恭仁宮跡・山城国分寺跡
The old site of Kuni-kyo and Provincial Temple of Yamashiro

恭仁京に都があったのは、3年ほどで、その後難波に遷り、さらに1年後には奈良に戻る。恭仁京の宮殿は山城国分寺に引き継がれた。
万葉集の「春の日に、三香の原の荒れたる墟を悲しみ傷みて作れる歌一首」
「三香の原 久邇の京師は 山高み 河の瀬清み 住みよしと 人はいへども ありよしと 吾は思へど 古りにし 里にしあれば 國見れど 人も通わず 里見れば 家も荒れたり はしけやし かくありけるか 御諸つく 鹿背山の際に 咲く花の 色めづらしく 百鳥の 聲なつかしき ありが欲し 住みよき里の 荒るらく惜しも」(万葉集巻六) わずか3年で讃歌から哀歌へと、宮廷歌人も忙しい。
大極殿跡に恭仁小学校が隣接している。木造一部二階建ての美しい校舎が今も健在だ。思えば、故郷にあった私の小学校は今はない。岩船寺の本堂再建の話も思い出し、この辺りは風土が美しいだけではなく、民度も高いのだろうと思った。     次へ