Last Up Date 2002.12.01          

日記を物語る 2002年11月INDEXホームに戻る             


11月29日(金曜日)

快晴。明治大学の「論文演習」は「手紙を書く」。先日、印刷しておいた各人の手紙を読む。きちんとした書式の手紙などは書かなくても済む時代なのかもしれません。村上龍の『Eメールの達人になる』(集英社新書.2001)を紹介する。午後は青山学院女子短期大学へ。文学史は『更級日記』物語憧憬と夢の物語、講読は「蜻蛉」巻へと進みました。講義終了後は、恒例のクリスマスツリー点火祭。 今年もたくさんの参加者があった模様。もう冬ですね。

11月30日(土曜日)

快晴。白百合女子大で『浜松中納言物語』を読む。『白氏文集』の引用に統一を図りました。


11月01日(金曜日)

創立記念日と学園祭準備で全日休講。ふたつの出版社と連絡を取る。本を出していただく時、自分の書いたものが流通することの意味をあらためて考える。良質で研究史的に価値のある研究を提供しなくては、という原点に立ち戻った、そんな一日でした。

11月02日(土曜日)

所沢の松井公民館で古典に親しむ会『源氏物語』「初音」巻。そして本日、この地に引っ越して丸十年を迎えました。学園祭休みの日を利用してこの地に引っ越して来たのです。思えば、中心的存在のお父さんの癌による急逝、親しかったおばあちゃんの死、くわえて忘れもしない大火事あり、ご近所の喧嘩の仲裁ありの、山あり谷ありの十年でした。みなさんに可愛がっていただき、八、九月は異例の二ヶ月連続のゴミ当番を申し出たりしました。今では近隣の苦情受付かがりのわたくしです。

米子の原豊二さんからお電話を頂戴する。彼の発見した「礼儀類典」が脚光を浴び、地元のNHKへの出演はもとより、朝日、毎日、読売、山陰中央等の各紙に記事が掲載されているとのこと。09月も拙宅にお寄りいただき、伍芳さんのコンサートへ行ったり、僕の琴の朝練につき合ってくださった原さん、今度、その出演ビデオを見せていただくことになりました。まだ、各社「鳥取地方版」のウェブ上で閲覧できるはず、ぜひご覧ください。

完本の写本見つかる「個人宅所蔵珍しい」県指定文化財・河本家住宅

 「水戸黄門」の名で知られる徳川光圀が編纂(へん・さん)した朝廷儀式の記録書「礼儀類典」の写本が、赤碕町箆津(の・つ)の県指定文化財・河本家住宅の土蔵内から見つかった。個人宅に同書が所蔵されているのは極めて珍しいといい、1日から始まる河本家の秋の公開にあわせて初展示する。「礼儀類典」は全515巻。光圀の命によって編纂作業に着手し、死後の1710年に朝廷に献上された。平安時代以降の朝廷の年中行事や有職故実などを色つきの絵図とともにまとめてある。調査にあたった原豊二・米子高専専任講師(国文学)によると、今回、見つかったのは1冊も欠けていない完本の写本で、全国でも15部しか確認されていないという。河本家は江戸時代に代々大庄屋を務め、1688年に建てられたかやぶき家屋が現存する。どのような経路で同書を入手したのかははっきりしないが、目録の余白に小さく「300両」と記されており、幕末の動乱期に没落した大名や生活に困窮した公家が手放したものを仲介業者から買い求めたとみられる。原講師は「公家や大名など一部の特権階級だけが目にしていた『礼儀類典』を、地方の大庄屋が手に入れようとしたことが興味深い。当時の河本家の経済力とともに、文化的水準の高さがうかがえる」と話している。公開は4日まで。午前10時〜午後4時(4日は午後3時まで)。入場料は一般300円、生徒・学生は無料。(11/1) 某有力メデァより。ゴメンなすって。

