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ZOO、がんばったな。すごかったぜ。
(2000.07.06)

「愛をください」本日(7月5日)21時より放送です。
がんばれ、ZOO!!

(2000.07.05)

ECHOESの"ZOO"が、連続ドラマ「愛を下さい」の主題歌として、
12年の時を経て再び世に向けて送り出されることになりました。
僕の思うところを、ぱつぽつと書いてみたいと思います。
(2000.06.27)

愛をください 020 : 大切なのは歌い続けることだよ / あとがき@ (2000.10.11-12)

実感が無い。というのが今の実感である。

「愛をください」が完結して既に何日も経った。"そんなことが現実にあったのか?"という"未だに.."という感覚も含めて、なんだかまだまだ実感がわかない。6月初旬に「愛をください」のことを知り、個人的,仲間的にヒトシキリ盛り上がるのもオボツカナイうちに「愛をください」の放送がはじまり、そこからはダーっと流れてきたのだから無理もない。これほど仁成という存在が僕の日常に入り込んできたのは、かつて毎週月曜の深夜にラジオにかじりついていたとき以来なのだろう。

このホームページ立ち上げ時点の年頭からは到底予測出来ない展開ではありながら、3ヶ月間、ただダラダラと、時には入念に、自己満足の日記的にいろいろと書いてきた。その中で、ただひとつだけ心においていたのは"否定的なことは敢えて書くまい。"ということだった。「愛をください」の中には、僕にも両手をあげて喜べないような内容は確かにいくつかあった。しかし、他人の意見、それもネガティブなものに左右されるほど想像力を欠如させるものはない。物語が流れている間にそんなことは書いても意味がない、ということである。

完結した今となってはある程度は是も非も絡めて書こうと思うので、やや辛辣な内容になるかもしれないが、やはり僕にとって「愛をください」の出現は、何度振り返ってみても嬉しいことであるし、今後仁成を考える上での大きなランドマークになるに違いない。「愛をください」にまつわる一連の出来事がもし無かったとしたら......と考えると、人生で何度も出会えるもんじゃないような本当に刺激的な出来事だったな、と改めて実感する。こういうことは、もちろん無いより有ったほうがいい。そのことでは、やはり仁成に感謝である。

♪♪♪

最終回。個人的には全く喜べる内容ではなかった。受け入れられる展開ではなかった。期待通りの、予測される程度のことしか創造できない作り手であっては困るのだが、かといって大きく外れると落胆し、理解に苦しんでしまったりする。それは受け手の身勝手であるかもしれないが。

李理香だけでなく、中也までもが歌を捨てた。まるで幸せになろうとする土壌を築くかのように、歌うことをやめてしまった。

仁成によって作られる"歌"、そして「愛をください」の中で語られるような部類の"歌"とは、決して"楽しいだけの歌"ではない。こうした歌を"作ること"そして"歌うこと"は楽なことではない。自分を吐露するように、誰かに訴えかけるように、複雑な思いを抱えるほど、歌は映えるが自身の心は削られてしまうことが多い。つまり、歌い続けることは苦しいこと、とも言えてしまうのである。

「苦しむような歌なんかいっそ投げ捨てて、ヒトはのんびりと暮らしたほうが幸福だ。」

「愛をください」の最終回は、そうしたメッセージを僕に感じさせた。それは、僕がこれまで書いてきた"うた"に対する拘りにとどまらず、仁成が語ってきた歌に対する見解とも相反すると思えてならないのだ。

とはいえ大手新聞のテレビ感想欄には、「最終回に好感。同様10通。」という結果である。これを見ると、僕が拘り過ぎて客観視出来なくなっているのかもしれない、とも思う。仁成が、どこをどう考えた上でこうした結末を選んだのか、少しでも話す機会があれば真っ先に聞いてみたいと思う。今のままでは、いろいろと不満を抱えてしまいそうである。

かつて仁成のラジオ番組に寄せられたカードに、次のような主旨の文面があったのを覚えている。

「最近は良いことが多いからエコーズの歌をあまり聴いていません。だって、元気な時にエコーズの歌は聴かないでしょ?」

歌うことをやめてしまえば楽になれる。楽しみのためだけに歌われない歌にとっては確かにそうだと思う。だけど、必要としているヒトがいるかぎり、必要としている自分がいる限り、やはり仁成が自分自身で作っていた詩のとおり、僕はこの言葉だけを信念としていたい。

『大切なのは歌い続けることだよ』

そして、趣味のほんの一部に過ぎなくても、まるでお金や、まして生活の糧になんてならなくとも、さらには歌うことが時に苦痛になろうとも、ささやかであれど僕は歌い続けていきたい。

『 シルビア 』   ECHOES

シルビア 君の歌声がまだ響いてる 耳の奥
シルビア 君は今どこにいて どんなメロディ歌ってるのだろう
Don’t Stop Music 二人の仲は大人達にじゃまされ
Don’t Stop Music 離ればなれに引きさかれた
Don’t Stop Music 大切なのは歌い続けることだよ
Don’t Stop Music あの日のメロディ   一人になっても

Oh Woo 6月の風が吹き抜ける
Oh Woo 時は流れても Don’t Stop Music
Oh Woo 君をすきだった そのことを
忘れたくはない歌い続けよう

Don’t Stop Music いつでも僕ら歌うこと取り戻せる
Don’t Stop Music あの日のメロディ忘れないことさ

Oh Woo 海を越えて Love Song
Oh Woo 大陸を越えて伝わる
Oh Woo 再び出会って愛しあえる
       その日が来るまで歌い続けよう

シルビア 君の歌声がまだ響いてる 耳の奥
シルビア 君は今どこにいて どんなメロディ歌ってるのだろう

Don’t Stop Music 大切なのは歌い続けることだよ
Don’t Stop Music あの日のメロディ 一人になっても

Don’t Stop Music いつでも僕ら歌うこと取り戻せる
Don’t Stop Music あの日のメロディ 忘れないことさ

Don’t Stop Music 大切なのは歌い続けることだよ
Don’t Stop Music あの日のメロディ 一人になっても

Don’t Stop Music
Don’t Stop Music
Don’t Stop Music


  

愛をください 019 : 李理香の再生 (2000.09.21)

沈黙を破り、李理香は口を開いた。

− 離れ離れだった兄と、半分ずつ作った曲です。
− 私たちと同じように、
− 苦しみや、孤独や、不安を抱えて生きている方全てに、
− この曲を捧げたいと思います。 (李理香/第11節〜最終回)

