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ECHOES 008 : 『 SLOW 』〜活動休止  (2002.07.XX)

誰も口にしないし、書かないし、書けない、触れたくない。
かく言う僕もその一員に過ぎず、事態を把握すればするほど、全体を掌握するまでには至らなかった。
秋からの様々な思いを翌年の夏まで間延びさせてしまったのは、単にマシン環境が整わなかったという理由だけではないのであろう。
所詮僕などは一聴衆の素人であり、批判や解析があれば深夜に執拗に自身の確信を口にする評論者に任せても良いのだが、そうした土俵に上がることもなかった。むしろ上がらないほうが良い、というのが正しいのかどうかさえよく判らない。
2001年11月にリリースされた『SLOW』のセールスが伸びなかった。誰もが予想しなかったであろう域であったことは疑いの余地がなかった。CFやメディアでの音声としての間接的な露出量等々の付帯状況を鑑みれば、過去作品に比較して楽観視出来る要素は多分にあった。
世の中に対するウケの度合い、つまりセールスがどうのと書いてしまうと、作者と楽曲の目的性や取り組みに対してはセールスは度外視すべきでは?との御指摘を受けることもしばしばだが、この段階での現実が示唆する未来は、今となっては結果論になるが僕の中では明白だった。

僕は"ECHOES OF YOUTH" (EOY)の最初の2曲を手放しでベタ褒めした。
いや、褒めたというよりは"感動","感心","感謝","歓喜"などという感情であり、そこに大した理屈はない。
待ち望んでいたオーダーが永い手順を経てやっと目の前のテーブルにサーブされたような気分だった。
これ以上ない、と本当に心から思ったし、今でも思っている。
"ECHOESの復活"は誤りでは決してなかったと思えた...

 

ECHOES 007 : 『 REAL 』 (2001.09.21)


"ECHOES OF YOUTH" (EOY) 最初のライブの1曲目に選んだほどの自信作だ。なにより2番締めの鼓膜をつんざくような金切り声が聴く者の心を奪う。アコギであればフレットを振り切らんばかりの高音である。ヒトの聴覚は不思議なもので、とりわけヒトが発する非日常的な音声には自然に集中してしまうのである。ファルセット(裏声)とはいえ、上の、上の、さらにそのまた上のド(C)である。仁成本人にしてみても、かなり兆戦的といえる楽曲ではないだろうか。シャウト気味の歌声が軽く掠れ、まるで実声のようにハスキーである。実はライブでの歌声を聴いた時、トップの音程は僕にはファルセットには聞こえなかった。誉め過ぎかもしれないが、ゴスベルの歌声を聴くときのように、僕にはとても心地の良い歌声なのだ。高音ボーカルという部類があるとしたら、現在のところの辻作品で最高傑作だと思える。

ギターの絡み具合や全域に亘り効果的に使われるピアノ音など、前曲「恋するために生まれた」と同じ方角の雰囲気を持っている。既にこれが"EOY"を象徴するスタイルであり、不可欠なバランスであると言えるのではないだろうか。アコースティックピアノの音色は"確固たる意志"を巧みに表現している。少なくとも最初の2曲は強い意志を伴い、そこには一点の迷いもないのだから。

♪♪♪

世界はきっと幻じゃない

多くの情報メディアが氾濫し日々五感を激しく刺激するこの世界の中で、"本物"を見分けることは実に難しい。"偽物じゃないもの"をいかに確かなものとして脳裏に刻み込むことが出来るかが重要になってきている。寝転んでテレビを見ていれば様々な情報が視覚と聴覚に自ずと浸透してくる。しかし、過度の刺激はヒトの歴史上においてもとても特殊なことなのだ。何故なら、遥か昔から長いことヒトは"実物"以外のものを"本物"と認めることなど無く暮らしてきたわけであり、現在のように、例えばテレビの映像を見ただけで高いレベルの満足感を得てしまうことは、ヒトの歴史始まって以来のことなのだ。ヒトの心身や進化/退化に与えるであろう影響は現在では計り知れない。"長いスパンを掛けて行われている人体実験"ともいえるのだと思う。テレビや映画や写真で見たことはあるが実物を見た事が無い、というある意味"虚像"とも言えるものの割合が現代人の記憶に占める割合は、きっとかなりのものなのだ。しかし、今となってはテレビの向こうの被写体を"偽りではないか?"と疑うことなど馬鹿げたこととされ、テーマパークには擬人的にデフォルメ(誇張)された造りもの生物に歓声を上げる子供達(あるいは大人達)で賑わい、ラッシュアワーの電車にはスポーツを紙で読んだだけで充足されるミドルエイジで溢れている。"世界そのもの"は確かに幻ではないと今では僕も思っているが、世の中の"確からしさ"を自身の感覚でなぞってゆくことこそがヒトにとって非常に重要なことである、ということもまた確信している。

