文久二年(1862)8月21日、薩摩藩主島津忠義の父島津久光の一行400人の行列が帰路の途、生麦にさしかかったとき、神奈川方面から馬に乗った婦人を交えた4名のイギリス商人と出会いました。 4名のイギリス人は、薩摩藩の行列を見たい(一説には川崎大師に行く途中だったとも言われる)と見物にやってきたのですが、行列の先導者の制止にもかかわらず、言葉が通じないため行列に突っ込んでしまいました。 行列の警護の武士により、イギリス人4名は無礼を働いたとして刀で切りつけられ、負傷しながらも神奈川方面に逃げましたが、4名のうちの1人リチャードソンという人が、現在の「生麦事件の碑」の辺りで落馬し、追いかけてきた警護の武士にとどめをさされてしまいました。 これにたいして、イギリスは、幕府と薩摩藩に対して謝罪と賠償金、犯人逮捕と処刑ならびに慰謝料の請求。 しかし、幕府は要求に応じたのですが、薩摩藩は要求に応ぜず、逆にイギリスとの戦争に備え軍備を増強したのです。イギリスはこれ以上の話し合いはむだと判断、軍艦を鹿児島に向わせ文久三年7月戦争がはじまったのです。 これが生麦事件に端を発した薩英戦争です。この戦争では、お互いに多くの損害が出ましたが、決着のつかないままイギリス軍は横須賀に引き揚げることになりました。 その後薩摩藩は、島津忠寛の仲介で幕府から2万5000ポンドを借用して支払い、ここに一年半に及ぶ生麦事件は決着したのです。 これを機に、薩摩は一気に開港へと政策を転換し、倒幕、明治維新へと5年間でこの大革命を成し遂げました。 |
生麦事件発生現場
発生現場には普通の民家があり、その塀に看板がかけられています。
生麦事件の碑
明治十六年、鶴見の黒川荘三がリチャードソンの死を悼み、
事件の風化を防ぐために私財を投じてこの碑を建立。
石碑
一部が欠けています。
もろくなっていますので絶対、手を触れないでください。
生麦事件参考館
18年にかけて集めた生麦事件に関する国内外の資料140点あまりを展示している私設の資料館。
「生麦事件の碑」のところに案内図があります。