ZOO、がんばったな。すごかったぜ。
(2000.07.06)
「愛をください」本日(7月5日)21時より放送です。
がんばれ、ZOO!!
(2000.07.05)
ECHOESの"ZOO"が、連続ドラマ「愛を下さい」の主題歌として、
12年の時を経て再び世に向けて送り出されることになりました。
僕の思うところを、ぱつぽつと書いてみたいと思います。
(2000.06.27)
愛をください 020 : 大切なのは歌い続けることだよ / あとがき@ (2000.10.11-12) |
実感が無い。というのが今の実感である。 ♪ 「愛をください」が完結して既に何日も経った。"そんなことが現実にあったのか?"という"未だに.."という感覚も含めて、なんだかまだまだ実感がわかない。6月初旬に「愛をください」のことを知り、個人的,仲間的にヒトシキリ盛り上がるのもオボツカナイうちに「愛をください」の放送がはじまり、そこからはダーっと流れてきたのだから無理もない。これほど仁成という存在が僕の日常に入り込んできたのは、かつて毎週月曜の深夜にラジオにかじりついていたとき以来なのだろう。 ♪ このホームページ立ち上げ時点の年頭からは到底予測出来ない展開ではありながら、3ヶ月間、ただダラダラと、時には入念に、自己満足の日記的にいろいろと書いてきた。その中で、ただひとつだけ心においていたのは"否定的なことは敢えて書くまい。"ということだった。「愛をください」の中には、僕にも両手をあげて喜べないような内容は確かにいくつかあった。しかし、他人の意見、それもネガティブなものに左右されるほど想像力を欠如させるものはない。物語が流れている間にそんなことは書いても意味がない、ということである。 ♪ 完結した今となってはある程度は是も非も絡めて書こうと思うので、やや辛辣な内容になるかもしれないが、やはり僕にとって「愛をください」の出現は、何度振り返ってみても嬉しいことであるし、今後仁成を考える上での大きなランドマークになるに違いない。「愛をください」にまつわる一連の出来事がもし無かったとしたら......と考えると、人生で何度も出会えるもんじゃないような本当に刺激的な出来事だったな、と改めて実感する。こういうことは、もちろん無いより有ったほうがいい。そのことでは、やはり仁成に感謝である。 ♪♪♪ 最終回。個人的には全く喜べる内容ではなかった。受け入れられる展開ではなかった。期待通りの、予測される程度のことしか創造できない作り手であっては困るのだが、かといって大きく外れると落胆し、理解に苦しんでしまったりする。それは受け手の身勝手であるかもしれないが。 ♪ 李理香だけでなく、中也までもが歌を捨てた。まるで幸せになろうとする土壌を築くかのように、歌うことをやめてしまった。 ♪ 仁成によって作られる"歌"、そして「愛をください」の中で語られるような部類の"歌"とは、決して"楽しいだけの歌"ではない。こうした歌を"作ること"そして"歌うこと"は楽なことではない。自分を吐露するように、誰かに訴えかけるように、複雑な思いを抱えるほど、歌は映えるが自身の心は削られてしまうことが多い。つまり、歌い続けることは苦しいこと、とも言えてしまうのである。 ♪ とはいえ大手新聞のテレビ感想欄には、「最終回に好感。同様10通。」という結果である。これを見ると、僕が拘り過ぎて客観視出来なくなっているのかもしれない、とも思う。仁成が、どこをどう考えた上でこうした結末を選んだのか、少しでも話す機会があれば真っ先に聞いてみたいと思う。今のままでは、いろいろと不満を抱えてしまいそうである。 ♪ かつて仁成のラジオ番組に寄せられたカードに、次のような主旨の文面があったのを覚えている。 『大切なのは歌い続けることだよ』 そして、趣味のほんの一部に過ぎなくても、まるでお金や、まして生活の糧になんてならなくとも、さらには歌うことが時に苦痛になろうとも、ささやかであれど僕は歌い続けていきたい。 ♪ 『 シルビア 』 ECHOES シルビア 君の歌声がまだ響いてる 耳の奥 |