千葉県の"行川アイランド"というテーマパークが、入場者数の低迷もあり37年の歴史に幕を閉じた。"行川アイランド"はフラミンゴのパレードをメインに鳥を扱った珍しい施設である。僕は幼いころ一度だけ両親に連れられて行ったことがあるのだが、(もちろん野生そのままというわけにはいかないまでも、)羽ばたきながら目の前の広場に次々に着地してくる鳥や歩き回るたくさんのフラミンゴには心を奪われた。今でも何らかの鳥を見る度にあの光景を思い出すほど、その年代の僕の記憶の中でも不思議なほど傑出して鮮明なのである。そうした重要な経験は、"実物"だからこそ成し得るものなのではないだろうか。

世間に溢れかえる"本物っぽいもの"よりも、僅かでもいいから確固たる"偽物じゃないもの"。これこそが本当の"心の財産"になるに違いない。

♪♪♪

お願いだから見失わないで

哀願するような、決して格好の良いフレーズではない。だが、形(なり)振り構わない言葉でしか伝達出来ない"一生懸命さ"が、とかく現代人が隠したがる"一生懸命さ"が、沢山感じ取れる。このフレーズを通して「"実物"が"君"の人生にとって大事なものなんだ、それがハッピーエンドとは限らなくとも、大事なものなんだ。」と訴えかける。

"REAL"という曲は"君"と"僕"という表現を用いつつも、"本物っぽいもの"に目を奪われゆく全ての現代人への"憂いの歌"であり、耳をつんざくファルセットは警鐘のように聞こえる。

♪♪

"EOY"としての2曲目のこの曲も、僕の視点では1曲目に続き満点超えの曲である。作品としてはこの相変わらずの知性を携えたパワー(?)で突き進んでくれたら(世間への認知は別として)聴く者として幸福だ。


 

ECHOES 006 : 『 恋するために生まれた 』 アフターレビュー (2001.06.10)


残念ながら非常に反響が小さいようである。
ネガティブな話題には僕だって誰だってあまり触れたくない。許されるなら目を背けてやり過ごしたい。だが、触れることが不可欠に感じるときもある。僕はやはり、良いことも悪いことも、心に秘めておくことが苦手なのである。

♪♪

"ECHOES OF YOUTH (EOY)" は、楽曲発売の前後を問わずメディアへの露出はほとんど無かった。とりわけ出版系メディアでの扱いは信じられないくらいのレベルであった。これは今回に限らず、仁成のソロ活動において過去にもあった傾向である。

当然注目されてしかるべきときに、ここぞ決め時というときに、まるで目に見えないマイナスの力でも働いているかのように、物事は僕の目の前ですらスムーズに運ばない。僕などの視点ですらそう感じるなのだから、当人の思いはいかほどのものなのだろう。それとも仁成は「売れるだけが全てじゃないんだよ。」という意のことを言い放つのだろうか。

(駅のホーム等でなく視界に入るか入らないかといった"絶妙"でなく"微妙"な位置ばかりではあったが、)新橋駅そばの交差点や品川駅の海側出口付近や渋谷センター街の京タコの頭上にさえ大看板を繰り出し、何より連続テレビドラマの主題歌でさえある曲が、週間チャートの初動50位(オリジナルコンフィデンス)にも入らないというのは、本当に尋常なことではないと思う。順位はともかく推定売上枚数が"数千枚"という数字である。

"ECHOES"→"ECHOES OF YOUTH" 確かに名前が違えば客観的には"辻仁成"がやってるかさえ識別できないわけで、結果的には"ZOO"というヒット曲とすら(関連付けることが"EOY"の本筋であるかどうかは別にして)関連付けらないヒトが大多数であると思える。