李理香は幸福を探してきた。
李理香は社会への復讐を企んできた。
李理香は他人の幸福にしがみ付いてきた。
李理香は自分だけの幸福が欲しかった。
李理香は基次郎のためだけに歌おうと思っていた。

沈黙の中で、李理香は何を思っていたのだろう。
基次郎は「ヒトを許すことによって、おまえもまた許される。」と言った。
基次郎は「おまえの幸福が俺の幸福だ。」と言った。
李理香は自分が憎んでいた社会へ、信じることの出来なかった人々へ、自分を裏切った人々へ、今、歌うことが出来る。
全てを許し、許され、そうして自分が幸福へと一歩近づくことに、自分自身の、そして愛する基次郎の幸福を描いたのだと僕は思う。
自分は本当に幸福になるんだ、という初めてにして最大の決意だったのだ。
この瞬間で、李理香は自分をとりまく全てのヒトを許すことが出来たのだろう。
そして、基次郎を思いながらも、全てのヒトへ歌い掛けること。
それが基次郎の真の願いであり、基次郎にとっての幸福であると、李理香は沈黙の中で悟ったのだと思う。

李理香"再生"の瞬間が、確かにそこにあった。
その瞬間に、李理香は自分にのしかかっていた多くのものから開放され、李理香はまた、初めて自分から本当の幸福への第一歩を踏み出すことが出来たのだと思う。

ささやかでもいい。
李理香に、李理香のようなヒトに、少しでも多く幸福が訪れるようにと、僕は祈りたいと思う。


  

愛をください 018 : 見落とさないように、見失わないように (2000.09.11)

− おまえは、ずっと幸福を探してきた。
− でも幸福は、いつも遠くにあるものだった。
− 岬の突端に立つ孤独な一本の灯台だった。
− 灯台の明かりは遠くばかりを照らす。
− だから足元を照らすことは出来ないんだ。
− でも、幸福とは足元にあるもの。
− 気がつかないような、身近のところにあるものなんだよ。
− おまえの幸福は、おまえのすぐそば、足元にある。(基次郎/第10節)

早く走るには足元を見てはだめだと、子供のころ体育教師によく言われた。僕は大人になり、何も見落とすまいと、何も見失うまいと、いつでも心のアンテナを大きく広げて世の中を見ようとしている、つもりである。しかし、いろんなものに手を伸ばせば伸ばす程、欲しいものが何なのか、欲しいものが何だったのか、それすらわからなくなる。さらに、自分をとりまく物事の移り変わりが加速すればするほど、新しいものに取り付くので精一杯になり、身近なものが見え辛くなる。普段は車や自転車で通り抜けるだけの道を何かの機会に初めて歩く時に、それまで気付けなかった何かを見つけたりして非常に新鮮な気持ちになるになることがあるが、そんなふうに暮らしの歩を緩めて、足元を見つめ直してみたい気持ちになった。今の僕に必要なものは、足元に、ほんのすぐ傍にあるのかもしれない。基次郎が「ゆっくり、のんびりと暮らしてゆきたい。」と李理香への手紙にしたためていたように、出来る事なら僕も、せめて自分の足元を見渡せる程度のスピードを注意深く保ちながら、のんびり、のんびりと生きてゆきたい。愛すべきヒトを、愛してくれるヒトを、見落とすことのないように、見失うことのないように。

SOMEONE LIKE YOU 』   ECHOES

忘れてしまう前に想い出してほしい とてもうまくやってた頃を
どこへ行く時にも 何か企らむ時も 必ず君がいたね

出会いをくり返す中で ふりかえって見れば
あの頃は君と仲良し 胸がポツンと抜けて
二人はいつか 交差点をはさんで
すれちがってた
Tell me why,oh my friend

朝まで騒いだ街を あの時のままの君が 他の誰かと流してる
僕らは変るけれど あの時は変らない 出した手紙戻ってきても

灯台のように遠くを 照らしてばかりいたら
足元の君を見失ない 胸がポツンと抜けて
二人はいつか 交差点をはさんで
すれちがってた
Tell me why,oh my friend

君のことだけが 忘れられない
今も待ってる
Tell me why,oh my friend

Waitin' for a bland new friend everyday
Hello,goodbye to someone like you


  

愛をください 017 : 明日この道の上で (2000.09.06)


− 私、路上で歌っていたときのように、中也とふたりで出演したい。
− 私の歌の原点は路上です。
− 弾き語りがいい。(季理香/第9節)


差別も偏見も無く多くのヒトが行き交う路上。そんな路上で歌う気持ちは、きっと無償の愛に通ずるところがあるように思う。コピーでも構わない。媚びず、焦らず、思うことを歌う。たとえ誰も足を止めなくても、たとえ誰かが冷笑を浮かべても、たとえ誰の心にも響くことが無いかもしれなくとも。通り過ぎたたった一人のヒトの耳に、そして心に、届いているかもしれない。振り返ることも無かったけど、届いているかもしれない。そんなふうに思えるだけで、何故だか自分が優しい気持ちになれるような気がする。自分のために、そしてもしかしたら誰かのために。路上には、そうした儚げな、それでいて確実な、何か特別なものがあるのだろうと思う。

路上をイメージしながら、李理香は何を思い歌うのだろう。


  

愛をください 016 : ZOOの蔓延 / ZOO E  (2000.09.02)


オリジナルコンフィデンスの週間チャートで、ZOOが先週の5位から4位に上がった。2〜3万枚付近を漂っていた週間販売枚数は先週には5万枚を超え、さらに今週は7万枚を超えた。ベスト3に迫る勢いだ。発売後の累積売上枚数は25万枚を超えた。何枚売れたということは大いに気になりつつも個人的に大した問題で無いのではあるが、客観的かつ定量的にZOOを気にしてゆくために知っておいても損は無いと思うので取り上げた。ただし、一般的に数字は決して嘘をつかないが、売上枚数が右肩上がりでも周囲の発売状況・売り上げ状況によってはチャート上の順位が落ちるということも多分にあるので、順位よりむしろ売り上げ枚数の推移を見つめてゆくのが正しいところだと思う。

普段僕の使うJR品川駅のコンコースにはCDショップがあり、先日立ち寄るとZOOが流れていた。発売当初にほんの数枚しか無かったZOOは、ベスト10が並ぶコーナーに"どうだっ"といった感じに何となく誇らしげに平積みにされていた。流れていたZOOを何となく最後まで聞いて店を出ようとすると、またZOOのイントロが流れだした。そんな、ちょっと非現実的と感じることまでが現実になってきている。