愛をください 019 : 李理香の再生 (2000.09.21) |
沈黙を破り、李理香は口を開いた。 ♪ − 離れ離れだった兄と、半分ずつ作った曲です。 ♪ 李理香は幸福を探してきた。 ♪ 沈黙の中で、李理香は何を思っていたのだろう。 ♪ 李理香"再生"の瞬間が、確かにそこにあった。 ♪ ささやかでもいい。 |
愛をください 018 : 見落とさないように、見失わないように (2000.09.11) |
−
おまえは、ずっと幸福を探してきた。 ♪ 早く走るには足元を見てはだめだと、子供のころ体育教師によく言われた。僕は大人になり、何も見落とすまいと、何も見失うまいと、いつでも心のアンテナを大きく広げて世の中を見ようとしている、つもりである。しかし、いろんなものに手を伸ばせば伸ばす程、欲しいものが何なのか、欲しいものが何だったのか、それすらわからなくなる。さらに、自分をとりまく物事の移り変わりが加速すればするほど、新しいものに取り付くので精一杯になり、身近なものが見え辛くなる。普段は車や自転車で通り抜けるだけの道を何かの機会に初めて歩く時に、それまで気付けなかった何かを見つけたりして非常に新鮮な気持ちになるになることがあるが、そんなふうに暮らしの歩を緩めて、足元を見つめ直してみたい気持ちになった。今の僕に必要なものは、足元に、ほんのすぐ傍にあるのかもしれない。基次郎が「ゆっくり、のんびりと暮らしてゆきたい。」と李理香への手紙にしたためていたように、出来る事なら僕も、せめて自分の足元を見渡せる程度のスピードを注意深く保ちながら、のんびり、のんびりと生きてゆきたい。愛すべきヒトを、愛してくれるヒトを、見落とすことのないように、見失うことのないように。 ♪ 『 SOMEONE LIKE YOU
』 ECHOES |
愛をください 017 : 明日この道の上で (2000.09.06) |
♪ 差別も偏見も無く多くのヒトが行き交う路上。そんな路上で歌う気持ちは、きっと無償の愛に通ずるところがあるように思う。コピーでも構わない。媚びず、焦らず、思うことを歌う。たとえ誰も足を止めなくても、たとえ誰かが冷笑を浮かべても、たとえ誰の心にも響くことが無いかもしれなくとも。通り過ぎたたった一人のヒトの耳に、そして心に、届いているかもしれない。振り返ることも無かったけど、届いているかもしれない。そんなふうに思えるだけで、何故だか自分が優しい気持ちになれるような気がする。自分のために、そしてもしかしたら誰かのために。路上には、そうした儚げな、それでいて確実な、何か特別なものがあるのだろうと思う。 ♪ 路上をイメージしながら、李理香は何を思い歌うのだろう。 |
愛をください 016 : ZOOの蔓延 / ZOO E (2000.09.02) |
♪ 普段僕の使うJR品川駅のコンコースにはCDショップがあり、先日立ち寄るとZOOが流れていた。発売当初にほんの数枚しか無かったZOOは、ベスト10が並ぶコーナーに"どうだっ"といった感じに何となく誇らしげに平積みにされていた。流れていたZOOを何となく最後まで聞いて店を出ようとすると、またZOOのイントロが流れだした。そんな、ちょっと非現実的と感じることまでが現実になってきている。 ♪ また、大規模レンタル店のCDコーナーでは近年、大量稼動が予測されるCDを初期時点で40〜50枚も入荷し、可能な限り在庫を切らすまいと調整している。しかし、並べられたCDシングル上位曲の中でZOOだけが在庫切れになっていた。喜んでいいのかどうかは不明ということにしておく。 ♪ そして、驚いたことに川村かおりのZOOがマキシシングルとして既に再発されている。帯には"これが今話題のZOOのオリジナル盤"といった具合のコピーである。確かに当時、川村かおりの歌うZOOの方がECHOESのZOOより先に発売されていたような気もする。