僕が個人的に予測してなかったかといえばそうではない。それは、発売前に"EOY"の宣伝効果が僕のところに殆ど伝わってきていなかったからである。意図的に外されてるのか、意図的にそうしていないのか、辻のソロ活動か、それ以上くらいに、あるべき(出るべき)ところに無いのである。上述したが、出版物関連では特に顕著であったように思う。上述した大看板に気付いたのは5月になってからで、しかもいづれもヒトが気付いて教えてくれたというものだった。僕だって何度も真下を通り過ぎていたというのに。

ドラマの告知スポットでバックに流れていたので音的な露出はかなりのものだった。そのためドラマ開始後の急速な認知を期待していた。しかし現在のところ、事実上は主題歌としての扱いではない。初回の劇中に一度流れたきりで、第2回以降も含め、殆どが番組最後の予告の"バック"に流れているに過ぎない。ここ10年程度の感覚でいえば"挿入歌"か"それ未満"である。"当初の予定通り?"それとも"楽曲が内容にそぐわないと判断された?"、理由はどうあれ、せっかくのタイアップ効果を発揮してくれていない。脚本の好みはヒトそれぞれだろうからここでは問わないことにするが、番組としての完成度に非常に"雑"な印象があるのも残念だ。

何百万枚もの売り上げでもなければアーティストの手元に入る印税などたかが知れている。それ以上に製作全般としても、今回の売上はでペイしない(元がとれない)状態だと思う。かつて仁成は、音楽で自分の暮らしすら成立させられず、セールスがなければ居場所の無くなるこの世界に苦悩したものと思う。今の仁成であれば確かに食べてゆくには困らないであろうが、僕は「仁成には音楽のプロフェッショナルであって欲しい。(≒になって欲しい。)」と、かつてから、そして今も強くそう思っている。ここでいう"プロフェッショナル"とは作品の出来どうのではなく、あくまで経済的にであるとか採算ベースであるとか、上手くは言えないがそうした意味でのものである。個人的には「新曲のプロモーションを兼ねてテレビに出て歌って欲しい。」などとはあまり思わないし、「何をおいても売り上げだ。」などとは決して思いたくない。しかしながら、"EOY"は仁成が言うところの"新人バンド"である。過去のものでなく、"EOY"としての"実績"がとにかく必要なのだと思う。僕と"EOY"の考え方が必ずしも一致するハズもなく、かえって胡散臭くなるので具体的な希望や案などは挙げないが、自由に活動出来なくなるような事態だけは何としてでも回避してゆけるように(単純な単語で締めて恐縮ではあるが)大いに"工夫"して欲しい。その余地は大いにあると思う。

♪♪♪

- オリジナルコンフィデンス上の記録 2001.06.06 (発売後6週) 現在 −
  

『 恋するために生まれた 』  ECHOES OF YOUTH
  

累積得点 342 ( 推定売上枚数 3420枚 )
最高順位 87
( 100位以内チャートイン 1週 )

♪♪♪

『 君と出会って僕は輝き始める。 』

"生きることの輝き"に拘る相変わらずの姿勢に、
まだまだ「"EOY"のこれからに期待。」と僕は感じている。



 

ECHOES 005 : 『 恋するために生まれた 』 (2001.05.12)


都合のいい夢をよく見る。学生時代に戻ってサークル活動をしてみたり、憧れのまま通り過ぎていったあの娘と付き合ってみたり、時には大観衆の前で歌ったりもしてしまう。

『恋するために生まれた』を手に取ったとき、何だか都合のいい夢を見ているような感覚に陥った。ジャケットには"ECHOES(OF YOUTH)"の文字。しかし、その印象は僕の想像とは少し違っていたのだ。白、黒、黄、赤、といった緊迫感や荒廃感の漂うイメージカラーを(少なくとも僕の知るところでは)持ってきたECHOESだったが、EOYのジャケットには(荒廃的な光景ではありながら)緑色が使われていた。背景は写真に対して画像処理が施されているようだが、見方によっては緑色を意識的に強調しているとさえ思える。安らぎを感じさせる緑色に、明らかにECHOESとは異色の、真新しいような息吹を感じた。

