新事実・判明!
一族は宮大工の集団だった。

武田氏研究会の秋山氏の「槍皮(ひわだ)大工横屋氏の系譜」によれば、横屋一族は、甲府の在郷職人であり、武田信虎が甲府城を築城した頃から歴史に登場しています。どうやら元々は甲府城築城の際に、京から下向した技術者集団だったらしいのです。

そして、少なくても横屋新右衛門(父)−横屋清七郎(子)−横屋三郎衛門(孫)という職人がおり、十五所権現宝殿(塩山市藤木)、熊野神社本殿(塩山市熊野)、諏訪神社本殿(甲府市小松町)、浅間神社本殿(甲府市甲西町江原)、細草神社(甲府市平瀬町)の建築に携わっていたことが棟札に残されています。

彼らは天文17年(1548年)から永禄13年(1570年)の間、山梨郡松尾(現在の山梨県塩山市<えんざんし>)に在住し、松尾を拠点として国中一円に渡り槍皮師として自ら営業活動を行い神社や寺の造営に関わっていたらしいのです。

恵林寺検地帳にも横屋氏の名前が見えることから。寺から土地を与えられていたようです。また横屋氏は国中地域の屋根葺き工事を「自由」に請け負う為に支配下に職人を抱えた棟梁的立場にあったらしく、武田氏滅亡後も横屋氏は活動してようです。秋山氏が作った下の図(抜粋)を見ても分るとおり、彼らが200年近くも、大工活動を続けていた事には、流石に驚きました。
当時は、かなりの力を持っていたことが伺えます。
ところで甲府の横屋氏の活動ですが、19世紀になって没落したようで、歴史の足跡が急に消えていきます。秋山氏は、その理由を記していませんが、槍皮を葺くという受注が無くなったか、前述の備中松山藩の横屋家へ養子に入った横屋憲蔵のよう、跡継ぎに恵まれなかったのではないかと考えます。

さて、岩手に移動したと考えられる横屋氏の本家は、26代まで遡ることができると伝えられています。つまり岩手在住の横屋一族は、甲府から、近年移り住んだものではないのです。
横屋新右衛門あたりの親戚かどうかはわかりませんが、少なくても、200年以上も前に、なんらかの特別の理由があり、甲府、あるいは京都から檜皮(宮)大工の集団として岩手に移り住んだと考えるほうが自然と考えられます。

確たる物証は見つかっていませんが、私的結論として、南部藩の出が甲斐源氏であり、当時、甲府を中心に横屋氏も活発な活動をしていたことから、慶長3年(1558年頃)に完成する南部(盛岡)城の築城や街づくりに合わせて、甲府あるいは京都から技術者として、移り住んだのではないかと私は考えています。ちなみに盛岡の叔父と昨年9月に靖国神社宮司となった南部(南部家45代当主)さんとは、同い年で、現在も懇意にさせていただいているらしいですが・・・(笑)


−参考資料−
武田氏研究会 武田氏研究−第23号−
「槍皮大工横屋氏の系譜」秋山 敬

年号 西暦 工事場所 市町村 大工名
慶長10年 1605 宇波刀神社 甲府市 横屋三郎右衛門
慶安 2年 1648 持久神社 韮崎市 横屋六右衛門
明暦 3年 1657 船形神社 甲府市 横屋六右衛門
寛文 3年 1663 熊野神社 塩山市 横屋六右衛門
寛文11年 1671 穂見八幡宮 田富町 横屋六右衛門
元禄 7年 1694 諏訪神社 韮崎市 横屋六右衛門
元禄15年 1702 諏訪神社 白根町 横屋加兵衛
享保 8年 1723 細草神社 甲府市 横屋三郎右衛門 忠七(忠七郎?)
享保20年 1735 若松神社 山梨市 横屋三郎右衛門 九右衛門
享保21年 1736 宇波刀神社 韮崎市 横屋七兵衛
元文 3年 1738 北口本宮浅間神社 富士吉田市 横屋七兵衛 忠七郎 喜兵衛門
元文 3年 1738 三島神社 大月市 横屋七兵衛 九右衛門 五左衛門
元文 4年 1739 諏訪神社 白根町 横屋九右衛門
元文 5年 1740 八幡大神社 須玉町 横屋九右衛門
寛保 3年 1743 熊野神社 境川村 横屋九右衛門
宝暦 6年 1756 八幡神社 八代町 横屋九右衛門 又七
明和 7年 1770 神部神社 須玉町 横屋七兵衛 九右衛門
安永 3年 1774 黒戸奈神社 甲府市 横屋忠七(忠七郎?)
安永 6年 1777 八幡大神社 石和町 横屋九衛門・経政
天明 2年 1782 諏訪神社 白根町 横屋九衛門
文化 元年 1804 子神社 大月市 横屋七兵衛

驚きの横屋!町人もいました。
熊本菊池の「嶋屋日記」の中で発見!

