「四国遍路覚」原本
The original of "Shikoku Pilgrimage"

土佐 五台山竹林寺から蹉陀山金剛福寺

「高知城下一見入海三里 扨も見事也けい(景)其外言語ニ不被尽 松平土佐守様弐拾四万石也 卯月八日ニ
 通ル五台山へ弐里」 
「五臺山竹林寺 本尊文殊 行基ノ御作 長岡郡院号ハ金色院」 
「禅師嶺寺(八葉山)本尊十一面 長岡郡十市村迄壱里半 麓の磯辺壱ツ屋庄九郎殿ニ壱宿 卯月八日ノ晩 
 是より高福寺へ壱り半」

「高福寺(高福山雪雪蹊寺)本尊薬師 長岡郡長浜村」 
「種間寺(本尾山)本尊薬師 漢土ノ人之作 阿川郡高福寺より弐里」
「清瀧寺(医王山)本尊薬師 高岡郡高岡村 たね間寺より弐里半 清瀧寺より壱里半 つかち
(塚地)村の
 利左エ門殿に一宿 卯月九日晩 是より坂道にかかる 是より弐里半」
「青龍寺(独鈷山)本尊不動 高岡郡龍村 いのしり
(井尻)へハ舟渡 舟賃」

「四文 荷物いのしりニ置青龍寺参往来壱里 いのしりニ戻り三里舟ニ乗 舟賃三分よこなミ(横浪)ニ上る」

 内ノ浦湾をまたぐ橋がなかった当時、宇佐町宇佐から井尻へは舟で渡った。川幅約400mで船賃4文。
 井尻に荷物を置いて青龍寺に参拝して、井尻から舟で浦ノ内湾を西へ進み、須崎市浦ノ内横浪に着岸した。
 「横浪三里」で船賃3文。値切ったのだろうか。この日記で金銭の話が出るのはここだけだ。
 できれば宿泊費や食費も知りたいが、書いていない。

 当時は遍路の費用はほぼゼロに近かったようだ。阿波藩の文書には遍路の9割が路銭を持っておらず、
 それが当時の社会問題にもなっていたことが記されている。宿泊・食費をとらない「善根宿」や寺院が
 遍路を支えていた。もちろん全く無料ではなく、わずかな「燈明料」を置いていくのが礼儀だった。
 「お接待」の文化だ。

 ともあれ、土佐の波荒い外海から守られた美しく波静かな内ノ浦湾を舟で渡る安堵感は格別だったと思う。


「五社(藤井山岩本寺)本尊阿弥陀 右ハ薬師地蔵左ハ観音不動 五社共ニ秘仏 御作のよし 是よりあし
 すり
(足摺)迄廿壱里五社ノ前久太夫殿ニ壱宿卯月十一日 五社より八里行 いたむら(伊田村・黒潮市
 伊田)
ノ弥兵衛殿ニ泊ル 卯月十二日晩 いた(伊田)より市ノ瀬村(土佐清水市市ノ瀬)迄六里」

「市ノ瀬ノ六左衛門殿に壱宿 足摺迄七里」足摺岬まで行けばゴールは近い。

「蹉陀山金剛福寺 院号ハふだらく院 本尊千手観音 はた
(幡多)郡七不思議有 龍とう(龍燈)天とう
 天燈)
本堂ノしらす(白洲)ニ有
 ゆるき石(揺るぎ石)有 ふそうふけん
(不増不減)の水有 龍ノ篠(篠竹は)牛馬ニ薬 丑の刻ニりうの
 駒
(龍の馬)来て此篠を喰 しほのみちひ(潮の満ち干)ノ石有
 三古ノ石有 大師天竺より三古ヲ御なけ被成候
(お投げになられた)時此石ノ上ニ留ル かね(鐘)ノ石有
 是ハ龍宮より上ル 打ハかね
(打てば鐘の)音いたす」 

「熊野権現ノ前有大師壱夜建立ノ石ノとりゐ 是ハあまのじゃく夜の内ニ鶏ノまねヲ仕ニ 日□立不申
(天邪鬼が朝を告げる鶏の鳴きまねをしたが、朝にはならず、大師は一夜で鳥居を建立された)
 あいまん
(相満)ケ瀧法まん(法満)ケたき 大師法しゃう(法性)の塔有 是ニハちごなと(稚児など)
 出家ニ成時くろ髪納候所也 大神宮の御社午の刻ニ雨ふる所有 本堂ハ十弐間四面 脇立ハ不動毘沙門 熊野
 権現ノ社三ツ あいせん
(愛染)明王ノ社 九重ノ塔 本尊大日 けはい(気配?)地蔵 白山権見坊ハ八坊
 寺領百石 扨も見事のけい筆ニも尽かたし 足すり
(足摺)まで八里(七里の誤り)足すり」

次へ