『枕草子』への招待

森は、

浮田の森。

殖槻の森。

磐瀬の森。

立ち聞きの森。

107段

森は、

殖槻の森。

岩田の森。

木枯しの森。

転寝の森。

磐瀬の森。

大荒木の森。

たれその森。

くるべきの森。

立ち聞きの森。

ようたての森といふが耳とまるこそ、あやしけれ。森などいふべくもあらず、ただ一木あるを、なにごとにつけけむ。

193段

物語は、

住吉。

うつほ・殿移り。国譲りは憎し。

埋れ木。

月待つ女。

梅壷の大将。

道心すすむる。

松が枝。

狛野の物語は、古蝙蝠探し出でて持ていきしが、をかしきなり。

物羨みの中将。宰相に子生ませて、形見の衣など乞ひたるぞ憎き。

交野の少将。

198段

T 『枕草子』の「森」と「物語」

 なぜかは知らないけれども、『枕草子』には、「森は」章段が都合二回綴られている。挙げられた森のうち、そのいくつかが被っている。「殖槻の森」と「磐瀬の森」、「立ち聞きの森」がそれであり、くわえて「浮田の森」と「岩田の森」のような音韻相通の類聚もあるが、これらはいずれも当時詠歌の必携書であった『古今和歌六帖』所収の「歌枕」が中心であり、この論理は、「大和に始まって山城に帰る「求心回帰性」にある」と言われる{萩谷朴『新潮日本古典集成』説、以下倣之}。これらには、清少納言がじかに彷徨ったこともあって知悉していたであろう地名の連想もあれば、言語遊戯的に「磐瀬{言わせ}の森」、から「立ち聞きの森」へと連結させたものもあることなどが推定されるが、いずれにせよ、その章段構成の論理は、執筆後、1000年を経た今日の我々の感性とのずれと、地名そのものがことごとく当時と異なるという条件下にあっては、もはやその感性の回路そのものを突き詰めることじたいに限界があるともいえよう。

 とりわけ、後者の章段には「ようたての森」に対して随想が加えられており、『蜻蛉日記』にも登場する、京都府相楽郡木津町付近の森のことについて、「森」というのにはふさわしからぬ「一木」しかないところであるのに、何ゆえ「森」というのか不審であると述べているから、このあたりは徘徊したことがあるようで、その生涯そのものが謎に満ちた、清少納言の行動範囲を測定することが出来る貴重な言説であると言うことになる。

  ついで、「物語は」の段を眺めると、同姓の清原俊蔭の物語である『うつほ物語』を第一に挙げており、他の段にも、俊蔭の孫の藤原仲忠とライバル・源涼、ふたりの物語の主人公についての優劣論争が定子後宮で繰り広げられたエピソードや{「かへる年の二月廿余日」78段}、「仲忠が童生ひ、いひおとす人と『郭公、鶯に劣る』といふ人こそ、いとつらう、憎けれ」{「賀茂へまゐる道に」209段}とも表明していることから、彼女の仲忠贔屓は中宮定子をはじめ後宮の人々にも夙{つと}に有名であったらしい。ところが、摂関政治を活写したかのような「蔵開」「国譲」の巻には拒否反応を示しているのは、しじんが遭遇した、御堂関白・藤原道長と中関白・藤原道隆の政権争奪の永かった闘争の現実が脳裏を去らなかったからなのであろうか。

 道長によって中の関白家が完膚なきまでに叩きのめされ、政治的な発言権を封殺された後、中の関白家のプリンセス・中宮定子じしんまでもが皇子出産後に25歳で早世している。『枕草子』では、長徳二年{996}藤原道隆の三男・伊周と、四男・隆家が花山院に矢を射るという、いわゆる「花山院奉射事件」によって失脚したことをターニングポイントとし、これ以前の記事を前期章段、以後の時系列に連なる最終記事までを後期章段を呼び習わしている。

 ちなみに長保二年{1000}の定子薨去の記事は見られず、後期章段には滅び行く後宮の悲哀はいっさい描かれない。むしろ「笑ひ」と「をかし」の世界が、冒頭の「春はあけぼの」と同じ語りのフレームで繰り広げられていることは、すでに私も述べたことがある{「《笑ひ》と《をかし》語りのフレーム」参照}。

 類聚的章段をこのように限定的に考えて見るだけでも、本来、「をかし」の文学とされるこの草子そのものが、実は悲哀の文学としての相貌を内に秘めているという、『枕草子』というテクストの本質が見透かされてくる気はしないだろうか?

