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上原作和編著『竹取物語事典』ハイパーテクスト版

★項目『日本国語大辞典 第二版/全十三巻』(小学館、2000〜2001/語誌草稿/1998.06.06 Up Date)、

★★項目 増補補訂(2002.04.09 New Up Date)

Version.03

★★ う うどんげのはな 優曇華の花

 かぐや姫がくらもち(新井本・「くらもり」)の皇子に命じた求婚難題物「蓬莱の玉の枝」の異称。くらもりの皇子が、玉の枝を偽造して、かぐや姫の家にこの玉を入れた櫃を運んでいた時に発せられたのが「『くらもちの皇子は優曇華の花持ちてのぼりたまへり』とののしりけり」であった。そもそも注釈書によっては両者ともに別物と考える説もある。「優曇華の花」は三千年に一度だけ咲くと言う幻の花で、極めて稀な事の比喩として用いられる。『源氏物語』「若紫」巻には「優曇華の花待ち得たる心地して深山桜に目こそうつらね」の和歌がある。この本文に『河海抄』は「『天台』云、優曇華三千年一現。現即金輪王云々、『抄』に『翻訳名義集』に曰く『優曇鉢羅、此云瑞應』また『般泥●経』に『源氏物語』『閻浮堤内有尊樹王。名優曇鉢樹有金葉世乃有仏』と名をひけり」などと施注し、「玉の枝=優曇華」訛伝説を採っている。優曇華を流布させたのは、『法華経』であるらしく、巻一・「方便品」に、優曇華が三千年に一度咲く花であり、その時、仏陀、転輪聖王が出現すると言う記述がある。

 また、『うつほ物語』「内侍のかみ」巻で、朱雀帝が藤原仲忠に弾琴を促した時、仲忠は「『蓬莱の(おうふう本では「蓬莱・悪魔国」と校訂)悪魔国に不死薬、優曇華取りにまかれ』と仰せられるとも、身の堪えむに従ひて承らむに、……」と見えるので、身を侵してまで取りに往かねばならない幻の宝物であるのが「不死薬である優曇華」であることが分かる。悪魔国は、後出の金剛太子説話を踏まえた、帝と仲忠の応酬の原拠『大乗毘沙門経功徳経』「善生品第二」に見える「惡風吹いて則ち、羅刹鬼の嶋に吹かれ浮かび行く」が照応するか。言うまでなく「羅刹鬼」は悪魔のことである。金剛太子説話からの理解では、幻の海上国・蓬莱への途上に悪魔国が存在することになる。

→★ ふ ふじやく 不死薬

→★ ほ ほうらいのたまのえだ 蓬莱の玉の枝

参考文献

奥津春雄「蓬莱の玉の枝考」『竹取物語の研究−達成と変容』(翰林書房、2000年)

上原作和「今昔竹取説話は古態を有するか−−『竹取物語』の表現構造」『研究講座・竹取物語の視界』(新典社、1998年、初出1989年)

上原作和「金剛大士説話と朱雀帝・仲忠、問答体説法の方法について」『光源氏物語の思想史的変貌−《琴》のゆくへ』(有精堂、1994年)

★★ お おきなとし七十にあまりぬ 翁「年七十に余りぬ」

 竹取の翁が、貴公子の妻問いに際して、決して結婚しようとしないかぐや姫に業を煮やして発した言葉。「七十歳」は『律令』の規定から、賦役を課されるのが六十九歳までであるとして、「致仕」の齢であろうとする説もあるが、室伏信助説に、「古希」の語源となった、杜甫の「曲江」詩「人生七十年古来稀なり」を出典とする説が提案されている。

