興福寺五重塔
The five-soried pagoda of Kofuku-ji Temple

奈良の象徴でありながら、明治維新の後、あやうく薪にされそうになった。革命が内包する「祭り」と「反動」の恐さは今も消えない。「アンシャン・レジーム」の精華を破壊することが革命の主要な目的の一つであり、価値を自他共に認識するからこそ、壊すことに象徴的な意味を見出だそうとするのだろう。価値が彼我いずれの主観に属するかは別にして、破壊は児戯そのものである。どこの寺のことかは知らないが、廃仏棄釈の波に雑魚のように翻弄され、仏像を叩き割り風呂の焚き木にして「仏湯」に浸った僧侶が数多くいたそうだ。
この塔の創建は、長屋王が滅ぼされ光明子が皇后になった翌年、730年で、7年後には不比等の4子が死去、10年後には広嗣が反乱を起こすなど、まだ藤原政権の基盤も定かでなかった頃である。興福寺には創建当初の建物は何一つ残っておらず、この塔も應永33年(1426年)の6度目の再建とのことだ。