今となっては発売関連の記憶は曖昧だが、川村かおりの純粋的・退廃的の両面を兼ね持つZOOは、僕の耳に大きなインパクトを残している。テレビ系のローカルチャートで、(何故か?)現在ベスト10に入っている。 ♪ さらに、僕が個人的に非常に気に入っていた、菅野美穂さん/遠野李理香/蓮井朱華が歌うZOOも発売されることになった。ドラマでZOOを知ったヒトにはこちらの方がスンナリ聞けるのだろうが、いま現在の季理香のイメージからすると、どうしても痛々しい感触が伴ってしまうように思う。だけど一つの"うた"として、僕はちゃんと通して聞いてみたくて仕方がない。 ♪ 僕の知人の一人が「エンディングの歌は"ほんわか"していていいですね。」という感想を漏らしていた。もちろん"ほんわか"がZOOの全てでは無いと思うが、常に緊迫感の漂う物語りのエンディングにおけるあのボーカルは稀有な程ハマっていると思う。あの場面では"ほんわか"といったイメージも確かに言い得ると思える。"ほんわか"なZOOと朱華のZOO。ZOOは世の中に、徐々に、そして確実に蔓延しつつある。まだまだ予測の域を超えていないが、これからのZOOもまだまだ楽しみだ。 |
愛をください 015 : 音楽で武装する (2000.08.30) |
♪ 一歩部屋を出れば、所詮この都会は闘技場だと僕は思っている。戦う手段を持たないものは自ずと消えかねないのがこの社会だからだ。歌を歌うこと、歌を作ること、それは社会という闘技場の中で自分を生かす、そして活かすための処世術であり、心の武装手段であると思う。 ♪ 先週末、僕は数年来記憶に無いくらい自分の中の底辺に近いところまで落ち込んだ。次の日の土曜、僕は久しぶりに自分の音楽活動の中で歌わなければならなかった。前夜のアルコールにやられて十分に怯んだ僕の喉の鳴りは決して良くはなかったが、歌うことが、僕の廻りの時の流れや世の中の移ろいをしばし停止させた。それで僕の中の全ての要素が安易に立ち直るようなことは勿論無かったのだが、落ち込み続けたまま果ての果てまで、戻る手段の無いところまで逝ってしまうことだけは、歌うことによって辛うじて回避出来たような気がする。歌とは元来そういうものなのかもしれない。 ♪ 「音楽で武装する。」ということを、仁成はかなり以前から口にしていた。それは必ずしも対外的な、守備的な、受動的なものはでなく、自分の心の中に宿り、自身を価値あるように存えさせるための、ヒトにとって非常に有意義な手段であるように僕は思う。 |
愛をください 014 : 理想的な愛の形 (2000.08.29) |
♪ 他人の注意を引きたい時には、自分の心情を言葉や行動で表現しなければならない。それは、大人も子供も同じである。だけど、本能的にそれは照れくさく、更には恥ずべきことのように思ってしまう。不器用であればあるほど、ヒトはそうした感情を直接的にしか表現出来ない。そして、なんとか表現したものに対しては、誰だって見返りが欲しくなる。自分が与えた愛に対してすら、気付かぬうちに見返りを求めてしまう。 ♪ 無償の愛、つまり見返りを期待しない愛。そうした愛で世の中が溢れることは、確かに究極といえることなのかもしれない。ヒトはとかく、目立たないように、それでも気付かれるように、愛を与えてしまう。無償の愛とはどんなものだろう。恋愛であれば、例えば気付かれないであろう愛情表現。もっと広い意味での愛であれば、例えばボランティアのような金銭的見返りを求めない活動行為、といったところが原点であろうか。こうしたことを純粋さとも表現できると思うが、子供や動物を見ればわかるように、動物的であるほど無償の愛ということは成り立たちづらい。動物的本能がそれを阻害しているとしたら、無償の愛というのが人間本来のあるべき姿であるのかすら疑わしく思えてくるが、言い換えれば、人間だからこそ実現可能な最も人間らしい姿であるともいえる。 ♪ 無償の愛は理性の産物であるように思える。理性を保つのに必須であるのと同様に、無償の愛には心と身体に大きな余裕が必要である。自分同様に他人を思いやる気持ちが必要である。世の中がせわしくなればなるほど、無償の愛は失われてゆくに違いない。 |