 また、この竹取の翁の年齢は物語内に齟齬があって、「八月十五夜」の晩、月からやってくる天人からかぐや姫を警護するくだりの地の文には「翁、今年五十ばかりなりけれども、物思ふには、かた時になむ老なりにけると見ゆ」と見える。これは三人称の語り手の言葉として真実と認定すれば、前者の翁の「七十歳」は時間軸に照らして誇張表現となる。また、この後に翁は天人に向かって「かぐや姫を養ひたてまつること、二十余年になりぬ」とも述べている。五十歳を信ずれば、かぐや姫発見時の翁は三十余歳と言うことになる。また、物語の大枠の時間軸に関しては、五人の求婚が、継起的、不断に、三年毎、繰り返しなされたと計算しなければなりたたない架空の時間軸である。このように、この物語の《語り》の機構には、虚構の語り(=騙り)の時間意識《けり》と、物語世界の大枠を縁取る時間意識《たり》とで弁別していると見なす他はないのである。

参考文献

室伏信助『竹取物語/角川文庫ソフィア』(角川書店、2001年)

上原作和「絶望の言説−『竹取翁物語』の物語る世界と物語世界」「解釈と鑑賞」(至文堂、1999年01月)

★★ つ つきのかおみることはいむこと 「月の顔見ることは忌むこと」

かぐや姫が八月十五夜を前に憂鬱そうに月を眺めていることから、かぐや姫の家の家人(ある人)から発せられた言葉。白楽天の「贈内」に見える「莫対月明思往事、損君顔色滅君年」を踏まえている。往事を思いつつ、月を眺める行為は、女性の容色を衰えさせるというのである。

参考文献

芳賀繁子「かぐや姫の昇天と不死の薬−−その白詩受容の可能性」「日本文学/特集・『竹取物語』の視界」(日本文学協会、1990年05月)

★ つ つばめのこやすがい 燕の子安貝

『竹取物語』でかぐや姫から求婚者から出された難題物の一つ。「石上中納言には、燕の子安貝、ひとつ取りて賜へ」「燕、子産まむとする時は、おをささげて七度めぐりてなん、産みおとすめる。さて、七度めぐらむおり、子安貝は取らせ給へ」と見える。

 本来、燕は佐渡や和歌山に残る民間伝承に、生殖の神秘力を備える安産の象徴の鳥とされていた。また、子安貝は宝貝の一種で、この貝の形状が女性器に似ていることから、古代人にとっては生殖の神秘力があるものと考えられており、妊婦が出産の際に握りしめていると安産になるという信仰があった。さらに子安貝と宝貝からの連想も働いて、財産と子孫の繁栄をもたらす海彼からの霊鳥として、燕が結びつけられ、『竹取物語』の求婚難題譚にもちいられたものと思われる。

参考文献

三谷栄一『竹取物語評解』(有精堂、増補改訂版1988年、初版1956年)

上坂信男『竹取物語全評釈古注釈篇』(右文書院、1988年)

 

★ は はんちく(「ふちく」とも)班竹

 「博物誌」に見える「舜崩じ、二妃啼きて涙をもって揮ふに、竹尽く斑とな」っているこの竹は日本では「菅家文草」十一願文「源大夫閣下(能有)先妣伴氏周忌法会願文」に「染竹」として見えている。さらに、一時期『竹取物語』の原拠かとも目されたチベットの民間説話『班竹姑娘』でも、物語の後半部では、「班竹」が重要なツール(=道具)としての役割を果たしている。

 そもそも、「班竹」は、別名として「湘竹」「湘妃竹」「文竹」「染竹」などがある。その話柄の起源は、尭舜伝説とされ、舜の湘妃が、帝の死によって悲嘆のあまり湘水に身を投げた際、涙が竹に振りかかって、湘水の班点の残る「湘竹」が生じたとする故事がその始発であるらしい。また、唐代伝奇「鶯鶯伝」(別名「会真記」)には、恋人の鶯鶯が張生に「文竹の茶臼一個」を贈っているが、この「文竹」も、鶯鶯の涙が竹に染み通った涙痕の比喩的表現であり、鶯鶯の悲しみの象徴として象嵌されていること、言うまでもない。日本では「菅家文草」に「染竹の余涙」として見えているのが初例である。また、先に紹介したチベットの民間説話「班竹姑娘」は、昭和の第二次世界大戦時に南下した日本軍兵士の語った竹取伝承と、当地に伝播しつつあった「班竹」の民間伝承とが合成されたものと考えられる。