U 『枕草子』のなりたち

 『枕草子』は平安時代に書かれたものとしては唯一の随筆文学である。そもそも、随筆文学の定義は難しいのだけれども、こと『枕草子』の構成からすれば、従来はこれを日記的章段、随筆的章段、類聚的章段と三分類してきたわけで、これらの要素を含むテクストを「随筆文学」と呼びならわしてきたようである。

 これに対し、萩谷 朴は、このグループの分類概念の曖昧さを批判し、日記的章段、を「回想的」章段に、随筆的章段を「随想的」章段に、類聚的章段を「類想的」章段と改めているので、本ページも原則としてこの分類にしたがって行くこととしたい。

 その執筆動機が「跋文」の冒頭に記されている。

 この造紙{さうし}、目に見え、心に思ふことを、「人やは見むとする」と思ひて、つれづれなる里居のほどに、かき集めたるを、あいなう、人のために便なきいひ過ごしをしつべきところどころもあれば、

「よう隠し置きたり」と思ひしを、心よりほかにこそ、漏り出でにけれ。

 つまり、「つれづれなる里居のほどに」「目に見え、心に思ふことを」「かき集め」ていたが、それは執筆時から「『人やは見むとする』と思」っていたというのであるから、当然公開が前提であったということになる。「跋文」を丹念に読むまでもなく、清少納言は、このテクストの読者として、宮廷の同僚、および貴顕までを想定して書いたというわけである。

 そもそも、この造紙は、藤原伊周が一条天皇の中宮定子に献上したものであったが、中宮が清少納言に「帝の御前では『史記』を書いたということだけれど、私のところでは何を書いたらよいかしら?」とお尋ねになったので、彼女が「『史記』=しき=敷」に引っ掛けて「『枕』とするのはいかがでございましょう」と、機知で切り返したところ、中宮が「それならあなたが何かお書きなさい」と仰って下賜なさったので、「いとものおぼえぬ言ぞ多かるや」と婉曲的な表現ながら「あれこれと書き散らしたので、こんな草子が出来たなんてこともよくある話よね」いうエピソードとして書き留められているのである 注@

 時代は下って、兼好法師は『徒然草』の冒頭に、これは「心にうつりゆくよしなしごと」を書いた草子であると宣言していて、構成もやはり『枕草子』の影響を受けていることは誰しも見とめるところで、その文学ジャンルは、作者のモチベーションという意味においては、極めて個的・内発的な執筆動機が発端ということになるだろう注A

 『枕草子』はこのように、古来から文人に育まれ、永い享受の歴史がありながら、膨大なエネルギーを費やしてなされた注釈に関しても、新説が出るとかならず反論が出され、諸説紛々としていまだ決着を見ない、戦国時代的テクストであるといえよう。注B

 また、感性も叙述方法も、物語の言説とはまったく異質な世界が繰り広げられていることも、あまり広く人々に浸透しているとは言えないような気がしている。

 このような、断片的な小さな物語の類聚である、『枕草子』の世界の一端に触れてみようというのが、本ページのささやかな願いなのである。以降、断続的に増補予定。

2000年09月09日 重陽の宴/2001年04月25日改訂

注@、ただしこの「枕」には、「歌枕」の類纂とするもの、書籍を枕とする故事をあげるもの、色々の錦を敷き重ねた冊子を想定するもの、歌語「しきたへのまくら」から馬具の鞍褥{しき}と馬鞍{まくら}の関係をこの機知に応用したものとみる説{萩谷説}などがある。

注A、ところで、この跋文は、テキストの三巻本本文からしていくつかの自己矛盾を抱えており、また対立する伝能因所持本も難解な本文であり、問題点を解決できる叙述を保有しているわけではなく、『枕草子』そのものの、跋文論はいまだその論争に決着がついたわけではないというのが現状である。

注B、ただし橋本治は『枕草子』の注釈書に関しては「『踏み込んだ解釈をするか』か『あまり解釈をしない』の二者択一」しかなく、「『踏み込まないことが良識ある態度』という不思議な風潮」を指摘して『新潮日本古典集成』を『桃尻語訳枕草子』の底本にした経緯を記している。萩谷朴『語源の快楽』{新潮文庫.2000.08.01/解説・橋本治}。