『嶋屋(しまや)日記』は寛文十二年(1672年)から文久二年(1862年)に渡って、江戸時代の出来事を熊本市菊池郡隈府町の、「嶋屋」の屋号を持った商人(角嶋屋、中の嶋屋、横嶋屋(横屋)、綿嶋屋)によって書き綴られた日記です。これは歴史的にも貴重なの古記録なのです。そして特筆なのは、元禄11年(1698)〜享和元年(1801)の部分が横屋九兵衛という人物によって書かれていることなのです。そしてなんと、元禄15年(1702)の出来事として、赤穂浪士の切腹が記されていました(下記は現代訳)
12月15日、播州赤穂浪人17人が預けられ、三宅籐兵衛、用人鎌田軍之助、小姓頭平野九郎衛門他、物頭、騎馬40騎で即刻請け取りに行かれた。預けられた人数・名前は次の通りである。白銀屋敷にて、翌年2月4日に切腹を言い渡される。

大石内蔵之助 知行 千五百石 介錯人 安場一平
吉田忠左衛門 二百石          雨森清太夫
原宗右衛門 三百石           益田貞右衛門
小野寺十内 百五十石         横井儀右衛門
堀部弥兵衛 二百五十石         米良市衛門
近松勘六   三百石            横山作之丞
赤垣源蔵   二百石            中村角太夫

 他10名の浪人の名前と介錯人の名前が記入されている。義士の死骸は泉岳寺に送られた。のりものに高ちょうちん1張、足軽弐人、騎馬前後に乗り、侍数10人で警護して行かれた。その他、10人が松平隠岐守様お預かり、10人が毛利甲斐守様お預かり、 9人が水野監物様お預かりとなった。


間違いなく武士もいました!


この横屋九兵衛、横嶋屋の屋号から名乗ったのかは不明ですが、元々、横屋姓であった可能性が高いと考えられます。また新潟には下記のような名前が残っていました。

去々卯年(1783)凶作二付村々及飢候もの共江 
別冊名前之者共致施行候趣御勘定所江     
申上候所此度於御殿前紙之通
松本伊豆守様御組頭横屋幸之進殿
下御懸り菅沼安次郎殿御列座被
仰渡候二付申渡候格段重キ義二候間
爰元江召呼可申渡事二候得共農業
之最中之義二候間於陣屋申渡候事
巳 五月
右之趣御書面を以被仰渡冥加至極(みょうがしごく)
難有仕合奉存候依而御請連判仕
奉差上候以上
  天明五年(1785)巳五月 越後国魚沼郡
              塩沢村
                勘左衛門 
                六郎治
                銀右衛門
                常右衛門
                与三左衛門
                藤兵衛
                八右衛門
                五郎右衛門
                八郎兵衛
                磯右衛門
                丈右衛門
                権左衛門
                久蔵
                八郎右衛門
                十蔵
                平吉
                清右衛門
                八郎兵衛
                次郎右衛門
                磯次郎
                太郎右衛門
                担右衛門 
会津御領分
   御役所
前書之通一統難有御請申上候処相違無
御座候以上
             塩沢村
              庄屋 兵左衛門

天明3年(1783)の浅間山の爆発は、東北方面に大飢饉を引き起こしました。現在の新潟県南魚沼郡塩沢町においても、米の不作により、年越しの困難な百姓の為に、住民が炊き出しをおこない一命を救いました。このとき藩から感謝状が与えられました。
実際に塩沢町近くの長野県下水内郡栄村秋山地区に有った村、3村が餓死のため年越しできずに大勢亡くなっています。その宛て先として松本伊豆守様御組頭横屋幸之進殿とあることから、当時、新潟にも横屋姓を名乗るサムライが居たことが伺えます。また松本伊豆守とは当時の幕府勘定奉行です。