また、大規模レンタル店のCDコーナーでは近年、大量稼動が予測されるCDを初期時点で40〜50枚も入荷し、可能な限り在庫を切らすまいと調整している。しかし、並べられたCDシングル上位曲の中でZOOだけが在庫切れになっていた。喜んでいいのかどうかは不明ということにしておく。

そして、驚いたことに川村かおりのZOOがマキシシングルとして既に再発されている。帯には"これが今話題のZOOのオリジナル盤"といった具合のコピーである。確かに当時、川村かおりの歌うZOOの方がECHOESのZOOより先に発売されていたような気もする。今となっては発売関連の記憶は曖昧だが、川村かおりの純粋的・退廃的の両面を兼ね持つZOOは、僕の耳に大きなインパクトを残している。テレビ系のローカルチャートで、(何故か?)現在ベスト10に入っている。

さらに、僕が個人的に非常に気に入っていた、菅野美穂さん/遠野李理香/蓮井朱華が歌うZOOも発売されることになった。ドラマでZOOを知ったヒトにはこちらの方がスンナリ聞けるのだろうが、いま現在の季理香のイメージからすると、どうしても痛々しい感触が伴ってしまうように思う。だけど一つの"うた"として、僕はちゃんと通して聞いてみたくて仕方がない。

僕の知人の一人が「エンディングの歌は"ほんわか"していていいですね。」という感想を漏らしていた。もちろん"ほんわか"がZOOの全てでは無いと思うが、常に緊迫感の漂う物語りのエンディングにおけるあのボーカルは稀有な程ハマっていると思う。あの場面では"ほんわか"といったイメージも確かに言い得ると思える。"ほんわか"なZOOと朱華のZOO。ZOOは世の中に、徐々に、そして確実に蔓延しつつある。まだまだ予測の域を超えていないが、これからのZOOもまだまだ楽しみだ。


  

愛をください 015 : 音楽で武装する (2000.08.30)


− 今は歌で自分の存在と戦うつもりです。(李理香/第8節)

一歩部屋を出れば、所詮この都会は闘技場だと僕は思っている。戦う手段を持たないものは自ずと消えかねないのがこの社会だからだ。歌を歌うこと、歌を作ること、それは社会という闘技場の中で自分を生かす、そして活かすための処世術であり、心の武装手段であると思う。

先週末、僕は数年来記憶に無いくらい自分の中の底辺に近いところまで落ち込んだ。次の日の土曜、僕は久しぶりに自分の音楽活動の中で歌わなければならなかった。前夜のアルコールにやられて十分に怯んだ僕の喉の鳴りは決して良くはなかったが、歌うことが、僕の廻りの時の流れや世の中の移ろいをしばし停止させた。それで僕の中の全ての要素が安易に立ち直るようなことは勿論無かったのだが、落ち込み続けたまま果ての果てまで、戻る手段の無いところまで逝ってしまうことだけは、歌うことによって辛うじて回避出来たような気がする。歌とは元来そういうものなのかもしれない。

「音楽で武装する。」ということを、仁成はかなり以前から口にしていた。それは必ずしも対外的な、守備的な、受動的なものはでなく、自分の心の中に宿り、自身を価値あるように存えさせるための、ヒトにとって非常に有意義な手段であるように僕は思う。


  

愛をください 014 : 理想的な愛の形 (2000.08.29)


− 無償の愛というものがこの世の中にはある。
− それがいちばん理想的な愛の形なんだけどね。
− 損得の発生しない愛。
− でもこれは究極の話であって、実現出来るものかどうかはわからない。
− 何故ならば、人間はいつも常に自分が一番可愛いからだ。(昴/第8節)

他人の注意を引きたい時には、自分の心情を言葉や行動で表現しなければならない。それは、大人も子供も同じである。だけど、本能的にそれは照れくさく、更には恥ずべきことのように思ってしまう。不器用であればあるほど、ヒトはそうした感情を直接的にしか表現出来ない。そして、なんとか表現したものに対しては、誰だって見返りが欲しくなる。自分が与えた愛に対してすら、気付かぬうちに見返りを求めてしまう。

無償の愛、つまり見返りを期待しない愛。そうした愛で世の中が溢れることは、確かに究極といえることなのかもしれない。ヒトはとかく、目立たないように、それでも気付かれるように、愛を与えてしまう。無償の愛とはどんなものだろう。恋愛であれば、例えば気付かれないであろう愛情表現。もっと広い意味での愛であれば、例えばボランティアのような金銭的見返りを求めない活動行為、といったところが原点であろうか。こうしたことを純粋さとも表現できると思うが、子供や動物を見ればわかるように、動物的であるほど無償の愛ということは成り立たちづらい。動物的本能がそれを阻害しているとしたら、無償の愛というのが人間本来のあるべき姿であるのかすら疑わしく思えてくるが、言い換えれば、人間だからこそ実現可能な最も人間らしい姿であるともいえる。

無償の愛は理性の産物であるように思える。理性を保つのに必須であるのと同様に、無償の愛には心と身体に大きな余裕が必要である。自分同様に他人を思いやる気持ちが必要である。世の中がせわしくなればなるほど、無償の愛は失われてゆくに違いない。


  

愛をください 013 : うたごころ / ZOO D  (2000.08.17)


こんなふうに思うのは僕だけかもしれない、ということを今回は特に先に断った上で書く。菅野美穂さん演じる季理香の歌うZOOを初めて聞いたときから、僕は歌声にある感銘のようなものを感じている。一般的な「歌が上手い」という指標をもってすれば、才能に恵まれているとは決していえないであろう彼女の歌。それなのに、ハッキリとした意志を感じ取ることの出来る彼女の歌は何なんだろう。無理に声を張り上げるわけでもなく、どちらかというと自然体といった歌い方。何度か聴くうちに、「こんなZOOもあるのか。(ありなのか。)」という新たな発見をしたような嬉しい気すら沸いてきた。

歌い手を選ばないZOOという歌の特異性もあると思う。ZOOは歌い手の技量よりも心境を反映しやすい歌なのだと思う。ZOOには下手な子細工は通用しない、必要なのはZOOに対する想いだけなのかもしれない。李理香の歌を聴くたびに僕はそんなふうに思う。

今度僕がZOOを歌う機会があったら、過剰に上手く歌おうとすることなく、声量を気にしたりもせずに、余計な気持ちを振り解いて、僕の中のZOOのイメージをだけを念じるように歌いたいと思う。

