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『シュヴァンクマイエルの世界』でもちいたとある訳語について

(2004.01.19)

 先日メールで、『シュヴァンクマイエルの世界』に出てくる「manipulace」という語に、どうして「不正操作」という訳語をあてているのかというご質問をいただいた。

 この言葉(訳語)については、以前からどうもひとり歩きしているように感じられるところがあったし、また(ネットなどをみていると)ときにある種の疑念(?)が表明されていることも目には入っていた。

 それにたいして、たとえばこのホームページのなかで、あるいはほかの媒体で、訳者としてなんらかのコメントをすることも考えなかったわけでもないが、いったんその訳語を選んだ以上、へんに言い訳めいたことはしたくなかったので、いままではその説明は差し控えていた。

 パブリッシュされたものなのだから、批判したければしてもらってかまわないし、もしほかにいい訳語があると思えば、それを使えばいいだけのことで、なにもこれにしたがう必要はないとも思う。

 というわけで、今回もはじめは個人的にご返事するだけにしようかとも思ったが、いい機会でもあるので、どうしてそのような解決法を取ったかを(言い訳もふくめて、あくまでも参考のために)ここに書いておくことにする。


● さて、この「どうして」については、なによりもまず、問題の「不正操作」なる言葉に訳註をつけてある点をご確認いただきたい(p. 32)。じつをいえば、この註を読んでいただければ、もうそれ以上の余計な説明は必要ないはずだと思っていたし、いまもその考えは基本的にはかわらない。あえてここに全文を引くことはしないが、「どうして」にたいする必要最低限の説明はすでにしてあるつもりなのだ。この点を最初にいっておきたい。

 そのうえでだが、一般論としていっても、訳者がわざわざ訳語について註をつけるのは、その選定にかなりの迷いがある場合ではないかと思う。「manipulace」に「不正操作」をあてるのには、じつのところ、かなり迷いがあった。決して積極的なものではなく、あくまでも仮にそう訳しておく、といったニュアンスのものにすぎない。だからこそ、あのような訳註をわざわざつけ、その問題のありかをはっきりと説明することにしたわけだ。この時点で、いわば手の内はすべてみせているつもりなのだが、いかがだろう。

 それに関連していえば、この本をつくるさい、つくり手の解釈はできるかぎり入れないようにしようと、すくなくとも個人的には思っていた。だから、この種の註は本当なら省きたかったのだが、この訳語については、やはり留保が必要だと判断したので、あえてあのようなかたちにしたわけだ(「本書ではこの意味を際立たせるために(……)」)。

 それにもしこの言葉について、訳註がなかったら、あるいは、あっても「英語では「manipulation」にあたる」という補足説明がなかったら、はたして訳語の選定についての「どうして」などという疑問が浮かんだのだろうかと逆に思わなくもない。わざわざ英語をもちだしている(原文はチェコ語なのに)ということは、その部分については読者に判断を委ねているということでもあるわけだから、その点はご理解いただきたい。

 以上でこの問題について基本的は回答はしたつもりでいる。ともかく、もう一度、その註をきちんとお読みいただきたい、ということだ。それでもご理解いただけない場合、はたして以下のような説明にどれほどの意味があるかはわからないが、ご関心のある向きもあるだろうから、つづけて、訳語を決めるまでのプロセスを記憶をたどりながら書いていこうと思う。


● 「manipulace」がシュヴァンクマイエルの芸術観・世界観を理解するキーワードのひとつであることはまちがいないだろう。ところが翻訳という作業を進めていくときに、これを日本語にするとなると、ぴったりするものがみつからない。「manipulation」を英語の辞書で引いてみればいい。「操作」「巧妙な取扱い」「巧みな操縦」「ごまかし」「改竄」「あやつること」などなどとあるが、たとえば、つぎのような文章のなかでぴったりするものがあるだろうか。

<ファウストは、ロマン主義的な巨人でも反逆者でもないし、犯罪者でもほとんどなく、manipulace の対象となって悲劇的な立場(役柄)におかれ、そこで死ぬまで忠実に演じていく「偶然の」人間なのだ。(……)ひとは manipulace されてファウスト(反逆者ファウスト)の悲劇的な立場におかれ、この manipulace にたいしては反抗さえしない。>

 いろいろ考えた末、「操作」か「あやつり」ととりあえず訳しておいてはどうかと考えもした。だが、たとえば、うえの最初の個所にそれをあてはめて、「操作の対象となって」としてみると、やはり何かが欠けているというか、舌足らずのように思えてしまう。