11月03日(日曜日) Special Thanks 108,000 Hits

文化の日にちなんでひたすら『源氏物語』を書く。朱雀院と女三宮の出家の描写は「〜作法、悲し」と類型化した文法があるようです。もし、これを指摘している研究者がいるようでしたら、お知らせださい。

11月04日(月曜日)

快晴。五島美術館に本日最終日の『紫式部日記絵巻』を見に行きました。最初に来たのも、各地に分散しているこの絵巻をすべて揃えた、昭和60(1985)年の秋、萩谷ゼミの企画だったと記憶しています。あれから17年、早いものです。「左衛門の督、『あなかしこ、このあたりにわが紫やさぶらふ』とうかがひ給ふ。『源氏に似るべき人もみえ給はぬに、まいていかでかものしたまはむ』と聞き居たり」とある「源氏に似るべき人」は、「絵詞」と『花鳥余情』所引の本文で、黒川本では「源氏にかゝるべき人」とあるのを校訂しているのです。ご存じでしたね?。 そういえば、先日の抜き打ちテストで罰ゲームを指名された明治の一年生には一人も会えなかったけれど、レポート大丈夫でしょうね。

11月05日(火曜日)

『うつほ物語』『源氏物語』『紫式部日記』に見える漢籍の受容史を書く。この問題は、『うつほ物語』の「蔵開」巻に鍵があるようですね。

11月06日(水曜日)

快晴。埼玉県行田市内の県立高校。生徒減がひどく、三年前は146名の生徒が現在70名になり、三年後に市内三校と合併が決まっているとのこと。うち進学希望の14名に進学のためのお話。終わると一気に南下して東京インターで神奈川方面へ。暮れなずむ山の端に、ぽっかりと薄い輪郭だけが美しく輝く三日月を追いかけながら、多摩川大橋を駆け抜ける。東京の、都会の秋の夕暮れも決して捨てたものじゃありません。

11月07日(木曜日)

小学館のコミック文庫担当編集者からお電話を頂戴し、諏訪緑先生の『うつほ草紙』を文庫化するので一巻目の「解説」を書いて欲しいとのこと。喜んでお引き受けする。来年二月に全巻発売とのことです。お楽しみに。

来週、14日木曜日、日本大学国文学会主催の特別講義に出講します。タイトルは「源氏物語・少女巻 琴の世界 実演と講義」《時、9:00〜10:30、ところ、223教室(2号館の2階)》。阿部好臣先生の講読のスペシャルバージョンと言うことで、早起きして、みなさん御来聴あれ。

11月08日(金曜日)

久しぶりの金曜日講義の週。明治大学「論文演習」は『大学生のための日本語』最終回。ディスカッションの仕方。分析的に観察して、これを言葉にするという、簡単のようでむつかしい作業を上手にこなせるようになりました。午後は青山学院女子短期大学へ。メインストリートの銀杏も色づき、独特の香りも。文学史は浮舟物語で『源氏物語』を終え、来週レポート、講読は「東屋」巻の薫と浮舟の物語。来週の日大のために琴を弾く。講読は後期から履修する人もいるし、こちらのレポートで楽器を取り上げた人もいたので、丁寧に解説する。「もうお香はたかないのですか」という一文もあったので、それも実践。でも、ハンカチで口元を押さえていた人もあったので、次回はみんなの意向を聞いてからと言うことに。

11月09日(土曜日)

南波浩先生編の『紫式部の方法 源氏物語・紫式部日記・紫式部集』(笠間書院、2002.11.15.\8800)が完成しました。装丁がすばらしくおしゃれで研究書のブックデザインとしては記憶の中でも最高のうつくしさ。章毎に解説も付けられており、編集委員のみなさんのご苦労がしのばれます。また、その執筆陣の豪華さ。先般の学会でも、今後同じメンバーを揃えることはむつかしいのではないかと言う声が挙がるほど錚々たる顔ぶれの力作論文が並びます。編者の久保田孝夫さんからもお電話を頂戴しました。ぜひ御高架をお願いしたいと思います。