♪♪♪

愛をください/第7節、李理香はついに歌わなかった。ヒトは本当に追い詰められると、歌うことすら忘れてしまうのかもしれない。最低限のパワーがなければ、歌い続けてゆくことすら出来なくなるのかもしれない。僕は李理香の歌が好きだ。大切なのは歌い続けてゆくこと、と前回書いたが、李理香の歌声に心を動かされるヒトがいることに李理香自身が気付けば、李理香はきっと歌い続けてゆくことが出来るのだと思う。李理香は必ずや歌うことを取り戻すことが出来ると思う。僕は李理香の歌声を、李理香の復活を、今から心待ちにしている。


  

愛をください 012 : 歌うたいの憂鬱  (2000.08.12)


− ロックはさ、最低な人間だからやっていける世界だろう?
− 歌も心があるから苦しいんであって、
− だからさ、歌に説得力が出るわけだろう?
− おめえがただのいい奴だったら、こんなに心に響かないって。(中也/第6節)

優れた評論家が必ずしも優れた作品を産み出せるわけではないように、優れた作品を作り得るヒトが人間的に優れているとは限らない。素晴らしいメッセージを描いている歌でも、それを創作したヒト、歌っているヒトが、必ずしも万能であるわけではないのである。恋愛術や処世術を歌う"歌うたい"が稀に"教祖"と呼ばれたりすることがあるが、当事者自身が必ずしも歌詞に沿った暮らしをしているわけではなく、むしろ自分自身の思い描く理想像を詩に託すことが多いのではないだろうか。そうした場合、"教祖"のごとく崇められても、現実の自分との隔たりに当惑することになるのである。そんな感情はプロのアーティストに限らず身近なとこにもあるのだろう。僕も歌をうたう。自分で作った歌に限らず、例えばカラオケで歌う機会がある時などでも、強烈なメッセージや自分の存在や強い意志を誇示するような歌を歌うときは「俺がこんな歌うたって良いのかな?」などと感じることがある。心を込めようとすればする程、そんな感情は沸き上がってくる。プラス,マイナス、いづれにせよ、いろんな想いを抱えながら歌うほどに歌が輝いてくるように思えるのは、決して幻ではないと思う。心が荒めば歌も荒む。だからといって、それがヒトの心を打たないとも限らない。心を打つのは心なのだから。

「ロックは最低の人間だからやっていける」というのは極論に思えはするが、良かれ悪かれ、歌は間違いなく感情によって息吹を与えられるのだ。自分がどんな状態であれ、自分が歌に追いついてゆけない時でさえ、歌は辛辣に心を映し出す鏡なのだ。大切なのは、どんな時にも歌い続けてゆくことなのだろう。

『 ロックンロールは歩く鏡である 』   ECHOES

ロックンロールは退化する街を歩く鏡である
壁に書かれたラクガキが街を歩く鏡にする
僕はあなたが作った歌を聴いてみたい
他人の言葉で置き換えられた作詞家の歌じゃなく
街が産んだメロディとリズムが聴きたい

街中のメッキを剥がしてしまえ それが真実さ
やつらのマスクを剥がしてしまえ これが現実さ
改札口の伝言板に書かれた匿名のメッセージ
街の詩人が送り続けてくる宛名のないラブ・レター
読まれることのないファンレターはどこへ行く

明日は自分の風をおこそう 明日は自分の歌を唄おう
作られた時代はいらない Ah 街を救うために

どこまでやれるか試してみたい 20th Century Days
ここまで来たら後には引けない 20th Century Days
僕はあなたが作った歌を聴いてみたい
他人の言葉で置き換えられた作詞家の歌じゃなく
街が産んだメロディとリズムが聴きたい

明日は自分の風をおこそう 明日は自分の歌を唄おう
作られた時代はいらない Ah

明日は自分の風をおこそう 明日は自分の歌を唄おう
作られた時代はいらない Ah 街を救うために


  

愛をください 011 : 幸福の定義 (2000.08.04)


− どうしてあなたは幸福なんですか?
− どうしてわたしは不幸なの?(季理香/第5節)


幸福という不可思議な言葉。季理香が求めているものは幸福である。しかし李理香と関わる人物、そして李理香自身さえも、幸福というもの意味があまりに漠然としていることに翻弄される。幸福の意味が曖昧であることに気付く。李理香は自分の本当に求めているものがわからなくなる。

何ものにもとわられず、のんびりと生活すること。
やりたいことを存分にして生きること。
安定した家庭を持ち、心身共に豊かな暮らしを送ること。

李理香がもたれかかり結果的に標的としてしまった木場は、妻子を捨てることを決意する。ヒトは時に幸福にすら飽きてしまう。波風の立たない暮らしでは満足出来なくなる。刺激ある人生を求めてしまう。幸福が延々と続くと、それが不幸にすりかわったりもするのである。

幸福っていったいなに?

ドラマの中でも明確な答えは出ないかもしれない。幸福はそれぞれの心の中にのみ存在し、他人には理解し難いものだからだ。幸福に見える全てのヒトが必ずしも幸福ではない。幸福は心の充実や平穏さがもたらす産物に過ぎない。李理香がいろいろなヒトと関わり、いろいろな場面に出くわすことで、自らの独自の幸福の意味を見つけられることを祈っている。幸福に定義など無いのだから。


  

愛をください 010 : ガラスの天井 (2000.07.25)


− 小さかった私は、いつも手を伸ばしていた。
− でもそこには、目に見えないガラスの天井が必ずあった。
− すぐそこに欲しい物があるのに、私だけはガラスの天井に手がぶつかってしまう。
− 私だけにあるガラスの天井を壊したかった。(季理香/第3節)

季理香は今、ガラスの向こうに何を見ているのだろう。"幸福"という無形の存在だろうか。それとも、復讐すべき社会へ上手く迎合している自分の姿だろうか。基次郎が送った"青空"でさえ、季理香にはガラスの向こうに見えてしまう。世の中を大きく捕らえることや、大地の逞しさに目を向けることすら出来ない。李理香はもう十分大人なはずだ。虐待の過去や今の差別を乗り越えて生きて行かなければならない年齢であるはずなのだ。でも今の彼女には、そんな余力はきっと残っていない。

子供は誰でも大人になってゆく。好む好まざるに関わらず、誰もが大人になってゆく。季理香がガラスの向こうに見ているのは、もう決して掴むことの出来ない"幸福な過去の自分"なのかもしれない。