仁成の気持ち的には"ECHOES復活"というよりむしろ"新生ECHOES"と捉えて欲しいようである。しかし、ここでこれを考慮しだすと非常にややこしいことになりそうであるので、敢えて"復活"という言葉で通して述べるが、今となっては"ECHOES復活"と題された武道館ライブは"懐古"に過ぎなかったように思える。そして、EOY(ECHOES OF YOUTH)として初のライブであった渋谷公会堂は"序章"であり、『恋するために生まれた』が発売されて始めて"復活"が成立ったのだと、今、僕は勝手に解釈している。何より、楽曲をディスク(=形のあるもの)として手に取ったことで、"これからも続いてゆくであろうこと"という意味も含めて、初めて実感として沸き上がってきたわけだ。

♪♪

稲妻の閃光を思わせるSE(SoundEffict)の切迫から安堵の地へ抜け出るように、メジャーコードのゆったりとしたアコギ(アコースティックギター)の音色が被ってくる。ビブラートのかかったオルガン風のシンセ音に乗せて歌い始める仁成のボーカルはあくまで優しげである。これは、一種ギスギスして力を抜くことのなかった(出来なかった)かつてのECHOESのそれとは趣が異なり、その後の10年で辻が培ってきた"ゆとり"と"包容力(のようなもの)"であると思う。

テンポがゆったりしていることもあり、まるでボーカルと掛け合うように立ち上がってくるプレーなど、10年前には余裕が無いように思えたヒロキにも、(そういうアレンジだからと言ってしまえばそれまでだが)何となくライブで感じたような"ゆとり"を実感してしまう。ヒロキのシャイな微笑顔まで思い浮かぶほど、楽しげな感じさえするのだ。

当然なのかもしれないが音的に最も顕著な変化が現れているのはボーカルである。普通であれば"声質の違い"が最も目立ちそうなのだが、それを忘れるほど変化したのは仁成の"歌い方"であった。ECHOES時代もライブの時は"まったり"として歌い方をすることが特に多かったが、仁成のソロの時期にレコーディングされたボーカルでも"まったり"が顕著になってきた。仁成の歌声をあまり御存知でない方のために念のために書くが、ここで言う"まったり"とは、仁成が声を伸ばす時に丁度"〜"記号のように音程を上下させることである。例えば♪恋するために生まれたぁあー♪の語尾「たぁあー」部であれば、

【た】高音   【ぁ】中音  【あ】高音  【ー】高音→低音

と、大きく音程(と声量)を変化させる歌い方ということである。仁成個人としては自分の歌い方をそのままの流れでEOYへ踏襲しているだけなのだが、僕とて"ECHOESの続き"として聴いてしまう部分が多いわけであり、その場合にはどうしてもそこへ聴覚がいってしまうのだ。新鮮な気分で聞ける一方で、"まったりしすぎでは?"という感も僕に少々ある。

バックサウンドのメインは全面に亘る印象的なギターのカッティングである。ECHOESがこの種のサウンドを自分たちの"王道"と選択して久しいものであり、〜に似ているというよりは既に"ECHOES風"もしくは"ヒロキ風"と言っていいと思う。最初の曲に思いきりの"王道"を持ってくるあたり、この曲への力の入れかたが伝わってくる。そして、これは僕がECHOESというバンドに対して、"律儀さ"(≒裏切ることが嫌い)を重んじるというイメージがあるからかもしれないが、「一番ECHOESらしい曲がみんなに喜んでもらえるだろう。」と、ある程度考えてこうアレンジしたような気がしてならない。

しかしだ、この曲にはギターのソロプレイが無い(といっても過言では無い)のだ。何故だろう?正直言ってヒロキの見せ場がもっと欲しかった。(渋谷公会堂の際には感激(?)が先走ってさすがにここまで注意して聴けはしなかったが、)これではライブで寂しい感じがするだろう。これだけは特に次曲以降に期待したい。

『 何のために生まれたの 夢中になれるものが欲しい 』

このフレーズがこの歌のパワーの核であろう。サビメロディーのなかではサラっと流れる感のある部分ではあるが、さして新鮮ともいえないこの言葉には誰もがきっと引き付けられることだろう。

生きていることに意味を付けようとすることは必ずしも幸福な行為とはいえないが、僕に限らず"何のために生まれたのだろう?","何のために生きているのだろう?"と自問する機会が少なくないヒトも多いと思う。"人生とは夢中になれるものを探す道のり"という捕らえ方は、あまり個性に異存しない普遍的な見方である。