南波先生には、生前、拙い『竹取物語』関係の論文をお送りし、あまつさえ、古本『竹取物語』の所蔵者と、その尋ね方までご教示頂いたことがありました。1994年、同志社大学で行われた中古文学会で先生に「ぐんしょ」に書いた『竹取』の古筆切の論文をお渡しできました。小柄ながらお洒落な先生の謦咳に接したのはその時一回だけ。そんなわたくしの拙い論文「ある紫式部伝−本名・藤原香子説再評価のために」を先生の御霊前に捧げます。

11月10日(日曜日)

木曜日の早朝、お隣のお父さんが心臓発作で倒れられ、その葬儀に出席。親も子も我が家と同世代ゆえにただただショック。午後は、ひたすら原稿に向かう。命が明日尽きても悔いが残らぬような仕事を遺しておきたいと念じます。

11月11日(月曜日)

こちらも久しぶりの月曜日の明治大学。「国語」は森田芳光監督の『それから』を見る。日露から第一次大戦の間の物語であることを前提に、こちらも久しぶりの月曜日の明治大学。「国語」は漱石の森田芳光監督の『それから』を見る。日露から第一次大戦の間の物語であることを前提に、漱石とその時代背景を考える。「論文演習」は『大学生のための日本語』こちらも最終回。AV棟の中でもとりわけ最新鋭の機材を揃え、この春、○千万円を懸けたという教室の機材が機能せず、副手さん、さらに専門の技術者にまで来ていただく。すばやい対応でロスタイムは五分程度で済みました。さすがにサポート体制は万全です。原因は、不良のビデオテープであることを検知した機材が、自動的にストップしていたものと判明。やはり最新鋭は凄い装置ですね。学生諸君も、僕らの対応や機材の高性能さに興味を示してくれたようでした。帰り道、視聴覚の鍵を返し忘れたことに気付き、別の用事を済ませたあとに引き返すと、もう11時。この時間ともなれば守衛さんはすっかりくつろいでおられ、ランニング姿でおやつを召し上がっておいででした。 時代背景を考える。「論文演習」は『大学生のための日本語』こちらも最終回。AV棟の中でもとりわけ最新鋭の機材を揃え、この春、○千万円を懸けたという教室の機材が機能せず、副手さん、さらに専門の技術者にまで来ていただく。すばやい対応でロスタイムは五分程度で済みました。さすがにサポート体制は万全です。原因は、不良のビデオテープであることを検知した機材が、自動的にストップしていたものと判明。やはり最新鋭は凄い装置ですね。学生諸君も、僕らの対応や機材の高性能さに興味を示してくれたようでした。帰り道、視聴覚の鍵を返し忘れたことに気付き、別の用事を済ませたあとに引き返すと、もう11時。この時間ともなれば守衛さんはすっかりくつろいでおられ、ランニング姿でおやつを召し上がっておいででした。

11月12日(火曜日) Special Thanks 109,000 Hits

霞ヶ浦を左手に土浦郊外の高校へ。広い前庭の印象的な学校でした。二つの大学と一短大の先生・広報の方がお見えでした。夕方は、渋谷の『うつほ物語』の会へ。来週はレポーター。準備をしないと。

11月13日(水曜日)

来週までに二冊の本の見通しを立てねばならず、連日出版社から催促の電話を頂戴してパニック状態です。くわえて、遺稿集の索引の方も三回忌に間に合わせるとなるともうギリギリ。明日の日大の講義はそれらが全部片づいているという目算だったのに。深夜まで練習を繰り返しました。

11月14日(木曜日)

日本大学文理学部で国文学会主催の特別講義(レジュメは昨年度のもの)。前半は琴の奏法、音楽史との関連を話して、後半は乙女の巻にポイントをしぼるという編成。やや調子に乗りすぎて「陽関三畳」の韻をへたな中国語で歌い出してしまい、すぐにやめる。昨年よりも中身は濃かったけれど最後の余興は失敗。でも完璧にかっこよく極めすぎるのも僕らしくないような気もするので、それはよしとしましょう。お世話になった日大の阿部先生他、院生、学生、来聴のみなさんに感謝しています。ほぼまる一年を経て頂いた昨年度の感想も暖かい友情すら感じられました。萬謝。

