| 「クリ初之所也寺求聞持院ト云」 「大師が求聞持法を繰り初めた所であるから、この寺を求聞持院という」と、大師幼少時の捨身求聞伝説に 触れている。 「甲山寺【医王山甲山寺】本尊薬師 堂三間四面 寺壱ヶ所 貧地也 是より善通寺拾町」 「善通寺【五岳山善通寺】本尊薬師 社頭五間四面、拝殿十間四面 いはい(位牌)堂弐間半ニ七間 客殿ハ 十一間ニ六間 居屋九間ニ四間 庭□(前)四間ニ三間 本堂ノ前ニ不開ノ門有 寺ノ前ニ本門有 家数不 知言語難尽 是より金毘羅弐里 麓ノ町有 町より十八町上候」 善通寺の次に金毘羅宮へ参拝している。 |
| 「社頭寺中之趣難延筆舌 社領三百三十石 御朱印地国主より三十石」 金刀比羅を信奉する高松藩の松平頼重は社領を加増し、正保4年(1647年)には社領を御朱印地とすることが できた。公式には330石だが、伊勢神宮の5千石、東大寺の2千石と同レベルの財力を持っていたと思わ れる。 「小松尾山金興寺【金毘羅宮別当寺金光寺か?】麓ノ伝左衛門殿ニ一宿 三月十七日ノ晩 源ノ□□ヲ祝申由ニ 候」□□は人名と思われるが、読めない。 三重野悌次郎氏は町史に「金毘羅宮別当金光寺か?」と書いている。順路から判断しても氏の指摘通り、 金刀比羅宮の麓にあった別当寺「金光院」だと思われる。松尾寺とも呼ばれ、金毘羅宮の参詣・社領の運営 拠点だった。宥辨(ゆうべん)真念が定めた札所にはない寺だが、一圓一行は当然のようにここに参詣してい る。明治の神仏分離で廃され、現在は寺としては存在しない。 「鶏足山金蔵寺【鶏足山金倉寺】本尊薬師知証ノ作 寺一ヶ所 堂五間四面 いはい(位牌)堂弐間ニ三間 つり鐘堂有 是より道隆寺壱里」 「道隆寺【桑多山道隆寺】本尊薬師大師ノ御作 昔は十二坊天台真言両派」 |
| 「今ハ堂三間四面 社頭有寺一ヶ所 丸亀城下京極備中ノ守様御領六万三千石山城 御屋敷ハ下ニ有」 「仏向山道場寺【仏向山郷照寺】本尊阿弥陀鵜足郡宇足□□□□(津村□□)ニテ三拝ノ弥陀 弘法大師之 御作 六寺ノ名号有ト云供実ハ遊行上人之御筆也 此寺持宗(時宗)ノ堂 三間四面ノ寺也 小舎也四 国中ノ貧地也」 |
| 「崇徳天皇【金華山天皇寺】本尊十一面 金蔵山妙成就寺 院号摩尼□□(不動)堂社頭寺伽藍也 天皇ムラ 新左衛門殿ニ壱宿三月十八日晩」 「国分寺【白牛山国分寺】本尊千手 大師一夜建立 堂拾間四面 □□内ニふけん(「寺境内に普賢」と思わ れる。当時は普賢菩薩像があったのだろうか)大伽藍 雨降りし故一里半程行 国分寺ノ後ノ山ノ下茂左衛 門殿ニ一宿 三月十九日ノ晩ニ」 「白嶺寺【綾松山白峯寺】本尊千手あやた(綾歌)郡青海村 上り五十町下り五十町 堂塔カラン四ケ所不被 延言語ニ(言葉で表現することができない)」 |
| 「本堂より北ニ児獄(稚児ケ滝)とて百余丈ノたき有 延宝年中ニミな月(水無月)のそら 後ノ備州屋すな 郡そね原(備後の国安那郡曽根原)ノ 宝泉氏ノ寺ノ雲織(雲織という名の僧)年十八高祖ノいときなき捨 身ノ御ちかいおやまなひけん 此たきよりとびおりけるニ(弘法大師の幼い頃の捨身の誓いを深く敬い敬っ たのであろう。この滝から身を投げた。) 嶺ノ□□□□て仏すくひ給ひける(すると、峰の上にお立ちに なった仏が、その身をお救いになった) 崇徳天皇ノ御塔も有 日本国之神を祝所有也」 稚児嶽には崇徳上皇の陵墓がある。保元の乱で敗れて讃岐に流され、長寛二年(1164)に没した。後白河院 は「服喪の儀なし」としてその死を無視した。四年後に西行が白峯陵を訪れている。上田秋成は西行と崇徳 上皇の霊との出会いを安永五年(1776)に出版された小説「雨月物語」の一篇「白峯」に仕立てている。 「根香寺【青峯山根香寺】本尊千手観音 堂社不及申(申すに及ばず)あやた(綾歌)郡」 |