参考文献

三谷栄一『竹取物語評解』(有精堂、増補改訂版1988年、初版1956年)

 

★ ひ ひねずみのかわごろも 火鼠の皮衣

 『竹取物語』に見える、求婚難題物のひとつ。田中大秀『竹取翁物語解』に引く『神異経』等に見える漢籍の火浣布の記述と物語の記述は微妙に齟齬することから、これは中国古代の伝説上の動物・火鼠と、物語成立当時流行していた貂裘に想を得て、実際に九世紀後半には高位の者だけに使用が制限されていた、渤海渡りの黒貂の裘(かわごろも)に、当時火色と呼ばれた深紅色のイメージを加えて空想化、神秘化させ、遥かに鮮美で貴重な火鼠の裘とした点に特色がある。

参考文献

奥津春雄「阿倍御主人の人間像−火鼠の裘の成立」『竹取物語の研究−達成と変容』(翰林書房、2000年)

 

 ふしのくすり 不死の薬

 我が国の道教受容にともなう仙薬への関心は早く『万葉集』巻五・天平三年(七三〇)の梅花宴の「故郷を思ふ歌」二首に「雲に飛ぶ薬」と見える。他に『万葉集』には「月の変若水(をちみず)」が若返りの水として歌われている。このように、死への恐怖感は、中国伝来の本草学に学び、知識層の薬物観が形成されるに及んで、これが不老長寿の実践として月への観想と仙薬を求めさせることとなった。実際、仁明天皇には、玉石類を調合した丹薬の服用が確認されており、こうした時代の風潮が『竹取物語』の不死薬を生みだしたと思われる。また不死の観念は霊場としての富士山とも結びつき、地名起源説話ともなった。さらに『うつほ物語』の「内侍のかみ」に「蓬莱の山へ不死薬取りに渡らむこそ、−略−、その使に立ちて、船の中にて老い」と見えて、不死薬を求めて蓬莱を目指した徐福伝承を詠んだ白楽天の「海漫々」を踏まえた会話がなされている。したがって『うつほ物語』では、「蓬莱の玉の枝=不死薬」と考えていたことが分かる。

→★★ う うどんげのはな 優曇華の花

→★ ほ ほうらいのたまのえだ 蓬莱の玉の枝

参考文献

小嶋菜温子「もえる不死薬−仁明天皇と道教」『かぐや姫幻想−王権と禁忌』(森話社、1995年)

増尾伸一郎「《空を飛ぶ薬》考」『万葉歌人と中国思想』(吉川弘文館、1997年) 

 

★ ほ ほうらいのたまのえだ 蓬莱の玉の枝

 『竹取物語』の求婚難題物の一つで、蓬莱山にある不老不死の薬となる玉の枝のことである「くらもちの皇子には、東の海に蓬莱の玉の枝といふ山あんなり。そこに銀を根とし、金を茎として、白き玉を実としたる木あり。それ一枝折りて給はらむ」「竹取の翁申し給ひし蓬莱の玉の枝を、一つの所あやまたず持ちておはしませり」以上『竹取物語』。さらに『うつほ物語』「内侍のかみ」に「蓬莱の山へ不死薬取りに渡らむこそ、童男、艸女だに、その使に立ちて、船の中にて老い、『島浮かべども、蓬莱を見ず』とこそ嘆きためれ」と見えている。