11月15日(金曜日)

明治大学「論文演習」は「手紙を書く」。コミュニケーションツールとして、今回は手書きに挑戦していただきます。午後は、メインストリートの銀杏が美しい青山学院女子短期大学へ。文学史は『更級日記』、講読は「浮舟」巻の浮舟・匂宮の物語へ。宇治十帖は架橋に入りました。夕方は慶応で『小右記』の会。黒板先生の奥様・永井路子先生の「朝日新聞」の読書欄の連載記事は次回で二回目になります。

11月16日(土曜日)

物語研究会で、青山学院総研ビルへ。銀杏並木を見下ろせる絶景の会場はやや狭く感じるほどの熱気がありました。コロンビア大学を拠点とした海外の研究者の発表に耳を傾ける。こんどの機関誌にその模様が掲載されるというのも画期的なこと。総じて、海外の日本研究者の方がオーソドックスな方法論を採っているんですよね。

11月17日(日曜日)

米子の原豊二さんから、『徒然草古註釈書慶安元年初版本 鉄槌/CD−ROM版』を頂戴しました。美麗な影印に、原さん、助川さんの論文が収められています。萬謝。

11月18日(月曜日)

快晴。明治大学。「国語」は『それから』最終回。ラストシーン、みな息を潜めて真剣に見入っていました。「論文演習」は「手紙の書き方」。基本的な書式も今では形骸化して、あまりピンと来ないようです。「冠省」「匆々」「かしこ」「御許に」の位置までチェック。数年前、清泉の0Gで、女子校の先生から頂戴した「ご機嫌よう」はある特定の空間のみで生成される貴重な言説史ということなのかも知れません。そこで試みに、書簡体が基本構造の『愛と死をみつめて』を見る。昭和30年代、学生の父母よりもう一世代上の時代の青春です。演習終了後、女子学生から「先生は、吉永小百合フリークなんですか」と金曜日に続いて質問される。一年次の『伊豆の踊子』『細雪』と彼女なのだからやはりそうなのかもしれません。今まで自覚はなかっただけのようです。

11月19日(火曜日)

やや混乱気味に明治のデータベース室(こんな便利なところがあることを金曜日まで知らなかった。不覚です。ご存知の先生も少ないらしい)で、書類の作成を終え、國學院の『うつほ物語』の会へ。僕がレポーターだったのですが、担当箇所を前四行飛ばしていることが判明して来週の宿題に。「触穢」についてはかなり詳しく報告したつもりですが、「産養」の担当者についてはこれも宿題に。やはり、外に出て自分の位置、調査作業の精度を相対化すると言うことが大切ですね。要は恥をかくことをおそれてはならないということでしょう。来週も(は)がんばります。

11月20日(水曜日)

快晴から曇天へ。申請書類をバタバタとまとめたとりとめのない、しまりのない一日。こんな日もありますよ。

11月21日(木曜日) Special Thanks 110,000 Hits

長野県須坂市内の高校へ。はじめて長野新幹線に乗り、佐久平駅のそばの僕の実家が至近距離に見えることを知る。長野電鉄は高校二年生の時、放送部の友人と長野吉田高校へ来て以来、23年ぶり。応接室が校長室を兼ねており校長先生自らお相手をしてくださいました。講話終了後は、きりっと背筋の伸びた学年主任の先生がお茶を入れてくださいましたが、校長先生すら赴任して始めてこの先生にお茶を入れていただいたという稀なことであったらしい。それぞれの論理や秩序があるのですね。帰りがけの須坂駅は雪がちらついていました。

11月22日(金曜日)