愛をください 013 : うたごころ / ZOO D (2000.08.17) |
♪ 歌い手を選ばないZOOという歌の特異性もあると思う。ZOOは歌い手の技量よりも心境を反映しやすい歌なのだと思う。ZOOには下手な子細工は通用しない、必要なのはZOOに対する想いだけなのかもしれない。李理香の歌を聴くたびに僕はそんなふうに思う。 ♪ 今度僕がZOOを歌う機会があったら、過剰に上手く歌おうとすることなく、声量を気にしたりもせずに、余計な気持ちを振り解いて、僕の中のZOOのイメージをだけを念じるように歌いたいと思う。 ♪♪♪ 愛をください/第7節、李理香はついに歌わなかった。ヒトは本当に追い詰められると、歌うことすら忘れてしまうのかもしれない。最低限のパワーがなければ、歌い続けてゆくことすら出来なくなるのかもしれない。僕は李理香の歌が好きだ。大切なのは歌い続けてゆくこと、と前回書いたが、李理香の歌声に心を動かされるヒトがいることに李理香自身が気付けば、李理香はきっと歌い続けてゆくことが出来るのだと思う。李理香は必ずや歌うことを取り戻すことが出来ると思う。僕は李理香の歌声を、李理香の復活を、今から心待ちにしている。 |
愛をください 012 : 歌うたいの憂鬱 (2000.08.12) |
♪ 優れた評論家が必ずしも優れた作品を産み出せるわけではないように、優れた作品を作り得るヒトが人間的に優れているとは限らない。素晴らしいメッセージを描いている歌でも、それを創作したヒト、歌っているヒトが、必ずしも万能であるわけではないのである。恋愛術や処世術を歌う"歌うたい"が稀に"教祖"と呼ばれたりすることがあるが、当事者自身が必ずしも歌詞に沿った暮らしをしているわけではなく、むしろ自分自身の思い描く理想像を詩に託すことが多いのではないだろうか。そうした場合、"教祖"のごとく崇められても、現実の自分との隔たりに当惑することになるのである。そんな感情はプロのアーティストに限らず身近なとこにもあるのだろう。僕も歌をうたう。自分で作った歌に限らず、例えばカラオケで歌う機会がある時などでも、強烈なメッセージや自分の存在や強い意志を誇示するような歌を歌うときは「俺がこんな歌うたって良いのかな?」などと感じることがある。心を込めようとすればする程、そんな感情は沸き上がってくる。プラス,マイナス、いづれにせよ、いろんな想いを抱えながら歌うほどに歌が輝いてくるように思えるのは、決して幻ではないと思う。心が荒めば歌も荒む。だからといって、それがヒトの心を打たないとも限らない。心を打つのは心なのだから。 ♪ 「ロックは最低の人間だからやっていける」というのは極論に思えはするが、良かれ悪かれ、歌は間違いなく感情によって息吹を与えられるのだ。自分がどんな状態であれ、自分が歌に追いついてゆけない時でさえ、歌は辛辣に心を映し出す鏡なのだ。大切なのは、どんな時にも歌い続けてゆくことなのだろう。 ♪ 『 ロックンロールは歩く鏡である 』 ECHOES ロックンロールは退化する街を歩く鏡である |
愛をください 011 : 幸福の定義 (2000.08.04) |
♪ 何ものにもとわられず、のんびりと生活すること。 ♪ 李理香がもたれかかり結果的に標的としてしまった木場は、妻子を捨てることを決意する。ヒトは時に幸福にすら飽きてしまう。波風の立たない暮らしでは満足出来なくなる。刺激ある人生を求めてしまう。幸福が延々と続くと、それが不幸にすりかわったりもするのである。 ♪ 幸福っていったいなに? ♪ ドラマの中でも明確な答えは出ないかもしれない。幸福はそれぞれの心の中にのみ存在し、他人には理解し難いものだからだ。幸福に見える全てのヒトが必ずしも幸福ではない。幸福は心の充実や平穏さがもたらす産物に過ぎない。李理香がいろいろなヒトと関わり、いろいろな場面に出くわすことで、自らの独自の幸福の意味を見つけられることを祈っている。幸福に定義など無いのだから。 |
