「四国遍路覚」原本
The original of "Shikoku Pilgrimage"

三重野悌次郎氏の原文書き下し文は「 」内に黒字、判読不明文字は□
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  豊後伊美浦から伊予大洲へ 
  「四国遍路覚」は半紙を縦長に折り、更に二つ折りしたものを紙縒りで和綴じにした冊子に書かれている。
  サイズは横22.5cm・縦15cmで、ちょうど菊版の本を横にした大きさだ。
  旅に携行して、毎日札所の寺や宿で記帳したようだ。そのためか表紙と裏表紙は特に傷んでいる。
「元禄四□(干支)辛未天 四国遍路覚 二月二十五日 矢野□吉」

 一圓の本名が残っているのはこの日記だけで、千燈寺の過去帳には「半右門父」、墓石には「一圓」と刻まれ
 ており、俗名は記されていない。名前の部分が破損しており判読が難しいが、「左吉」のようにも見える。

「札数覚 當山の仏神 二 日天月天 二 天照大神宮 八幡大菩薩 春日大明神 由原(柞原)八幡 
 弥陀釈迦別宮八幡 三 宇佐八幡聖徳太子 二 大師遍照金剛 天子将軍国主国都 四」

「日本大小神祇 二 父母師匠六親眷属 四 祖父祖母伯父伯母 三 あこや□(阿古屋前か)新太夫 三
 ま屋婦人 有縁無縁三界ノ法界 四 両子寺法印同坊中 二 千燈寺衆徒衆 五 
 忍蔵ゟ
(より)自身家内 十六 伝右衛門家内 八 源太郎家内 八 権三家内 六 助三郎家内 五」

「四兵衛家内 三 佐右衛門家内 六 高左衛門 喜之介 権四郎 源七伝六 二 加藤平右衛門殿
 源右衛門 四 源介源四郎助右衛門 三 伝右衛門吉右衛門平七 九 十郎文右衛門村中 四 
 喜左衛門七郎兵衛 二 同行 五
 合百二十六枚 
 元禄四辛未天二月廿六日辰の一天(午前7時)に」

 
札数覚えには、豊後の寺社の他、親族、両子寺・千燈寺衆徒中、檀家などの名前、託された札数が記されて
 いる。江戸中・後期から現在に至る納め札は参拝の証の名刺代わりで、住所、氏名などを記入して本堂と大
 師堂に納めるようになっている。番外も入れて180枚は必要だ。
 一圓が用意したのは126枚で、それで足りたようだ。「寺一坊」とか「寺一カ所」という記述がみられる
 ので、江戸初期には大師堂がない寺も多かったのではないだろうか。
 一圓は神社から授与された札と、願主から委託された手書きの紙札とを持参したと思われる。残念ながら札
 の書式は残っていない。
 

「伊美浦を出舟是日へぐり(平郡)八嶋迄 廿七日九ツ(正午)時分伊予のみつくへ(三机・愛媛県西宇
 和郡瀬戸町、四国電力伊方発電所から西へ7キロにある港
ニ着 廿八日三つくへの宿十兵衛殿ニ上り申
 候 廿九日道中ニ懸り申候 三つくへよりいかた
(伊方)迄三里いかたの市郎右衛門殿ニテ茶酒ノ馳走 
 いかたよりかしのき(樫の木)迄三里 かしのきの弥助殿ニ一宿二月二十九日ノ晩 是も御番所也」
「かしのき」は八幡浜市木多付近と思われる。

「大洲御城下加藤遠江守様六万石 大づ御城下けいと
屋うかい(「生糸 糸屋鵜飼」か)と云 言語ニ難尽
 二方ハ大川かわ下ハ自念
(然)ノ山 其上ニ天志ゆ(天守)有 それゟ(より)十町斗上り 若宮村ノ
 京之介殿ニ一宿二月三十日ノ晩也」

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