HULA−遠い道





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Happy Birthday to King & Aloha Kaiulani
1998 Hula O Na Keiki


Happy Birthday to King & Aloha Kaiulani ・(3月23日)

Kaiulaniのお墓参りがしたい。そんな気持ちをずっと持ち続けていた私は、2年前に長男の結婚式をハワイで行うと決まった時、よかった、よかったと言う気持ちと同時に、"よし、今回こそKaiulaniのお墓参りをしよう"と決心したのでした。結婚式と墓参りを一緒にという考えに、なんと不謹慎なと言う考えを持つ人もいるでしょうが、何と思われても、その時はすごくいい考えだ、と思ったのです。しかし、その時私は彼女の墓がどこにあるのかさえ知りませんでした。ホノルルのどこかの教会だろうか、まさかパンチボールじゃないよね、なんてしばらく考えました。
ちょうどその直前あたりから、私はハワイのジャーナリスト・Jさんと度々メールの交換をする機会を得ていました。とても親切な方で、何か質問があったら遠慮しないで聞いてね、といつもメールの最後に書いてあったので、私は遠慮なく早速JさんにKaiulaniの墓はどこにあるのかと問い合わせることにしましたした。

返事はすぐにきました。Kaiulaniはヌウアヌにある王家の霊廟に眠っていて、そこは普段は公開されていないことなどが書かれていました。公開されていないという点にはちょっとがっかりしましたが、場所がわかればせめてその門の前に立って、レイを捧げる事ぐらいはできるかもしれない、Kaiulaniが眠っている所の雰囲気だけでも知ることができると、胸が弾みました。しかも、再びメールが届き、何と私達がハワイに滞在中にKing Kalakauaの誕生祭のセレモニーがあり、霊廟が一般にも公開されるというではありませんか。もしよかったら案内するよ、というありがたいお言葉まで添えてありました。

私は、 Kaiulani 、 King Kalakaua、 Queen Liliuokalaniのためのレイの手配をJさんにお願いして、その日を待ちました。本当は一緒に行くはずだった夫は、当日の朝急に、「墓参りは気乗りしないから、水族館に行く」と言い出し、Jさんにあいさつだけしてホテルの前で別れました。Jサンが用意してくれたレイをかけた夫は、なんだか照れ臭そうに手を振っていました。 車にはJさんのお嬢ちゃんのクロウも同乗していました。彼女もフラを習っているとのことで、親子より年の離れた二人も共通の話題のせいか、すぐに打ち解けて話がはずみました。

王家の霊廟はヌウアウの丘の中腹あたりにありました。周囲は静かな住宅街といった雰囲気で、霊廟の門構えもふだんならきっと通り過ごしてしまうような質素なものでした。ただ普段と違うのは、門が大きく開いていることです。セレモニーは朝の8時開始と聞いていましたが、私達が到着した9時前でもまだ始まっておらず、あちことで数人ずつかたまって話をしたり、挨拶をしている風景がみられました。一般にも公開しているとのことだったので、日本風に大勢の人がつめかけ、人垣でもできているのかと思っていたので、少々拍子抜けでしたが、その静けさと、黒い服に身を包んだハワイアンたちの厳粛な顔がよけいにセレモニーの重々しさを予感させて、気が引き締まりました。

殆どが王族の縁者・親戚だという人達は、女性は肌をすっかりと隠した黒や白のムウムウ、男性はブラックスーツにケープといういでたち。小さな紙に書かれた本日の式次第のようなものが配られて、分散していた人々が礼拝堂に集まってきました。縁者は祭壇に向かって右手の椅子に、一般参列者は左手に別れてすわります。 縁者は30人ほど、一般参列者はその半分ほどでした。薄暗い礼拝堂の小さな窓の明かりを頼りに式次第を読むと、OLI・HE INOA NO KALAKAUAーKAWAI HEWETTという一行もあり、「ヘエ、オリもあるんだ、なんだか聞いたことのある名前だな」、と感心していると、中央の通路を聞き覚えのある声でオリを唱えながらKUMU が静かにすすんで行くではありませんか。KAWAIはKAWAIKAPUOKALANIの略だったのです。今日のKUMU が唱えるオリはなぜかもの悲しく、隣のクロウも神妙な顔をして「シリアス・・・」(雰囲気としては、チョーマジ!?)とうつむいてつぶやいています。