愛をください 010 : ガラスの天井 (2000.07.25) |
♪ 季理香は今、ガラスの向こうに何を見ているのだろう。"幸福"という無形の存在だろうか。それとも、復讐すべき社会へ上手く迎合している自分の姿だろうか。基次郎が送った"青空"でさえ、季理香にはガラスの向こうに見えてしまう。世の中を大きく捕らえることや、大地の逞しさに目を向けることすら出来ない。李理香はもう十分大人なはずだ。虐待の過去や今の差別を乗り越えて生きて行かなければならない年齢であるはずなのだ。でも今の彼女には、そんな余力はきっと残っていない。 ♪ 子供は誰でも大人になってゆく。好む好まざるに関わらず、誰もが大人になってゆく。季理香がガラスの向こうに見ているのは、もう決して掴むことの出来ない"幸福な過去の自分"なのかもしれない。 ♪ 『 ガラスの天井 』 辻 仁成 |
愛をください 009 : 人を裏切るくらいなら (2000.07.22) |
♪ 誰だって、誰かを信じたい。 ♪ 李理香のヒトへの不信は社会への復讐心に向けられる。 ♪ いっそうヒトを信じられなくなった季理香は、いったい何処へゆくのだろう。 ♪ 『 Dear Friend 』
ECHOES |
愛をください 008 : うちあけ話を聴くように (2000.07.13) |
♪ 第一節「本当の気持ち隠しているカメレオン」の"音"をMDに録音し、殆ど毎日のように聴いていた。一週間で五回ほど聴いているうちに、あれだけ"自分の中のZOO"を崩されることを恐れていたにもかかわらず何故これほどまでにすんなりと受け入れることが出来たのか、(あくまで僕個人の見解であるが)自分なりに整理することが出来た。 ♪ 思い悩みながら歌という大きな存在を友とする季理香。 ♪ 葛藤を繰り返す登場人物に、僕自身や僕以外の人達、とりわけ僕の知る仁成の世界を愛する僕以外の人達の姿がだぶるのである。その気持ちは、僕自身の心を紐解く時や、なにより仁成を媒介として思いを共にする人々の"うちあけ話"を聴いている時のいつもより少し優しい自分になれるような気持ちに似ているのである。 ♪ 少なくとも前述の登場人物(基次郎は作者という設定だが)は、既に僕や僕等と同じように”ZOO”という詩(うた)に傾倒し、持ちあわせているエネルギーに気付いていて、僕からしてみれば長話してみたくなるような絶妙に身近な存在なのである。 ♪ 「愛をください」は、僕や、おそらく多くの仁成ファンにとって、”ZOO”という世界を共有する新たな知人の”うちあけ話”を聴いているようなもので、個々の抱える"それぞれのZOO"とは全く別のところに位置付けることが出来るのだと思う。 ♪ そこまで仁成が計算ずくだとは思わないが、考えれる状態の中では"最高"に近い形で仁成の兆戦「愛をください」を見つめることが出来るのは本当に幸せである。仁成への感謝の気持ちでいっぱいだ。
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愛をください 007 : 愛をください (2000.07.06) |
♪ 初の連続ドラマの脚本、しかもフジテレビ系列のゴールデンタイムである。当日夕方には直前スペシャル番組が放映され、主演の菅野美穂さんはピンク色の派手な扮装で巨人戦の始球式に登場である。なにより番組宣伝のテレビスポットに仁成が登場して語るような異例さである。辻仁成か三谷幸喜かという感じである。今回の仁成は何かが違うかもしれない。仁成を信じて今日まで応援してきたが、今回こそは何かが違うような気がする。素直な気持ちで応援してゆけるのだろうか。違和感を感じずにドラマを楽しむことが出来るのだろうか。仁成は、いったいどれだけ時代に流されてしまったのだろうか。 ♪ 僕は裏切られた。仁成は、仁成の作品は、社会の深淵を媚びずに図太く駆け抜ける、相変わらずのものだった。