外気は師走の気候と天気予報。明治大学の「論文演習」は「手紙を書く」。書簡作法を伝授しました。提出期限を守りましょう。午後は、青山学院女子短期大学へ。文学史は『更級日記』の侍従大納言の娘の死と生まれ変わりの猫の話を中心に、講読は「浮舟」巻の浮舟入水譚。講義終了後、専攻科の「日本史」の講義で発表資料として提供されたお手製の「三日夜の餅」のご相伴に預かる。昨年度の僕の講義参加者でしたが、レジュメは『源氏物語』「葵」の巻を敷衍した内容で、この一年の成長に充実した気持ちになり、帰宅して中村義雄先生の『王朝の風俗と文学』(塙書房、1964年)を再読しました。

11月23日(土曜日)

池袋のメトロポリタンホテルで、萩谷先生のゼミ・大学院の同窓親睦会、先生の御住所にちなんで赤堤会と言う。故池田亀鑑博士の親睦会は、これも萩谷先生の命名による桐葉会と言うのだそうです。先生もお元気で何よりでした。また、先生の御本で唯一未購入だった、『平安朝文学の史的考察』(白帝社、1966年・東京帝国大学に提出された卒業論文)を手に入れることが出来ました。しかも先生のサイン入りで。またま家宝が増えました。また、学界未発の貴重な文献を入手されて御教授くださった書道学科の高城先生(学部時代の同級生)には、感謝と畏敬の念あるのみです。この書道学科、定員50人に専任スタッフ10人という、国立大学でも及ばない、今時信じがたい垂涎の好環境。しかも、斯界の著名作家・研究者が揃っています。また、現役最前線の教育関係者の先輩方ともお話しができ、うれしく、懐かしい一日となりました。

11月24日(日曜日)

銀座、表参道と回り、紅葉に秋を惜しむそんな一日でした。

11月25日(月曜日)

かつて憂国忌と呼ばれていたこの25日は、記憶の中ではいつも快晴が続いていたのに今日は雨。明治大学。「国語」は『mishima』。夏休みの課題で取り上げた人も多いので逆に情報にムラがあるようですね。「論文演習」は「手紙の書き方」。『愛と死をみつめて』最終回。時間配分がうまく行かず約十分昼休みに食い込みましたが、誰一人席を立たず、主人公の死を看取っていました。

11月26日(火曜日)

運転免許証の書き換えで午前中は終わり。夕方、渋谷で『うつほ物語』の会。産養の研究はまだまだわからないことだらけです。

11月27日(水曜日)

横光利一研究の保昌正夫先生が亡くなられたので、『七十まで−ときどきの勉強他』(朝日書林、1995年)を取り出して、先生がゆかりの文人を偲ぶときに好んで使われていた「散読供養」をする。印象的な文章を書き出してみる。「初めて大学の非常勤ということになったのは、早稲田大学の教育学部で、(略)昭和四十一年のことで、四十一の年だった。いまから考えてみると、ようやくその年で、という思いがあり、そらにそんな自分だったということも振り返られる。(私の文学と教育−非常勤の話)244頁」同じ文章には、僕が講義に参加していた母校のことについても触れられておられ、「ここには大学院もあって、私どもの先生であった稲垣達郎氏などが寄って、ここの大学院を作られたのではなかったか。この雑談は非常勤の話で、大学院の話ではないから深入りするつもりはないが、私学の文学系の大学院は、それを作った先生たちが居なくなると、その実質を維持してゆくことはたいへんで、ただ大学院が在るということだけになりかねない。院生を世間に通るようにしてゆくのは容易なことではないと、手伝いに出向いていて、あらためて考えさせられる。私の若い同僚で都立大の大学院の手伝いに週一回、出講している人がいるが、その人の話でも院生達への非常勤としての対応は微妙だ、という。どこまで切り込みをつけていってよいか、慎重、気苦労を要するというのだ。わかるような気がする。248頁」。「大学院が在るというだけ」だけではなく、「院生を世間に通るようにする」気概を持った先生にめぐり逢えた幸運を改めて知った本日、僕は三十代最後の日。亡き先生の本を紐解きつつ、また明日が来るのを待つのである。