『 ガラスの天井 』   辻 仁成

幼い頃俺は夢見た 吹き抜けのある大きな屋敷
キャッチボールができる芝生の庭 笑顔の絶えない美しい妻
それが俺のライフプラン

そのうち俺にも彼女が出来 理想とはかなり違うタイプの
けれども俺は舞い上がっていた 何も彼もが素晴らしく見え始め

Ah 上を見上げれば届きそうな夢ばかり ガラスの天井があるとも知らず
見えないガラスの天井

彼女が欲しくて買った車 維持するために今日も働いた
金曜の夜は目的もなく 繁華街をローギアで流す
夜間飛行のテストパイロット

体は疲れて眠たいけれど 心は今夜も眠れそうにない
やましい心を誰もが抱え 今夜も魂を売ろうとする

Ah 上を見上げれば届きそうな夢ばかり ガラスの天井に顔を押しつけ
Ah 見上げているだけじゃ俺は救われない ガラスを叩き割り手をのばせ
見えないガラスの天井

Ah 上を見上げれば届きそうな夢ばかり ガラスの天井に顔を押しつけ
Ah 見上げているだけじゃ俺は救われない ガラスを叩き割り手をのばせ
消化試合のリリーフピッチャー

展示場に建てられたモデルハウス 太陽がその向こうに沈む
人々はその前を足早に 無関心装い通り過ぎていく
ショールームに並べられた新車 モデルチェンジを繰り返してく
買い換えたいけれども買えばすぐ 又新しいやつが並び始める

見えないガラスの天井 見えないガラスの天井 ガラスの天井
理論武装のパンチドランカー


 

愛をください 009 : 人を裏切るくらいなら (2000.07.22)


− 人間なんかを信じた自分が悪い。(季理香/第3節)

誰だって、誰かを信じたい。
誰だって、誰かに信じられたい。
それは、生まれ持った本能のようなものである。
ヒトを信じ、信じているヒトに信じられたとき、ヒトはとてつもない幸福を感じるものなのだ。
しかし、それは不遇な李理香にとって手の届かないところにある。

李理香のヒトへの不信は社会への復讐心に向けられる。
僕は彼女に教えてやりたい。
大切なのは裏切られないことよりも裏切らないことだよ、と。
ヒトを裏切ったヒトは、自責の念にとらわれるか、そうでなくても世の中の清算過程の中で、いつしか必ずしっぺ返しをくらうことになるんだよ、と。
ヒトの痛みを知るキミの心がいかに純粋で清らかであるかってことを。

いっそうヒトを信じられなくなった季理香は、いったい何処へゆくのだろう。

『 Dear Friend 』   ECHOES

かわったね 人がかわる あの嫌な瞬間を
僕はまた君で味わうのか
かわったね 約束なんて 先にやぶった方の勝ちさと
ポツンとささやく 君の後ろ姿

Dear Friend こぼれそうな器の酒
Dear Friend 音をたてて飲みほしたあの日

人を裏切る位なら 裏切られた方がましだと
飲めない酒におぼれて 本音を叫んだお前は

かわってしまったんだね かわってしまったんだね
とり戻す事も出来ない位
かわってしまったんだね かわってしまったんだね
欲望の街角で

かわったね いつの間にか まるで人が違うみたいだね
かわり過ぎて 見過ごす所だった
見慣れた街の交差点で かわりはてた君がつぶやいた
まだそんな事続けているのか?

Dear Friend それでも僕は君を待つだろう
Dear Friend 友達だもの ずっと待ってるさ

今度は君が裏切られて 誰かに泣きついていたら
飲めない酒に僕はきっと付き合うだろう

かわってしまったんだね かわってしまったんだね
とり戻す事も出来ない位
かわってしまったんだね かわってしまったんだね
欲望の街角で


   

愛をください 008 : うちあけ話を聴くように (2000.07.13)


僕はこれまでに、仁成という存在のおかげで知り合えた何人かの人と話す機会があり、いろいろなことを語り合ってきた。
個々の内容には触れないが、そこには何か理屈抜きに分かちあえるような不思議な一貫性が存在するのである。

第一節「本当の気持ち隠しているカメレオン」の"音"をMDに録音し、殆ど毎日のように聴いていた。一週間で五回ほど聴いているうちに、あれだけ"自分の中のZOO"を崩されることを恐れていたにもかかわらず何故これほどまでにすんなりと受け入れることが出来たのか、(あくまで僕個人の見解であるが)自分なりに整理することが出来た。

思い悩みながら歌という大きな存在を友とする季理香。
言葉の力を信じ思いを手紙に託す基次郎。
本気になるのが照れ臭くて歌以外ではチャラけた自分を振舞う中也。

葛藤を繰り返す登場人物に、僕自身や僕以外の人達、とりわけ僕の知る仁成の世界を愛する僕以外の人達の姿がだぶるのである。その気持ちは、僕自身の心を紐解く時や、なにより仁成を媒介として思いを共にする人々の"うちあけ話"を聴いている時のいつもより少し優しい自分になれるような気持ちに似ているのである。

少なくとも前述の登場人物(基次郎は作者という設定だが)は、既に僕や僕等と同じように”ZOO”という詩(うた)に傾倒し、持ちあわせているエネルギーに気付いていて、僕からしてみれば長話してみたくなるような絶妙に身近な存在なのである。

「愛をください」は、僕や、おそらく多くの仁成ファンにとって、”ZOO”という世界を共有する新たな知人の”うちあけ話”を聴いているようなもので、個々の抱える"それぞれのZOO"とは全く別のところに位置付けることが出来るのだと思う。

そこまで仁成が計算ずくだとは思わないが、考えれる状態の中では"最高"に近い形で仁成の兆戦「愛をください」を見つめることが出来るのは本当に幸せである。仁成への感謝の気持ちでいっぱいだ。


    

愛をください 007 : 愛をください (2000.07.06)


裏切られた。

初の連続ドラマの脚本、しかもフジテレビ系列のゴールデンタイムである。当日夕方には直前スペシャル番組が放映され、主演の菅野美穂さんはピンク色の派手な扮装で巨人戦の始球式に登場である。なにより番組宣伝のテレビスポットに仁成が登場して語るような異例さである。辻仁成か三谷幸喜かという感じである。今回の仁成は何かが違うかもしれない。仁成を信じて今日まで応援してきたが、今回こそは何かが違うような気がする。素直な気持ちで応援してゆけるのだろうか。違和感を感じずにドラマを楽しむことが出来るのだろうか。仁成は、いったいどれだけ時代に流されてしまったのだろうか。