危惧は無意味だった。このドラマは、安易な迎合よりも我が道を選ぶ、オールド・ニューな仁成自身の存在証明であり存在表明である。 ♪ "歌"をモチーフにした物語り作りということは、きっとかなり前から構想としてあったに違いない。それを小説というジャンルではなく、意図的に最も多くの人が垣根なく触れることの出来るテレビドラマという形で満を侍して実現させたところに、ありのままの媚びない仁成で勝負したところに、仁成のただならぬ意気込みを感じた。 ♪ 僕は仁成に対してあまり尊大な印象は無いのだが、今回に限っては仁成が"偉大"に思えた。 ♪ "ZOO"はドラマに組み込まれたのではなく、ドラマ自体が"ZOO"そのものだった。登場人物たちはカメレオンであり、アマガエルであり、ハイエナであった。そして、かつてからの仁成ファンが最も入り込みやすいような題材に満ちている。函館山,下北沢,そしてアコ・ギで歌うこと。"仁成ファン"が他の誰よりもこのドラマを愛せるように出来ている。想い過ごしかもしれないが、単なる結果論かもしれないが、「愛をください」は仁成からファンへの感謝の気持ちの表現であるようにすら思える。 ♪ 僕らは、仁成は、これを期に良い形で新たな方向へ動き出したような、動き出 さなければならないような、そんな感触に包まれた。それは"ZOO"という僕の人生に大きな影響を与え続ける歌を 最初に聞いた時の、新鮮な清々しい気持ちに似ている。仁成は、また僕の人生に大きな 刺激を、そしてパワーを、与えてくれることになりそうだ。それは、思春期のように、反抗期のように、惑いがちな今の僕にとって最高のプレゼントなのだ。 ♪ 仁成、ありがとう。 |
愛をください 006 : Dear Friend / ZOO C (2000.07.05) |
♪
♪ 「またいつだって会えるさ。上手い事やってこいよ。俺もおまえに負けないぐらい頑張るぜ。」 |
愛をください 005 : ECHOESの復活と完結 / ZOO B (2000.07.04) |
♪ 時おり気分屋になる仁成が2年程前に「エコーズの復活を考えている。」というようなことを口走って以来、多くの人の心にそのことが引っ掛かり続けていると思う。その後「今のところは無い。」と起動修正したようであるが、今回の主題歌の件で周囲の声は再燃するに違いない。ただし「もう一度エコーズを。」という多くの想いと同じくらい、「中途半端なエコーズは見たくない。」という気持ちを持っている人もたくさんいるに違いない。いや、どちらかいうのでなく両面という人が最も多いではないかと思う。 ♪ 僕の場合も多分にもれず両面が存在するのだが、実は後者にウェイトが大きいと思う。エコーズ解散の時期は僕が社会に出る少し前だったので、エコーズをリアルタイムで聴いていた頃は少年〜青年期であった。人一倍物事に思い悩むようなことの多かった僕は多くの仁成ファンと同様に、仁成の歌に寄り添い、寄り掛かり、頼って生きていたようなところがあった。仁成の歌は日々の"パワー"であり、僕に足りない"あと1歩"を補完してくれるような、掛け替えの無い存在であった。 ♪
♪ あの日僕の中のエコーズは、ほぼ完全に封印された。 ♪ しかし、可能な限り完全な形で復活を遂げられるのであれば、僕とて応援したい、聴きたい、ということに疑いはない。しかし、もちろんあの4人で、パワフルなドラムと、クールなベースと、ハートウォーミングなギターと、エネルギッシュなボーカル、全てが揃って初めて誰もがエコーズと認めることが出来るのである。迎えることが出来るのである。そして、それは当然仁成もわかっていることなのである。内情的には復活にネガティブな要素が多いようだが、復活を望む声があれば、待っている人が大勢いるのであれば、意外に感情に流されやすい仁成は"復活"を考えざるを得なくなるのかもしれない。 ♪ 僕はどうせならば完全な形でエコーズを迎えたい。それが叶わないのであれば、曖昧な形でなく今こそエコーズを完結させても構わないと思う。 ♪
