさらに不明です(笑) 全国苗字ランキング 全国のNTT電話帳に漢字表記されている苗字を調べたサイト「日本の苗字7千傑」でランキングをみると、同じ「ヨコヤ」読みで横谷 6100人(2359位)、横矢1300人(6955位)もありますが、私の姓でもある「横屋」は、さらに少なく、全国に390人(14443位)しかおりません。できあいの三文判を買いに行っても絶対ありません(笑)。 源流は清和源氏? 亡き父より聞いていたのは、出雲地方や兵庫、岡山に古くから地名があるらしく、どうやら遠いご先祖はそちらのほうの出らしいと聞いていました。そして、江戸時代からすでに横屋姓を名乗っていたそうです。 前述のサイトで名前を調べてみると「甲斐国巨摩郡の名族、清和源氏小笠原氏流。現在、岩手県盛岡市に多い」とありました。もちろん市内の同姓は叔父、叔母、従兄弟と全て親戚ですので、たぶん間違いないでしょう。 甲斐といえば武田信玄。武田氏滅亡の際、家康に下ったと思われます。実は新選組の母体となった近藤勇、土方歳三の生まれ育った多摩の気風や八王子千人同心も同系列の人々です。横屋という苗字が、同じ流れで繋がっていた。そう考えると親近感が沸きます。 家紋と武田家の関係 江戸時代には農家では苗字帯刀は許されませんでしたが、郷士であったかもしれません。わが横屋家の家紋は木瓜(もっこう)です。代表的なのは平氏ですが。武田氏にもあります。親戚の話では、鎌倉時代の落ち武者説、お姫様説も、ありましたが、根拠ははっきりしませんでした(笑)。 一本の槍 ただし、祖父の実家には昔からかなり古い一本の槍があり、槍とともに鎌倉以降に書かれたと思われる地割の証文が残っていました。叔母によると戦中には、祖父が陸軍から軍刀の研ぎを依頼されていたようですので、刀剣類には、詳しかったそうです。不思議なことに槍術指南役だった横屋憲蔵と槍は、なぜか符合します。 本家は世継ぎがいなかった 私の祖父「政蔵」は、明治33年3月14日(1900)、紫波郡乙部の大ケ生(おおがゆ)という場所で父亀蔵と母スイの五男として生まれました。 ところが備中高梁藩(岡山県)の横屋憲蔵は、明治29年(1896)に神奈川県で没していますから、直系の先祖ではありえません。また憲蔵は黒野家から横屋家に養子に入ったとありますから、本家には世継ぎがいなかったと思われます。 蔵と苗字 ですが、それ以前に分家している可能性は捨て切れません。少なくとも、甲斐国巨摩郡の名族であったとされる横屋と同族であることは、ほぼ間違いないでしょう。 また不思議なことに「憲蔵」もそうですが、名前の跡には必ず蔵がついているのです。祖父の父が「亀蔵」といいますし、祖父「政蔵」の兄弟も全て、三蔵(兄)留蔵(兄)です。これは広辞苑にあるように倉庫の鍵を管理した官人につけられた名前ではないでしょうか? ちなみに、三蔵は宮内庁の募集により、岩手より雑司が谷に住み、宮内庁で馬車方をやっていました。甲斐の横屋一族はどのような人々だったのでしょう。 (調査はつづく)NEXT→ |