僕は裏切られた。仁成は、仁成の作品は、社会の深淵を媚びずに図太く駆け抜ける、相変わらずのものだった。危惧は無意味だった。このドラマは、安易な迎合よりも我が道を選ぶ、オールド・ニューな仁成自身の存在証明であり存在表明である。

"歌"をモチーフにした物語り作りということは、きっとかなり前から構想としてあったに違いない。それを小説というジャンルではなく、意図的に最も多くの人が垣根なく触れることの出来るテレビドラマという形で満を侍して実現させたところに、ありのままの媚びない仁成で勝負したところに、仁成のただならぬ意気込みを感じた。

僕は仁成に対してあまり尊大な印象は無いのだが、今回に限っては仁成が"偉大"に思えた。

"ZOO"はドラマに組み込まれたのではなく、ドラマ自体が"ZOO"そのものだった。登場人物たちはカメレオンであり、アマガエルであり、ハイエナであった。そして、かつてからの仁成ファンが最も入り込みやすいような題材に満ちている。函館山,下北沢,そしてアコ・ギで歌うこと。"仁成ファン"が他の誰よりもこのドラマを愛せるように出来ている。想い過ごしかもしれないが、単なる結果論かもしれないが、「愛をください」は仁成からファンへの感謝の気持ちの表現であるようにすら思える。

僕らは、仁成は、これを期に良い形で新たな方向へ動き出したような、動き出 さなければならないような、そんな感触に包まれた。それは"ZOO"という僕の人生に大きな影響を与え続ける歌を 最初に聞いた時の、新鮮な清々しい気持ちに似ている。仁成は、また僕の人生に大きな 刺激を、そしてパワーを、与えてくれることになりそうだ。それは、思春期のように、反抗期のように、惑いがちな今の僕にとって最高のプレゼントなのだ。

仁成、ありがとう。


    

愛をください 006 : Dear Friend / ZOO C (2000.07.05)


仁成はかつて自分の作った歌のことを、「子供を産むような気持ちで作りました。」と表現したことがある。


仁成がソロになってからもさほど変化はないが、エコーズ時代にもテレビやラジオから仁成の歌声が流れてくることは極端に少なかった。今夜、ZOOというエコーズの曲がテレビドラマの主題歌として日本全国に流れる。少なく見積もっても数百万の人が一度に聴くことになる。もうすぐ誕生から20年、解散から10年を迎えようとしているエコーズが、最大の変化の時を迎えようとしている。考えれば考えるほど鳥肌の立つような思いだ。仁成にとっては子供の巣立ちを見守る親の気分かもしれないが、僕にとっては長いこと付きあってきた友人が表舞台へ旅立つのを見送るような心境だ。

「またいつだって会えるさ。上手い事やってこいよ。俺もおまえに負けないぐらい頑張るぜ。」


    

愛をください 005 : ECHOESの復活と完結 / ZOO B  (2000.07.04)


1991年5月26日、日比谷野外音楽堂でエコーズは10年間に亘る活動に終止符を打った。
音楽に接する上で僕が涙を流したのは、後にも先にもこの時一度きりである。

時おり気分屋になる仁成が2年程前に「エコーズの復活を考えている。」というようなことを口走って以来、多くの人の心にそのことが引っ掛かり続けていると思う。その後「今のところは無い。」と起動修正したようであるが、今回の主題歌の件で周囲の声は再燃するに違いない。ただし「もう一度エコーズを。」という多くの想いと同じくらい、「中途半端なエコーズは見たくない。」という気持ちを持っている人もたくさんいるに違いない。いや、どちらかいうのでなく両面という人が最も多いではないかと思う。

僕の場合も多分にもれず両面が存在するのだが、実は後者にウェイトが大きいと思う。エコーズ解散の時期は僕が社会に出る少し前だったので、エコーズをリアルタイムで聴いていた頃は少年〜青年期であった。人一倍物事に思い悩むようなことの多かった僕は多くの仁成ファンと同様に、仁成の歌に寄り添い、寄り掛かり、頼って生きていたようなところがあった。仁成の歌は日々の"パワー"であり、僕に足りない"あと1歩"を補完してくれるような、掛け替えの無い存在であった。


しかし自分でも意外なほど、エコーズ解散に直面した時の僕はクールであった。非常に突然のことであったための放心的な心理もあったのだとは思うが、悲しむよりむしろ「わりと自分で生きて行くということは教わった。」という感謝の念にも似た感覚に包まれた。解散を惜しみ続けるくらいならそのエネルギーを自分のために使おう、という解釈である。エコーズの解散という出来事は、僕の中に予想もしなかった心境の変化をもたらしたのだ。

あの日僕の中のエコーズは、ほぼ完全に封印された。

しかし、可能な限り完全な形で復活を遂げられるのであれば、僕とて応援したい、聴きたい、ということに疑いはない。しかし、もちろんあの4人で、パワフルなドラムと、クールなベースと、ハートウォーミングなギターと、エネルギッシュなボーカル、全てが揃って初めて誰もがエコーズと認めることが出来るのである。迎えることが出来るのである。そして、それは当然仁成もわかっていることなのである。内情的には復活にネガティブな要素が多いようだが、復活を望む声があれば、待っている人が大勢いるのであれば、意外に感情に流されやすい仁成は"復活"を考えざるを得なくなるのかもしれない。
今回の主題歌と9月に予定されているベストアルバムの発売が、現実的には最初で最後の復活の機会になるかもしれないが、そもそも仁成の中で"ドラマ主題歌としてのZOO"と"エコーズ復活"は別物であるように思える。

僕はどうせならば完全な形でエコーズを迎えたい。それが叶わないのであれば、曖昧な形でなく今こそエコーズを完結させても構わないと思う。


おそらくZOOによりエコーズはかつて無い程認知され、ZOOが収録されるであろうエコーズのリミックスベストアルバムとあわせ、エコーズのこれまでの作品全ての売り上げ枚数を遥かに上回るに違いない。今こそ、エコーズとしての(あくまで社会的観点として)最高到達点に到達するわけである。画家亡き後に認められる絵画のように、エコーズの不変の素晴らしさは作品として存分に輝き今日を迎える。"完結"とするにしても最高に相応しい時なのだと思う。

ここまで復活について否定的に、完結について肯定的に述べておきながら、「現在のエコーズを聴いてみたい、感じてみたい。」という感情も消し切れないのが、無責任ながら偽らざる僕の曖昧な心境なのである。ただし、もし聴くことが出来たとしても、かつての僕と違いエコーズの曲に頼ることなく肩を並べて聴く事が出来ると思う。