♪ ここまで復活について否定的に、完結について肯定的に述べておきながら、「現在のエコーズを聴いてみたい、感じてみたい。」という感情も消し切れないのが、無責任ながら偽らざる僕の曖昧な心境なのである。ただし、もし聴くことが出来たとしても、かつての僕と違いエコーズの曲に頼ることなく肩を並べて聴く事が出来ると思う。 ♪ 僕はエコーズを愛している。その気持ちは時が過ぎても薄れることはない。
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愛をください 004 : ZOO A (2000.07.04) |
♪ それから、とてもとても永い時が流れたような気がする。 ♪ 2000年という区切りの何かせき立てられるような気分も手伝って、僕は無性にまた音楽というものに向かい合いたくなった。今年に入って僕は仲間に声を掛け、バンド形式でまず辻作品のコピーをやることにした。百数十曲ある辻作品のうち、最初のミーティングで選んだのが Jack と ZOO だった。5月に仮合わせをし、思いのほか良い感触であったので、6月に入ってさらに2曲を加え本格的にスタジオで練習を...という矢先に今回の"ZOOドラマ主題歌"というニュースが舞い込んだのだ。 ♪ 「何もこんなタイミングで...」というこの奇遇さを驚く照れくさいような妙な気持半分と、「もっと早くやっておけばよかった。やっておきたかった。」というお約束の後悔の念が、同時に僕を包み込んだ。 ♪
♪ 僕は生涯ZOOを聴き続け、生涯ZOOを歌い続けていくことだろう。 |
愛をください 003 : 歌と物語の融合 (2000.07.01) |
♪ これまでにも主題歌がドラマの中で使われるようなことはあった。例えば主人公がバンド活動をし、演奏シーンで主題歌を歌うであるとか、学生レガッタ部の宴席でみんなが肩を組んでうたう歌が脈略なく主題歌であったり、酷いものになると主題歌を歌うアーティストやバンドがそのまま劇中に出演し演奏し、大した必要性もなく主人公と絡んだりするのである。文に滲み出てしまったように、ドラマの中に登場する主題歌に正直僕はあまり良い印象がない。 ♪ しかし今回は違う。一人の小説家が自分自身がかつて魂を込めて作り世に送り出した歌を、ノリとしての音楽だけではなく物語に融合させるのである。第三者の歌を間接的に使用するのではなく、直接的に自分の歌を使うのである。 ♪ エコーズの代表曲とされる歌のひとつに"Jack"という歌がある。"Welcome to the lost child club" という導入部を持ったこの歌は、明確なストーリー性を持った歌である。"Jack"にはさらに、歌詞を生み出す元となった詩的な文体のショートストーリーがあった。小説家と呼ばれる以前に、仁成が自身のラジオ番組で朗読した。彼がまだ20代の頃のことである。そこにはすでに今日の仁成の像が確かにあった。僕は彼が本格的に小説をやりはじめてからは、物語を背景に持った歌を作って欲しいとずっと思っていた。 ♪ ZOOを当初から聴いている僕のような人間には、ZOOにはそれぞれの掛け替えのない色と風景がある。物語によって、しかも仁成によって作られるイメージは強烈なものになるはずで、それが"それぞれのZOO"に大きく影響することは避けられない。 ♪ 今回の主題歌の話は、辻が聴かせたZOOをプロデューサーがひどく気に入り主題歌としての採用を決めたらしい。しかしそれは、あがった原稿にプロデューサーが目を通した後とのことである。脚本にはZOOが随所に散りばめられているようなので、仕掛けた仁成の勝ちということであろう。仁成はおそらく十数年前にはすでに"歌と物語の融合"の素晴らしさに気付いていて、それを体言してみせる立場と実力が自分に備わる機会を狙っていたに違いない。納得のいくものを生み出せる時をだ。 ♪ ZOOの発表から10年以上が経過しているが、今回の仁成の兆戦は突発的な思い付きではなく、ZOOという歌の不変の魅力を再び世に送り出すべく周到に準備された、仁成の永い永い企みの結晶であるように思う。 ♪ 少々過言といわれるかもしれないが、なによりZOOという素晴らしい歌の存在を歴史に埋もれさせないことは世の中にとって大切なことであると心から思う。僕も永いあいだ、ずっとこの時を待ち続けてきたような気がする。 ♪