その後神父のお祈りや代表者の挨拶、オウに捧げるウクレレと歌によるハワイアンソング等が続き、式は30分もかからず終わりました。その後はみな外に出て、お墓参りです。しかし、見渡してもどこにもお墓らしいものはありません。中央にモニュメントのような石柱は立っていますが、どうみても墓には見えません。そうこうしているうちに、人の列が出来はじめて、その芝生の中央の方へ歩いていきます。よくみると細い石畳の道の先に地下への入口があったのです。
こちらも最初は縁者の、それも近しい人達が下りていきます。数人ずつ下りて行って、あとの人達は上で待っています。最後の方の私たちの順番になり、入口に近づくのとKUMU 昇ってくるのとが同時でした。「ALOHA KUMU」と声をかけると、意外なところであったというような表情で、しかしいつも通りのあたたかさで抱き締めてくれました。場所が場所だけに、多くも語れず、じゃまた(実際私達は2日後にレッスンを受けるために会うことになっていたのでした)、というような握手で別れて、私達は地下に下りていきました。

地下室の内部はとても狭く、人が3、4人入るともう一杯です。明かりは階段の上からはいる自然光だけ、正面、左右に質素な彫り物を施したプレートがはめ込まれた、最近日本の都会で見られるような"お墓の団地"のようなものなのです。正面はKALAKAUAとKAPIOLANIの墓で、KALAKAUAの胸像が置かれ、華やかにいくつものレイが捧げられていました。私も KALAKAUAのためにKUKUNAOKALAのレイを、KAPIOLANIのためにPUA KALAUNUのレイをおきました。
さあ、いよいよ本命のKAIULANIの墓を探します。不謹慎だけど、今までの長いセレモニーはKAIULANIに会うための前振りのようなもの。私の手にたった一つ残ったPIKAKEの白いレイを握って、左右を見回すと、ありました、KAIULANIの名が。 それは、右手の壁の下の方にひっそりと書かれてありました。あとで知ったのですが、地下室の右手の壁はKALAKAUAファミリーの墓、左手はKAPIOLANIファミリーの墓に分かれているそうで、KAIULANIはLILIUOKALANIといっしょの右手の壁に葬られていたのでした。

私達のあとに地下室に下りる人は誰もいないらしく、Jさんがゆっくりお話しして、と言ってクロウと一緒に先に出ていきました。私はPIKAKEのレイの香りをゆっくりと吸って、そのあとKAIULANIの前におきました。しばらくその前にしゃがんで心の中で語りかけました。 "ALOHA KAIULANI、とうとう来ましたよ。あなたのおかげでフラをはじめる気持ちが起きました。こんなに幸せな時を過ごせるのもあなたのおかげです。MAHALO KAIULANI" 短い語りかけでしたが、MAHALO KAIULANIは長い間私が思っていたすべてです。最後にもう一度周囲を見回して、階段を昇りました。もう二度と来れないかもしれない。でもKAIULANIにこんなに間近で接することが出来たのですから、これ以上のぜいたくは言えません。名残は惜しかったけど、振り返ることはしませんでした。
外では昼近くの強い日ざしの中、Jさんとクロウが待っていてくれました。他の人たちはほとんど帰ったらしく、車も少なくなっていました。「このあとイオラニ宮殿で公的なセレモニーがあるので行ってみよう」とのことで、一路ダウンタウンに向かいました。宮殿へ向かう車の中では私は感激のあまりか口数も少なくなり、みんなもだんまりのままでした。

(写真解説:上・礼拝堂入口、ローカルニュースの取材でインタヴューを受ける関係者。中・地下の霊廟に下りる順番を待つ人達。下・カラカウア王とカピオラニ王妃に捧げたレイ。残念ながらカイウラニのレイは撮影しませんでした。手と影はクロウ。)





1998 Hula O Na Keiki

毎年10月にマウイ島カアナパリ・ビーチ・ホテルで開催される子供たちのフラ・コンペティション「 HULA O NA KEIKI」へ行ってまいりました。今回のハワイ行きの目的は一応「フラのお勉強」ということになっていますが、この時期に設定したのはやはり、このケイキフラ(子供たちのフラ)を是非見たかったからです。
一昨年初めて見たケイキフラは私を打ちのめしました。"私ごときがフラを踊ってはいけないのではないか"としばらくは考え込んだものでした。やはりフラはハワイの文化、日本人の付け焼き刃では太刀打ちできないと思えたのです。
でも、そこはだてに年は重ねていない強味で、"じゃ、どこまで私はその文化に近づくことができるか" と数カ月で居直ってしまいました。難しいければ、難しいほど勉強のしがいがあるというものです。自分がどこまでやれるかやってみよう、中途半端で寿命が来てもそれはそれでいいや、なんて思いました。