僕はエコーズを愛している。その気持ちは時が過ぎても薄れることはない。

 

    

愛をください 004 : ZOO A  (2000.07.04)


ZOOという歌は、もうずいぶん前の話であるが僕が生まれて初めてアコースティックギターに触れるきっかけになった曲であり、初めてコードストロークでの弾き語りをした曲である。"やってみたくさせた曲"というわけである。

それから、とてもとても永い時が流れたような気がする。

2000年という区切りの何かせき立てられるような気分も手伝って、僕は無性にまた音楽というものに向かい合いたくなった。今年に入って僕は仲間に声を掛け、バンド形式でまず辻作品のコピーをやることにした。百数十曲ある辻作品のうち、最初のミーティングで選んだのが Jack と ZOO だった。5月に仮合わせをし、思いのほか良い感触であったので、6月に入ってさらに2曲を加え本格的にスタジオで練習を...という矢先に今回の"ZOOドラマ主題歌"というニュースが舞い込んだのだ。

「何もこんなタイミングで...」というこの奇遇さを驚く照れくさいような妙な気持半分と、「もっと早くやっておけばよかった。やっておきたかった。」というお約束の後悔の念が、同時に僕を包み込んだ。


しかし、考えてみれば誰のためでもなくただ"やりたいからやる"だけであるので、"周囲の状況はどうでもいい"と切り替えて自分の活動に臨むことにした。さすがにスタジオでZOOを演奏した時には「ZOOが"自分達だけのZOO"であるのは今だけなのかもしれない。」という良くない身勝手な考えが少なからず頭をよぎったが、そんな考えも諭されてしまうようなエネルギーがZOOにはあった。演奏しているうちに細かいことは自然にどうでもよくなっていった。そんなことは忘れていた。

僕は生涯ZOOを聴き続け、生涯ZOOを歌い続けていくことだろう。

    

愛をください 003 : 歌と物語の融合 (2000.07.01)


どうやらZOOは単なるイメージソングの主題歌としてのみならず、物語の中で直接的に使われるようだ。
菅野美穂さん扮する主人公を支える歌として劇中彼女が弾き語りするばかりでなく、歌詞も物語のキーワード的存在として随所に取り入れられるらしい。

これまでにも主題歌がドラマの中で使われるようなことはあった。例えば主人公がバンド活動をし、演奏シーンで主題歌を歌うであるとか、学生レガッタ部の宴席でみんなが肩を組んでうたう歌が脈略なく主題歌であったり、酷いものになると主題歌を歌うアーティストやバンドがそのまま劇中に出演し演奏し、大した必要性もなく主人公と絡んだりするのである。文に滲み出てしまったように、ドラマの中に登場する主題歌に正直僕はあまり良い印象がない。

しかし今回は違う。一人の小説家が自分自身がかつて魂を込めて作り世に送り出した歌を、ノリとしての音楽だけではなく物語に融合させるのである。第三者の歌を間接的に使用するのではなく、直接的に自分の歌を使うのである。

エコーズの代表曲とされる歌のひとつに"Jack"という歌がある。"Welcome to the lost child club" という導入部を持ったこの歌は、明確なストーリー性を持った歌である。"Jack"にはさらに、歌詞を生み出す元となった詩的な文体のショートストーリーがあった。小説家と呼ばれる以前に、仁成が自身のラジオ番組で朗読した。彼がまだ20代の頃のことである。そこにはすでに今日の仁成の像が確かにあった。僕は彼が本格的に小説をやりはじめてからは、物語を背景に持った歌を作って欲しいとずっと思っていた。

ZOOを当初から聴いている僕のような人間には、ZOOにはそれぞれの掛け替えのない色と風景がある。物語によって、しかも仁成によって作られるイメージは強烈なものになるはずで、それが"それぞれのZOO"に大きく影響することは避けられない。

今回の主題歌の話は、辻が聴かせたZOOをプロデューサーがひどく気に入り主題歌としての採用を決めたらしい。しかしそれは、あがった原稿にプロデューサーが目を通した後とのことである。脚本にはZOOが随所に散りばめられているようなので、仕掛けた仁成の勝ちということであろう。仁成はおそらく十数年前にはすでに"歌と物語の融合"の素晴らしさに気付いていて、それを体言してみせる立場と実力が自分に備わる機会を狙っていたに違いない。納得のいくものを生み出せる時をだ。

ZOOの発表から10年以上が経過しているが、今回の仁成の兆戦は突発的な思い付きではなく、ZOOという歌の不変の魅力を再び世に送り出すべく周到に準備された、仁成の永い永い企みの結晶であるように思う。
だからこそ、"それぞれのZOO"はこれまでのものと変わってしまうかもしれないが、このあまり前例が無いであろう"歌"と"物語"の、つまり"音楽"と"文学"の直接的な融合という実験的かつ冒険的な行動を応援したいと思う。視聴率等々の結果はどうあれ、必ずや素晴らしいものにしてくれることを僕は信じている。

少々過言といわれるかもしれないが、なによりZOOという素晴らしい歌の存在を歴史に埋もれさせないことは世の中にとって大切なことであると心から思う。僕も永いあいだ、ずっとこの時を待ち続けてきたような気がする。


Welcome to the lost child club 〜 Jack 』 ECHOES

ある日君はつまらないことで 街中の鼻つまみさ
教会の裏へ呼び出されて 泣いていたのを覚えている
力になりたい勇気がないだけさ 力になりたい勇気さえあれば

関る事がカッコ悪いと 誰かが影でつぶやいている
背中を走る熱いエナジー 負けん気が僕の体を押したよ
力になりたい勇気がないだけさ 力になりたい勇気さえあれば

Hello,Are you friend?
Hello,Are you friend?
Hello,Are you friend?
 Welcome to the Lost Child Club

Hello,Are you friend?
Hello,Are you friend?
Hello,Are you friend?
Welcome to the Lost Child Club

小さなJACKは背のびをして 街をさまよい歩き
仲間とはしゃいで夜をかきわけ 金切り声をあげる
上から下までひっかきまわし 待ち合わせのない愛を探して
それでも何か足りないと この道の上で朝を待ち続けている

マルガリータは息子のことを 震えて見守ってる
大声でわめきたてるJACKに 泣き声で答えて

小銭をとりに帰る夜には 待ち合わせのない愛をさしだし
そんな子じゃないと信じて この道の上で朝を待ち続けている

小銭を切らしてる君も タバコを切らしてる僕も
身近な愛を失している 僕らはこの街の失業者さ
待ち合わせのない愛を探し求めて 明日この道の上で

十歩先をよむのが得意な批評家のように
僕達は少し急ぎすぎて 忘れてしまっている
ダウンした時には必ず 君の話を聞いてくれた Angel
まだどこかにきっといて この道の上で君を待ち続けている

