「太龍寺(捨身山)本尊虚空蔵 寺六ケ所寺中ノ妙寿院ニ壱宿 三月廿八日ニ」
「白水山平等寺 本尊薬師 なかの郡 是より薬王寺へ七里」
「医王山薬王寺 本尊薬師 堂八間四面 ひわさ(日和佐)村寺の下弥五兵衛殿に壱宿 是迄阿波分廿九日朔日
ニ(四月1日までに)二夜泊ル ししくひ(穴喰)迄九里 同所ノ万右衛門殿に壱宿 四月二日 是より三里
程行のね(野根)浦五郎右衛門殿に壱宿 卯月三日晩 ししくひ迄」
「阿波分 此所にて切手を改 是よりこ坂を越え土州御領分に入 かんの浦(甲浦)土佐ノ御番所 往来の
切手ヲ改 即書替 出のねの境にて右の書替ニ裏書出 野根村より下三つまで九里 此この間にふし越番所
有 是より壱里余りハとび石はね石て難所有 九里の間ハ海辺也 下ミつ村(下三津村・室戸岬町高岡漁港
辺り)仁衛門殿ニ壱宿
三月(四月の誤記)四日晩下ミつ村より東寺ニ廿町 此間大あな二つ 壱ハ東天照太神 壱ツハ五社建立
あ□まん(阿弥曼)権現ト号 □過之れい水(不過之霊水)」
下三津村から最御崎寺への海岸に二つの海食洞、東天照太神(神明窟)と五社(御厨人窟・みくろど)が
ある。大師は御厨人窟で悟りを得たという伝承があり、司馬遼太郎さんは「空海の風景」で、「明星が確か
に動いた。みるみる洞窟に近づき、洞内に飛び込み、凄まじい衝撃とともに空海の口中に入ってしまった。」
と表現している。「空海が空海になった」瞬間だ。
「有 是を亡者ニたむけ申候 □て寺の後ニ岩穴有(土佐東街道を右に折れて最御崎寺に上る山道の途中の
観音窟・一夜建立の岩屋)奥に入事六七間 本尊如意輪観音石仏也 龍宮より上り給ふ石ノづし也 脇立ハ
仁王両ノとびらニ天人のうきぼり 悉石也 是より東寺迄七町 坂ヲ上ル阿州之分 廿三カ所」
「東寺室渡山最御崎寺(室戸山) 明星院 本尊秘仏ノ虚空蔵 寺領百石寺二ヶ所」
讃岐の白峯寺では大師が幼少期に「捨身ノ御誓い」をしたこと、出釈迦寺では「此所テ大師求聞持クリ初之
所也」と書いているが、最御崎寺については触れていない。「明星求聞持」の寺とは認識していなかったの
か。あるいは「悟りを開いたのはお大師さんの出身地の讃岐」というのが元禄四年の通説だったのだろうか。
山号は「明星院」、空海の口に飛び込んだ明星のことだ。
「宝珠山津照寺 院号ハ真言」
「院本尊地蔵是より西寺迄一里」
「西寺龍頭山金剛頂寺(龍頭山)院号ハ光明院 本尊薬師 寺領八十石大伽藍也 是よりなはり(奈半利)
西ノ小町迄五里 此間ニはね石トテ難所有 海辺也 則はじきムラ(羽敷村)西ノ小町 てい雲ト云比丘尼
ノ所ニ泊ル 卯月五日晩也 此札所にくわつ貝(食わず貝・唐浜の漁師が大師に貝を差し上げなかったので、
食えない石貝に変わったという伝承がある)有也」
「神峯寺(竹林山)本尊十一面 あき郡たうの浜村(安芸郡田野原村) はしき村西ノ」
「町より秋浦迄七里 同浦ノあき(安芸)浦ノ太郎吉殿に壱宿 卯月六日ノ晩」
「大日寺(法界山)本尊大日如来 かミの郡(香美郡)大谷村 秋浦より上野田村七里 同浦吉太郎殿ニ壱宿
卯月七日晩ニ」
「国分寺(摩尼山)本尊千手 行基の作 長岡郡国分村 是より一之宮へ壱り半」
「壱ノ宮(百々山善楽寺)本尊阿弥陀 長岡郡一ノ宮村 是迄壱里半」
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