その第一歩がこれでした。息子のカウアイウエディングあたりまでは、そんなにハワイが好きなら、と大目に見ていた家族も、3週間近くクムフラ宅へ寄宿するという今回の旅には驚いたようです。フラを生業にしたいというような目的があるのであれば、説得も簡単だったかも知れませんが、とくにそういう望みもない私は何度となく、知りたいことが一杯ある、今しなければできない、と話し合いました。しかし、家族には理解しがたいものだったらしく、「フラを勉強して、それでどうするの?」とか、「本当に一人で大丈夫なのか?」とかうるさく言われました。しかし、「目的のために勉強するのではなく、勉強すること自体が目的なんです」なんていう訳のわからない私の宣言にあきれたのか、家族は私の留守中に飢え死にしないための方策と、清潔でいるための工夫を考え始めました。(しかしこれで夫は健康食に目覚めた、帰国後の私は強制的に食べさせられて困っています)

出発までの紆余曲折、ハワイでの生活などはおいおいご報告することとして、まずは ケイキフラです。しかし、ケイキフラについての楽しいお話はLeo Makamaeに佐伯さんが詳しく書くことでしょうから、私はある少年が大会に出場するまでの経過を書いてみたいと思います。 ハワイに着いてすぐに、私はKUMU の息子さんが今回のケイキフラにオピオとしてエントリーしていることを聞きました。縁戚のハラウからの強い勧めで急きょ出場することになったのだそうです。しかしそれが決まった後にも、父親であるKUMU はアラスカに行ったり日本に来たりと忙しく、大会2週間前というのに、振り付けも決まっていないというありさま。近所に住むアラカイが高校生の息子さんの学校がお休みのときに縁戚のハラウに連れて行って、練習をする程度でした。 「フラは好きなの?」という私の質問に、「フラは好き、でもいまはゴルフの方が好き」と答えた彼。なるほど練習中でも、息抜きに庭でクラブを振っていました。

正直行って、本当にこれで大丈夫なの? と言うのが私の気持ちでした。日本から帰ったKUMUはその後1週間は忙しく、ほとんど家に居らず晩ご飯が終わったあとに、OLIの練習を少し手伝うくらい。KUMU 自身もジャッジであるという立場もあって、出場するハラウにすべて任せたいという気持ちもあったようです。アラカイと2人でカヒコの練習をする姿を見てみぬ振り、でもつい口がでたり、踊りがでたりと父親の複雑な心境が見て取れました。
そんな一家が変わったのは大会のある週の初め頃からでした。KUMU の仕事も一段落したのか、本腰を入れての練習が始まったのです。アウアナ、パウア、カヒコ、オりとしなくてはいけないことは山ほどあります。学校から帰ってすぐに自主レッスン。夕食後にはハラウへ行ってレッスンして、帰宅後は家で復習。しまいには胃が痛いと行って学校を休んで寝込んでしまいました。明るくていつもにこにこしている子でしたが、やはり精神的にはずいぶん答えたのだと思います。

フラやオりの方はそうやって着々と練習が進められていました。その間、その他の準備もKUMU のハラウのアラカイたちによって進められて行きました。ティリーフのスカートを作ったり、レイを作ったり、そのどれにも出場者である息子さんもかかわります。シダの葉を切りそろえたり、ティの葉を選別したり、作り方を見て覚えているようでした。私も初めてティリーフを作るのを手伝い良い経験をしました。グランマも含めて、その場にいるものは、皆なにか関わりを持ちます。 肝心の息子さんは、たまに抜け出して庭にでてクラブを振ったりしますが、すぐに父親に見つかって声が飛びます。子供はどこでも一緒だなと思ったものでした。
いよいよマウイ行きの日です。子供たちが学校から帰ったら出発ということで、スカートもレイも冷蔵庫で待機中。準備は万端です。 午後3時すぎ、空港に向かいます。その車の中で、KUMU の一言。「テープレコーダーは持ったかい?」。翌日の大会に備えてホテルでも練習できるように、チャントや演奏の入ったテープレコーダーを荷物にいれるよう何度も言っているのを確かに聞きましたが、子供たちは忘れてしまったようです。なんだかみんな急に無口になって空港まで車を走らせました。