小銭を切らしてる君も タバコを切らしてる僕も
身近な愛を失している 僕らはこの街の失業者さ
待ち合わせのない愛を探し求めて 明日この道の上で

愛を切らしてる君に 愛を切らしてる君に
愛を切らしてる君に 愛を切らしてる君に

On the road On the road 明日この道の上で
On the road On the road 明日この道の上で

愛を切らしてる君に 愛を切らしてる君に
愛を切らしてる君に 愛を切らしてる君に

On the road On the road 明日この道の上で
On the road On the road 明日この道の上で
On the road On the road 明日この道の上で
On the road On the road 明日この道の上で



   

愛をください 002 : ZOO @ (2000.06.29)


僕はZOOという歌が好きだ。しかし僕はZOOという歌の良さを上手く説明出来ないと思う。それは、ZOOという歌は聴く人によって感じ取るイメージや受け取るメッセージが異なる気がするからだと思う。誰もが何か発見出来るような、特殊な大衆性を持った歌であるように思う。

歌われているのは広く世の中についてであって、日々無意識に色彩を変えてゆく自分に対して、さらにそんな不器用な自分を取り巻く様々な人々に対してZOOは歌われ、自分の生き方や人との関わり方を省みると共に、誰もが自分と同じように痛みや悩みを抱えていて、自分にそうするように他人にも優しく接しなければいけないよ、と言われているような気がする。求める愛と与える愛について、という言い方も出来ると思う。もちろん恋愛という意味の愛よりは、もっともっと広義な愛である。これはあくまで僕のイメージとしてなのだが。

僕の中のZOOはシャープでもなくのんびりでもなくその中間を行く、気分を中和させてくれるような歌なのである。
もし聴いたことがなければ是非聴いてみて欲しい。それぞれ解釈でZOOという歌を感じて、出来ることなら聴き継ぎ、歌い継いでいって欲しいと思う。ZOOは、そうするに値する歌であると僕は確信している。


『 ZOO 』 ECHOES

僕達はこの街じゃ 夜更かしの好きなフクロウ
本当の気持ち隠している そうカメレオン
朝寝坊のニワトリ 徹夜明けの赤目のウサギ
誰とでもうまくやれる コウモリばかりさ

見てごらん よく似ているだろう 誰かさんと
ほらごらん 吠えてばかりいる 素直な君を

Stop,Stop,Stop stayin'

白鳥になりたいペンギン なりたくはないナマケモノ
失恋しても 片足で踏ん張るフラミンゴ
遠慮しすぎのメガネザル ヘビににらまれたアマガエル
ライオンやヒョウに 頭下げてばかりいるハイエナ

見てごらん よく似ているだろう 誰かさんと
ほらごらん 吠えてばかりいる 素直な君を

ほらね そっくりなサルが僕を指さしてる
きっと どこか隅の方で僕も生きてるんだ

愛を下さい 愛を下さい ZOO
愛を下さい 愛を下さい ZOO,ZOO

おしゃべりな九官鳥 挨拶しても返事はない
気が向いた時に 寂しいなんてつぶやいたりもする
"しゃべりすぎた翌朝 落ち込むことの方が多い"
あいつの気持ち わかりすぎるくらいよくわかる

見てごらん よく似ているだろう 誰かさんと
ほらごらん 吠えてばかりいる 素直な君を

ほらね そっくりなサルが僕を指さしてる
きっと どこか似ているんだ僕と君のように

愛を下さい 愛を下さい ZOO
愛を下さい 愛を下さい ZOO,ZOO

Stop,Stop,Stop stayin'
Stop,Stop,Stop stayin'
Stop,Stop,Stop stayin'

Walkin'on the wild side in the ZOO
Walkin'on the right side in the ZOO


    

愛をください 001 : 主題歌ということ  (2000.06.27)


ラジオだったか本だったか、仁成が"主題歌"ということについて語ったことを覚えている。「主題歌の話が来たことがあるんですが、それがアニメの主題歌ということで断りました。」 エコーズ時代のことである。

例えばTMネットワークがそうであったように、80年代はアニメソングの主題歌でブレイクするバンドも多かった。主題歌とは不思議なもので、よほどの目測誤りがない限りハマってしまうものなのである。例えば「エコーズの曲などアニメに合わない。」と誰もが思うところではあるが、それは本来の良さを知っているからであって、中・高校生のアニメファンからすれば(アニメファンの方には少々失礼な表現になるが)聴き心地さえ良ければハマってしまうのだ。アニメの視聴者は購買層としては少数かつ低年齢ではあるが、そこから小さな火が付き巷である程度の頻度で流れるようになると、アニメを見ていない上年齢の購買層に"聴き慣れ"という現象で伝達される。この流れが思惑通り進んだ時に、ロックバンドでさえアニメでブレイクするという結果を生むわけである。

アニメ主題歌を断った話はエコーズとしてはあまりに当然であったのだが、当時のエコーズの位置付けからして話に乗ったとしてもファンとして文句の言えないくらい"おいしい話"だったと思う。もっとも、アニメでなくても当時の仁成であれば主題歌を断ったような気もするが。

90年代に入ると、ドラマの主題歌やCMソングという俗にいう"タイアップ"は、ますますブレイクの必須条件となってくる。そして、タイアップに失敗、もしくはタイアップそのものをしないアーティスト、つまりブレイクを経験していないアーティストは、どんなに良い曲を演奏しても活動自体おぼつかないという状況におかれるのである。現在"売れている"とされるアーティストの多く(ほとんど全てと言っても過言ではない)が"タイアップ"という形でブレイクし今に至っている。現状はそんなところである。

ちょっとしたNHKの番組や映画"天使のわけまえ"で使用されたことはあるが、それは"知る人ぞ知る"といったものであった。今回は取り巻く状況がかなり違うのである。しかし、エコーズ時代の曲を使うわけで、もちろん本人のブレイクを狙った商業主義ではない。仁成らしい。ファンとして喜ぶべきことなのかどうかは今はまだ複雑な気分が先走って微妙なところなのだが、どのような結果になるにせよ、仁成を信じて、そして仁成の才能を信じている自分にも誇りを持って、出来る限り応援してゆきたい気持である。

 

 


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