 そもそも、『史記』始皇帝本紀に見える、徐福が東南海中にある幻の蓬莱山に不死の薬を取りに行ったものの、大鮫に邪魔されているとの虚言に発した伝承が、さらに白楽天の「海漫々」によって文人間に広まり、具体的には『列子』の玉樹に学び、蓬莱山に群生する玉の枝となり、これが不死薬と結びついて創作されたものであろう。『竹取物語』の、蓬莱山訪問譚の創作は、こうした中国からの伝承に加えて、「蓬莱山蒔絵袈裟箱」などの唐絵に見える、亀に背負われた蓬莱山に松鶴を配した神仙的な構図をもとにしつつ、物語では海に直接浮かび、金銀の水の流れる峰高い幻の島を創作したものと考えられる。また『竹取物語』では解釈に諸説あって判然としない、三千年に一度咲くと伝えられる優曇華の花との関係は、『うつほ物語』でも「吹上」下巻では「帝『仲忠がためは、夫子の位効なしや。蓬莱の悪魔国(前田家十三行本では「蓬莱のくさこく」角川文庫の校訂に従う)の不死の薬の使としてだにこそは、宣旨逃れがたさによりて渡れれ。ともかくもあれ、仕うまつれ』と仰せらる」と見えて、同一のものとして認識されていると見做し得るが、「内侍のかみ」巻では優曇華の花と蓬莱の不死薬は並列されつつも弁別されており、『うつほ物語』作者の理解・享受の一例として考えられる。また「国譲」の巻には、鶴亀に松を配した蓬莱山の州浜の飾り物が見える。

→ ★★ う うどんげのはな 優曇華の花

→★ ふ ふじやく 不死薬

参考文献

奥津春雄「蓬莱の玉の枝考」『竹取物語の研究−達成と変容』(翰林書房、2000年)

上原作和「金剛大士説話と朱雀帝・仲忠、問答体説法の方法について」『光源氏物語の思想史的変貌−《琴》のゆくへ』(有精堂、1994年)

渡辺秀夫「前期物語と漢詩文《漢文述作と物語》−−『竹取物語』を中心に」『源氏物語と漢文学/和漢比較文学叢書12』(汲古書院、1993年)

 

★ ほ ほとけのみいしのはち 仏の御石の鉢

 『竹取物語』の求婚難題物で「石作の皇子には、仏の御石の鉢といふ物あり。それを取りて賜べ」と見える、釈迦が終身重用した鉢のこと。

 契沖の『河社』では、この出典を『南山住持感応伝』とし、釈迦の成道の時、四天王が鉢を奉ると、釈迦はそれを重ねて押し、一つの鉢として終身これを用いた故事を伝えている。また『大唐西域記』では波刺斯国の王宮にこれが伝えられているともある。また『高僧法顕伝』にはこれが約四リットルほどの容量があり、雑色にして黒が多く、光沢があるとし、『水経注』には現在も西域にあって紺青で光っているともある。ただし、近世『竹取』注釈書に見える『南山住持感応伝』は契沖以来誤伝が継承されており、『法苑珠林』巻三八に見える道宣著の『宣師住持感応』が正しい書名である。

参考文献

山口敦史「竹取物語の出典としての『南山住持感応伝』について」「九州大谷国文/24」(九州大谷女子短期大学、1995年)

 

★ り りゅうのくびのたま (成語としては「りゅうのあぎとのたまをとる」が著名)龍の頸の玉

 『竹取物語』の求婚難題物では「龍の頸(くび)の玉」と見えるが、「頸」は『竹取物語』作者が『荘子』に見える「頷(あぎと)」を「五色に光る玉」との関連から脚色したのであろう。実際に「正倉院宝物」の「種々薬帳」に「五色龍歯(ごしきのりゅうし)」と称される、波状の稜と、淡青の筋の入った二五センチあまりのインドからもたらされた石薬が伝えられている。これはかなり進化した化石象の臼歯であり、鎮静剤として使用された。『竹取物語』の難題物に「龍の頸に五色に光る玉あり」と見え、正倉院の石薬が「五色龍歯」と称されることの関連性は重要で、中国伝来の伝承をもとに、この臼歯の形状から「五色龍歯」と名付けられた奈良時代の石薬が、さらに平安の物語に脚色して取り込まれたものと考えられる。

参考文献

『ドキュメント正倉院 2000年の扉が開かれた』(日本放送出版協会、1991年)

 

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