マウイでは、KUMU のホテルと私達のホテルは別々です。支配人が気を利かせて息子さん用のエキストラベッドを運び入れてくれましたが、KUMU はけじめだからと断っていました。しかし、練習はここで行うことに。イプヘケの代わりにアイスペールをたたいてカヒコの練習です。これが結構いい音がするのでした。テープレコーダーはなかったものの、私が持っていたビデオカメラでKUMU のチャントを録音して、KUMU がいないときでも練習できるようにしました。妹が練習や本番の際のビデオ記録係です。彼女も家にいるときは兄の練習には無関心のように見受けられましたが、マウイに入ってからは終始行動は一緒。カヘアをかけたり、ビデオを撮ったり、アウアナ用のレイを作ったりと裏方を務めていました。
いよいよ本番前のインタヴューと言うときに、さすがに緊張する兄や周囲のものの前で、「インタヴューの練習をしよう」と言い出したのも彼女です。そして「"いつから練習を始めましたか?" 、"月曜(今週の)"」などと、ジョークを言って皆を大笑いさせて雰囲気を和らげてくれました。もう1年も前から練習を積んだ本命がいることがわかっているのですから、緊張しなくてもいいんだよ、という兄へのエールだったのでしょう。その後は笑顔も出て、肩の力も抜けて、気が楽になりました。

いよいよ本番。彼の初日はカヒコからです。オりも何とかうまく言って、踊りに入りましたが、さっきのリラックスとは裏腹に大緊張が見て取れます。ベーシックな部分はさすがに危なげないのですが、振りのつながりがうまく行かない。一生懸命思い出しながら踊っています。私はジャッジ席を振り向いて、KUMU の顔を見る勇気はありませんでした。隣に座っているお弟子さんたちも、真剣に舞台を見ています。途中すっかり振りが抜けてしまうというミスがありましたが、なんとか無事終了。たった1曲のカヒコを見るのに、こんなに疲れたことはありません。それでも隣の人達と、笑顔で「やれやれ、よかったね」と言った風に顔を見合わせて、ホッと一息。

この日はカヒコ1曲だけなので、終了後はKUMU の部屋に戻って休憩しました。間違ったことは本人が一番よく知っていること。妹が撮ったビデオを見てしきりに反省しています。しかし、舞台の上で体験したおもしろい話をするときの彼は、いつものひょうきんで明るい高校生に戻っていました。パートナーの女の子がカヒコを踊る際に、チャンターのそばにいた彼は、打ち合わせもないまま、「座って! 」とか「イプヘケを持って」とか指示を受けたらしい。足は痛くなるわ、しびれてくるわで、舞台上でもじもじする彼を見ていた私達は、身振り手振り、顔振り(?)までして説明する彼に笑い転げてしまいました。お弟子さんたちは笑いながらも、もう明日のことを考えている様子で、衣裳のアロハシャツやズボンにアイロンをかけ、準備を始めています。あとでKUMUが戻ったとき、皆一瞬神妙な顔になりましたが、KUMU は踊りについてはなにも言わず、明日の朝の打ち合わせをして解散しました。

そしてその翌日、大会2日目の朝を迎えました。KUMU と昨晩から出場ハラウの滞在先に泊まりがけで練習に行っている息子さんを除く私達は、ラハイナでゆっくりとした朝食をとり、ホテルへ出向きました。KUMU の部屋でアウアナ用のアワプヒのレイをみんなで準備します。蕾一つ一つの薄皮をはぎ、花ビラを開いていきます。私を含めた4人で、一心不乱にお花を開いていきます。そのそばでKUMU が花の向きを揃えて刺して、レイを作って行きます。これはパルアの二人のために、これは今回主審ジャッジをつとめたアンクルのために、とていねいに、ていねいに作っていました。

レイができ上がる頃は、ちょうど大会の開始時間になっていて、皆大急ぎで会場に急ぎました。今日はまだ誰も主役の息子さんに会っていません。アウアナのソロのときに初めて見ました。昨日よりはちょっとリラックスした様子で、アミラウンドでは会場をわかせていました。そして、一番輝いていたのがパルアのときでした。練習にも一番力が入ったのでしょう。女の子も一緒で、不安が半減したのかも知れません。のびのびと楽しそうに踊っていました。パルアが終わったとき、見ていた私達の間にため息とも歓声ともつかない、ホッとした空気が流れました。結果はどうであれ、彼の試練の1週間は終わったのです。
成績はまあそこそこ。パルアでの1位はやはり嬉しかったと見え、賞品のイプヘケや像を持ち歩く姿は晴れ晴れとしていました。ジャッジ達からは「もっと練習が必要だね」というお言葉をいただいたそうで、それは今の彼には一番身に染みてわかっていることではないだろうか。きっと彼の今後、フラ以外でも生かされるだろうと思います。 私はと言うと、この1週間彼には大変申し訳ないのですが、おもしろかった!! の一言です。こんなはらはらドキドキを一緒に体験できて幸せでしたよ。


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