より個人的な見解を言わせてもらうとすれば、「恋するために」ということはこの歌では「夢中になれるもの」の答えであるが、それは現在の仁成なりの解釈であり、あくまで一つの解にすぎないと思う。さらに、仁成にしてもそれは変化していくようにすら思え、(ちょっと言い過ぎかもしれないが、)『恋するために生まれた(ような気がするほど恋することは素晴らしい)』というのが本当のところであると思える。「夢中になれるもの」=「人生において夢中になる価値のあるもの」というものはヒトによって異なり、それぞれの解釈で構わないわけであるが、「夢中になれるものに出会えること」が「何のためにうまれたの?」という命題の大きな一つの解であることは、きっと誰でも感じることであり、そうした意味でも「夢中になれるものが欲しい」という言葉の説得力は、仁成のメロディーを伴って非常に強いものとなり、忘れてはいけない問題提起のように心に入り込んでくるのだと思う。そして、「何のために生まれたの」という自問の言葉は聴く側の個人それぞれの内面に向けられ、基本的には"パーソナル"な内容である詩を誰もが"共鳴"できるものにしているのだと思う。

これほど僕の心を捕らえたフレーズは久しぶりである。

♪♪♪

この歌は演奏も言葉も歌声も、とにかく前向きな感じがするのである。"ECHOES"の原点は"憂いの歌"であったと僕は思うのだが、一曲が判断するのは尚早だが、少なくとも現段階での"EOY"の感触は"憂い"よりむしろ"癒し"の方に近いのではないだろうか。とはいえ僕は、時代が流れても角が取れずにトガり続けることでのみ自らの立場を固持してきた"ECHOES"の本質が変わるとは全く思っていない。いろいろなオプションを持ちつつも、もっともっとトガってくるに違いない。

絞り出すようなヴォーカルから放たれる仁成のパワー感は未だ衰えず、『
恋するために生まれた』は、かつての"ECHOES"に勝るとも劣らない楽曲であると僕は思う。

"ECHOES OF YOUTH"はまだ始まったばかりだ。



"ECHOES"→"ECHOES OF YOUTH"という題材から目が逸らせられるわけもなく、
比較論にばかり言及してしまったことを今回は御容赦願いたい。


 

ECHOES 004 : 21世紀型エコーズ / ECHOES OF YOUTH 始動 (2001.02.09)


辻仁成+伊藤浩樹による ECHOES OF YOUTH が、ECHOES日本武道館公演の中で発表された。「いい話しってのはそれだけじゃないんだよ!!」という前フリを何度か繰り返した末の発言であり、近々新曲を出すとの発言もあった。渋谷公会堂でセッティングされていた(これも当日発表された)辻仁成ライブ(2001.03.20)は ECHOES OF YOUTH として行う(行いたい)とのことらしい。ECHOES OF YOUTH が"21世紀型エコーズ"="新生エコーズ"となるのか、ECHOES の財産をどの程度引き継ぐものになるのかなど、詳細は不明だが、少なくともライブで ECHOES の曲を演奏することにはなりそうである。しかしながら、(冗談かもしれないが)浩樹が発表の瞬間までこの事実を知らなかったと言っていることもあり、今後の活動については少々慎重に見守りつつ注目していきたい。

【注記】:”ECHOES OF YOUTH” は、かつて存在した”ECHOESオフィシャルファンクラブ” の名称でもありました。

最近になって、ヒロキが自身のオフィシャルサイトBBS(掲示板)に、仁成と共に2月4日〜12日の日程でニューシングルのミックスとプロモーションビデオの撮影でベルリンに行く旨の書き込みをしていた。映画祭への自作品出品に伴う仁成のベルリン行きは武道館で既に仁成の口から発言されていたので、それにヒロキも帯同する形になるということであろう。ただ、ヒロキの書き込みを読んで僕の心に浮かんでいたのは、書き込みの内容とは次元の外れたものであった。それは ECHOES OF YOUTH のユニット(あるいはバンド)としての"バランス感"ということである。良くいえば"ワイルド"でありながら大部分において"ぶっきらぼう"である仁成に反して、ヒロキは"ワイルド"でありながらも多くの面で"繊細"である。これは僕のイメージであるが、かつてのヒロキは ECHOES に対して自分が"繊細"であるが故の長所を出すことが出来ていなかったように思う。しかし今、ヒロキは確実に変化した。 ECHOES とのブランク、そして仁成とのブランクを経て、音楽に打ちこんだヒロキは着実に飛躍したのだと思う。かつては届かなかった自身の理想像に近づきつつあるかのような感触すら受けた。ECHOES OF YOUTH で、仁成とヒロキのバランスは、きっとかつてを凌ぐものになっているに違いない。 ECHOES OF YOUTH の"切り札"はヒロキの楽曲なのかもしれない、とさえ思えてくる。そして、エンジンは仁成でもいいが舵取りにはヒロキが必要なのだとも思う。実のところ先行した不安はまだまだ消えないが、やっと ECHOES OF YOUTH が"楽しみだ"と思える心境になってきた。