 相当する英語のカタカナ表記、すなわち「マニピュレーション/マニピュレート」をあてることも考えられなくもないが、はたして一般の読者に理解してもらえるだろうか。この本は学術書ではなく、シュヴァンクマイエルの映画を、まずは理屈抜きに楽しんでしまうような人たちを対象にして構想された。たとえば渋谷のレイトショーに行って、マニエリスムだ何だというまえに、まずはおもしろがってしまおうというような人たちに、すんなり読んでもらえるようにしたかったのだ。

 つけくわえれば、当時は、まだシュヴァンクマイエルはそれほど知られてはおらず、だからこそ、その幅広い活動について「紹介」するためにこのような本が企画された。こう書くとなにやら矛盾するようだが、(担当編集者いわく)シュヴァンクマイエルが知られていなかったため、出版社内でこの企画がなかなか通らなかった、という事実があるくらいだ。

● それはともかく、この「manipulace」の意味あいについても、ひとことふれておいたほうがいいだろう。それが神様なのか運命なのか、あるいは、ほかのなんらかの力なのかはともかく、「当人の意志を越えた何者か」によって「あやつられている」状態をあらわしている、ととりあえずいってよいかと思う。

 当然のことながら、あやつられていても、あるいは操作されていても、かならずしも悪いことばかりではない。神様が思わぬ幸運をもたらしてくれることだって、「manipulace」のひとつだろう。

 しかしながら、シュヴァンクマイエルにあっては、それが「問題」としてとらえられていることに注目していただきたい(「これは現代のアクチュアルな問題だと思う。」)。しかも「悲劇的」な結末にいたる状況を照らし出すものだ。とすれば、さしあたって――つまり、「対象読者」や「紹介」に必要な「わかりやすさ」を考慮すれば――、そのよからぬ側面に光をあてたほうがいいだろうと判断した。訳註に「何者かに“不当に”あやつられている」と書いた理由もそこにある。

● それでは、最終的にはどのような訳語にすればいいだろうか。舌足らずなものでもなく、わかりにくい外来語でもなく、へんに説明的なもの(「不当にあやつられていること」など)でもない、文章にぴったりはまる言葉。

 どんな言葉を候補にしたか、あるいは造語したかは憶えていない。たしか「不当操作」というのはあったように思う。正直なところ、この段階までくれば、ある程度明確に上記のような内容が説明できる言葉であれば、なんでも(たとえば「不当操作」でも)よかった。

 そうこうしているうちに、とある辞書に出ていた「不正操作」という言葉が目に止まった。マニピュレーションの訳語としてすでにあるものなら、これを転用できないものかと考えた。もちろん、ほかの分野ではある具体的な意味内容をしめす用語としてもちいられているのだから、ここでそれをあてはめるのは、“自由な”解釈ないし理解にもとづく“不当な”使用法ではないかといわれれば、そのとおりと答えるほかない。もしかしたらミスリーディングにみえるかもしれない。しかしながら、言葉としての「据わり」や照らし出す側面――対象のおかれた状況をよからぬ方向へ変えてしまうということ――を考えると、かならずしも悪い方法とはいえないのでは……。

 そこでとりあえず、いまあるのと同じ訳註をつけたうえで、これを訳語とする解決法を取ることにしてみた。ここで思い出していただきたいのは、本は著者や訳者ひとりがつくるものではないという点だ。原稿はかならず編集者という、いわば最初の審判者の目を経由するし、とすれば、当然その意見や見解がこちらにかえってくる。だから、この解決法についても、原稿を読んだ編集者がどうとらえるかに判断を委ねることにした。断わっておくが、これは責任を編集者に転嫁するということではない。あくまでも作業のプロセスを説明したにすぎない。

 結論だけをいえば、この解決法にかんするかぎり、何も指摘はなく、その結果「不正操作」のままにすることにし、現在のようなかたちになった、というのがことの次第だ。「どうして」についての答えはこれで十分だと思うが、いかがなものだろうか。なお、章のタイトルに「不正操作」をもちいることにしたのは、わたしの考えではない(かならずしも編者がすべてを決定できるわけではない)。

 解決法が何であれ、はじめに書いたように、それがよくないと思えば、べつの言葉で読みかえて(いいかえて)もらえればいいと思う。そのあたりはご自由にしていただいてかまわない。さらにいうなら、この点についてご意見をお持ちの方は、ふさわしいと判断する訳語を是非ともご提案いただきたいと思う。

 だが、しかし、本音をいえば、こちらが予想していた以上にこの言葉が注目を集めてしまい、その点にはいささかおどろきもしたし、また正直なところ、慌てもした。上記のように、訳註をみていただければ、おおよその意図は理解してもらえるものと思っていたが、それがだいぶ甘い考えだったことを思い知らされたのも事実だ。これに関連していろいろ思うところもなくはないが、これ以上長くなっても何なので、とりあえずこのへんで終わりにしたい。(これでいいでしょうか? こういうのって、やっぱり何をいっても言い訳になってしまうのだよなあ。)





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