11月28日(木曜日)

明日の講義ふたつが「手紙」に関するものなので、十二年前の「朝日新聞/朝刊/声欄」を翻刻してみました。なお、真ん中の女性の名前は差し障りがあるので、伏せさせていただきます。

一九九〇年七月二一日 土曜日  白紙の便せん                   前橋市 原田種成 大学講師 七九歳

白紙の便箋(びんせん)が一枚余分に入っている手紙が時々届く。なぜそうするのかと聞くと、「手紙の書き方」という本にかいてあるからという。調べてみると、「便箋は二枚以上に書くように。もし一枚のときは白紙を添える」とあった。

いつごろから、そんなムダがはやり出したのだろうか。巻紙で手紙を書いていた時には、ありえない。紙のムダ遣いが問題になっている今、まっ先に廃止すべき悪習である。

 これは祝辞を長々としゃべったあと、簡単で失礼てたします、と言うのと同じく時代遅れの最たるものだろう。祝辞やスピーチは短いのが喜ばれる。手紙もまた、要件を簡潔に書くことが尊ばれる。 「手紙の書き方」の著者は、早急に書き改めて欲しい。

一九九〇年七月三〇日 月曜日  二枚目の「白紙」は意味あってのこと        茨城県 会社員 ○×▲代 二四歳

二十一日付本欄に載った手紙に添える「白紙の便箋」について。なぜ添えるのか、という問いに対して、一番簡潔な答えは「礼儀」と申すのが適しているかと思われます。

 便せん一枚で用事をすませる代表が、「離縁状」や「果たし状」のような、相手との決別を宣告する書状だったのです。

 ですから、便せん一枚だけを送ることは、相手に好意を持っていない、と受け取られる危険があったため、白紙を添え、「私はあなたに好意を持って、この書状を送るものです」との意思を表していたのです。

活字離れの進む若者ならいざ知らず、ご高齢の方から、このような意見が出るとは憤慨の極みです。森林資源を思う高潔さも、理にそぐわぬ無知から生じたのも興ざめです。

 「白紙」一枚を添えるか、添えない個人の意思次第で自由とされているようですが、「白紙」に意味が込められていることを忘れて欲しくないのです。

一九九〇年八月九日 木曜日 平安時代の名残で今では無駄な白紙         東京都 大学教授 萩谷 朴 七二歳

七月三十日付本欄で「二枚目の『白紙』は意味あってのこと」を書いておられた○×▲代さんに説明いたします。

 平安時代に封筒はありませんでした。懐紙一枚に消息文を書いて、それと同じ紙を白紙のまま礼紙(らいし)として包んで、封をしたものです。

 封筒が使われるようになった現代、便せん一枚の手紙を失礼と考えて、白紙を添えるのは、平安時代の礼紙の形を残したものですが、平安時代の礼紙は、包装の実用性があったのに、封筒を用いながら、礼紙を添えるのはまったくのムダというものです。

 私は古典の講義のついでに、このムダな紙の浪費をやめ、紙パルプ用の木を切ることを少しでも防ぐようにと話しています。

 考えてみますと、封筒を裏返しにして再生利用した節約の時代もありました。どうぞ紙を大切にする気持ちを忘れないでください。

注 原田先生は、僕の大先輩に当たる漢学の泰斗。あの『大漢和辞典』の基礎稿作成の中心人物。『漢文のすすめ』(新潮選書)参照。また、近年では大学の先生は70歳が定年ですが、かつて僕の母校は専任が73歳、大学院講師は無制限でした。。。ちなみに原田先生は現役のまま逝かれたのでした。

 今日は、埼玉県白岡町の高校へ。僕の総合講話のあとは、大学が母校の広報部長、短大がなんと青短の広報部の方。応接室では進路指導の先生が情報収集怠りなく、かなり率直な質問をなさっていらっしゃいました。


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