   

ECHOES 003 : One Night Stand 〜 in the ZOO 〜/ ECHOES復活 B (2001.01.18)


2000年12月28日は、まさに「たった一夜の夢」だった。
思い返しても幻のようですらある。

辻仁成、伊藤浩樹、伊黒俊彦、今川勉
仁成だけでなく、ヒロキが、トシが、ツトムがそこにはいた。

かつてのエコーズを土壌としつつ今も音楽の道を歩みギターも上手くなっていたヒロキ。
別の道を選び風貌にもかつてはなかった風格の漂うトシ。
音楽への情熱の強さを身をもって示したツトム。
声の出は悪く歌詞は昔さながらに間違いだらけでありながら確かにエコーズとしての歌声を発揮した仁成。

"ちゃんと考えるには今しかない"という覚悟で、僕はライブ中に目の前で繰り広げられている現実のひとつひとつを僕なりに正確に消化するために必死になっていた。そしてその結果は、アンコールが終わるころには一つの結論に達していた。おそらく多くのヒトがそう思ったように。

完全にとはいかないまでも、十年という時間の流れに逆らうかのように仁成はエコーズを歌いヒロキはエコーズを弾いた。奇しくもトシの現在が"現実の時間の流れの早さと大きさ"を物語り、ツトムの現在が"情熱を維持してゆくことの難しさ"を体現した。まるでそれが観衆の琴線を弾くよう入念に計算されていたかのように、誰もが十年前の自分を振り返り、そして誰もが背理的に仁成の"変わらぬパワー"の尊さを思い知らされることになった。

『 ECHOES の歌を今後も歌い続けてゆくこと。 』
『 ECHOES の魂を込めた歌をこれからも作り続けてゆくこと。 』

策略か結果的にか、この二つの認知を ECHOES が聴衆に問うべき分岐点のライブであったように思う。多くの聴衆がそうであるように最大限を求めてしまうのは僕も例外では無いが、例え完全でなくとも時には認めるべきこともあるのではないかと僕は思った。この日これだけのことを実現した仁成に、僕はエコーズを続けてゆく"権利"のようなものが大いにあると思えた。(仮に聴衆の全てが認めなくとも仁成は我が道を進むと思うが、)認めるべきだと思った。僕は今世紀も続いてゆくであろう"ECHOESという魂"を冠した仁成の活動を支持してゆくことに決めた。これはラストの"ZOO"が演奏されている時のことである。

ライブ中盤に、仁成とヒロキが ECHOES OF YOUTH として活動してゆくということを仁成が発言した。そしてアンコールの中で、ツトムとトシのバトンは仁成とヒロキに委ねられたように思えた。仁成とヒロキ、ECHOES OF YOUTH として2人が4人分のバトンを持ってこれからつっ走るのだ、と思った。

そして、おそらく敢えて演奏されなかったのであろう"Tug of Street"は「もう二度と...」と考えるのが妥当なのかもしれないが、それとて永遠であるかは誰にもわからない。可能性は限りなく小さいはずだが、いつかまた4人でそれぞれバトンを持つ日が来ないとも限らない。僕は勝手にこう思うことにした。

Tug of Streetの興奮は未来に託された。
その日まで大事にとっておこう。

大部分のヒトにとって20世紀最後の大きな転機となったのは間違い無いが、ここに記しているのはあくまで僕個人の受け取り方に過ぎず、やはり感じ方はヒトそれぞれなのだと思う。僕は前述のように消化し容認してゆくつもりだが、"とても認められない"というヒトもいるかもしれない。"無ければ良かった"と思うヒトもいたかもしれない。この日を限りに離れてゆくヒトもきっといるだろう。中途半端にするくらいなら確かに離れるべきであると僕も思う。少なくとも僕にとっては20世紀最後にして自分を振り返るための大きな分岐点となった。