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愛をください 002 : ZOO @ (2000.06.29) |
♪ 歌われているのは広く世の中についてであって、日々無意識に色彩を変えてゆく自分に対して、さらにそんな不器用な自分を取り巻く様々な人々に対してZOOは歌われ、自分の生き方や人との関わり方を省みると共に、誰もが自分と同じように痛みや悩みを抱えていて、自分にそうするように他人にも優しく接しなければいけないよ、と言われているような気がする。求める愛と与える愛について、という言い方も出来ると思う。もちろん恋愛という意味の愛よりは、もっともっと広義な愛である。これはあくまで僕のイメージとしてなのだが。 ♪ 僕の中のZOOはシャープでもなくのんびりでもなくその中間を行く、気分を中和させてくれるような歌なのである。 ♪
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愛をください 001 : 主題歌ということ (2000.06.27) |
♪ 例えばTMネットワークがそうであったように、80年代はアニメソングの主題歌でブレイクするバンドも多かった。主題歌とは不思議なもので、よほどの目測誤りがない限りハマってしまうものなのである。例えば「エコーズの曲などアニメに合わない。」と誰もが思うところではあるが、それは本来の良さを知っているからであって、中・高校生のアニメファンからすれば(アニメファンの方には少々失礼な表現になるが)聴き心地さえ良ければハマってしまうのだ。アニメの視聴者は購買層としては少数かつ低年齢ではあるが、そこから小さな火が付き巷である程度の頻度で流れるようになると、アニメを見ていない上年齢の購買層に"聴き慣れ"という現象で伝達される。この流れが思惑通り進んだ時に、ロックバンドでさえアニメでブレイクするという結果を生むわけである。 ♪ アニメ主題歌を断った話はエコーズとしてはあまりに当然であったのだが、当時のエコーズの位置付けからして話に乗ったとしてもファンとして文句の言えないくらい"おいしい話"だったと思う。もっとも、アニメでなくても当時の仁成であれば主題歌を断ったような気もするが。 ♪ 90年代に入ると、ドラマの主題歌やCMソングという俗にいう"タイアップ"は、ますますブレイクの必須条件となってくる。そして、タイアップに失敗、もしくはタイアップそのものをしないアーティスト、つまりブレイクを経験していないアーティストは、どんなに良い曲を演奏しても活動自体おぼつかないという状況におかれるのである。現在"売れている"とされるアーティストの多く(ほとんど全てと言っても過言ではない)が"タイアップ"という形でブレイクし今に至っている。現状はそんなところである。 ♪ ちょっとしたNHKの番組や映画"天使のわけまえ"で使用されたことはあるが、それは"知る人ぞ知る"といったものであった。今回は取り巻く状況がかなり違うのである。しかし、エコーズ時代の曲を使うわけで、もちろん本人のブレイクを狙った商業主義ではない。仁成らしい。ファンとして喜ぶべきことなのかどうかは今はまだ複雑な気分が先走って微妙なところなのだが、どのような結果になるにせよ、仁成を信じて、そして仁成の才能を信じている自分にも誇りを持って、出来る限り応援してゆきたい気持である。
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