"僕も仁成のように走り続けたい。負けてはいられない。"

この時感じた気持ちは紛れもなくこの日 ECHOES が僕に与えてくれたものである。今後の ECHOES がどうなってゆくにせよ、二度と無いと思っていた EHCHOES を再び感じることが出来た20世紀終末のこの日を、僕は死ぬまで忘れないだろう。

走りたい 走り続けたい あの頃の気持ちのまま 今日の自分に勝つため
< Tug of Street / ECHOES >


   

ECHOES 002 : 予告編は要らない / ECHOES復活 A (2000.10.22)


『またまた賛否両論を呼ぶ内容であることうけあいに思えますが、全てはステージを見て、聴いて、僕はそれだけが重要だと思いたいです。今は余計なことは考えないようにしたいと思います。』と、僕はエコーズ復活に際してメッセージボードに書き置きした。

これは、復活の舞台となる会場設定に留まらず、事前に伝わるであろう様々な情報や意見、さらにはこれから起こるであろう主催側の何らかの不手際や、時期的にあるいは意図的に商業主義的に思えるような思慮の浅い興行形態などには振りまわされず、とにかくエコーズ復活を体現する唯一の手段である"ライブ"を観聴きすることだけで、いろんなことを自分自身で判断したい、という意味を込めてのものだった。そうしよう、という提案の意味もアンに含ませつつのことである。

エコーズのメンバ、今川勉(Dr),伊黒俊彦(B)、両名が"スペシャル・ゲスト"とクレジットされたことで、悲喜こもごもというよりは、端的にいって"ひく"ヒトが多いというのもわかる。盛下がるヒトが多いのも当然である。優先チケット発売告知段階ならともかく、実質的に既にチケットが出回った後では、一般発売時といえど「看板に偽りあり」となじられても言い訳出来ない。恐らくメンバ間で、それぞれの現状や心情、その他いろいろと話した上での結論であるとは推測出来る。"21世紀型エコーズ"を見越しての結果だとも推し量れる。だが、やはり悪意と取られても仕方のないほどの不手際である。もちろん、"悪意"でなく"不手際"であることを期待している。こうしたことを盲目的に良心的に受け止めるのは、決して良いことでは無いのだが。

僕は、「愛をください」の予告は一切見なかった。エンディングテーマの"ZOO"が途切れると同時にテレビを消していた。不意にスポットCMが流れたりすると、目と耳を急いで塞いだ。予告を見たという仲間には、「絶対言うなよ。」と酒の席ですら念を押していた。黙っていてもどこかのメディアから飛び込んでくる毎節の"題名"にすら目を背けた。全部を"生まれて初めて目にするもの"として受けとめたいと思った。連続ドラマの次回予告というのは不思議なものである。小説を読む前にあらすじを読むようなものであり、僕には何の必要性も感じられない。視聴者をつなぎ止めるための重要な手段でありながら、本当にのめりこんでいるヒトには、直感を尊重するヒトには、まるで無用なものであると思う。とはいえ、最終回の直前のことである。書店で平積みにされていた「愛をください」の小説本を大学生風の女性が手に取った。売れているのかな?などと思っていると、彼女は真っ先に最後の何ページかをめくりだし、しばらく読むとそのまま戻して立ち去った。現実も確かに僕の身近にある。

実態だけを見て、本質だけを感じて、自分だけで見極める。それだけだと思う。気に入らなければ離れるまである。それは僕とて同じことだ。そうしたことの重要さを教えてくれたのも、僕にとってはエコーズである気がしている。

エコーズの復活に予告編は要らない。


 

ECHOES 001 : ECHOES復活 @ (2000.09.09)


− エコーズはライブをやります、ちかぢか。
− あっ、これ言っちゃいけないの?
− エコーズって言っちゃいけないの?
− エコーズって言っていいんだよね。
− エコーズ、やります。
− で、詳しくは18日ぐらいに発表できる予定なので...
− これ、多分はじめていま公で言ったんですよ。
− エコーズは解散から12年ぐらいたってるんですけど、
− ライブをやります、緊急ライブを。

    ( 2000.09.08AM / 辻仁成 )



- 関連項目 -
愛をください 005 : ECHOESの復活と完結 / ZOO B


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