
とりあえずビール 2003
First of all, beer! 2003
初日の出
- 2003年1月1日、7時17分の日の出を故郷の山上で迎えた。6時45分に家を出て、日の出に間に合うようにと、まだ暗い山道を登った。旧千燈寺、同奥の院あたりで少し明るくなった。歩く人は予想通り誰もいない。不動山までちょうど30分で着いた。中学以来の新記録だが、息が切れた。やれやれ。
蝋梅
- 1月13日、この2,3日は少し寒気がゆるんでいる。散歩道の傍らに蝋梅の花が咲いていた。名前のとおり半透明の花弁に陽の光が透けて見えた。春は近い。そういえば、今宵は近所の猫が二匹、傍若無人な声を出していた。それでも夜が更けて窓を開ければ、オリオンが傾き、冬空はまだ冷たく冴えている。
他人の幸せ
- 通勤電車で開いた文庫本に、「うれしきを何につゝまん 唐衣たもとゆたかにたてといはましを」 (古今和歌集巻第十七)という歌があった。「私の喜びはもっと大きな袂でなければ包みきれないではないか」という意味だろうか。幸せな人は平安時代にもいたのだ。お会いしたくはないが、良い歌だ。
白洲邸
- 2月22日、子供は大学受験。散歩の足を伸ばして町田市の旧白洲邸「武相荘(ぶあいそう)」を訪ねた。梅と椿がそれぞれ紅白の花を咲かせており、メジロが椿の蜜をさかんに吸っていた。もとは土間だったと思える玄関を入り邸内を拝見する。展示された焼物は伊万里が多い。錚々たる文化人がここを訪れこれらの皿に盛られた料理を食し、酒を酌み交したのだろう。サロンという意味で、奈良の志賀直哉旧邸を思い出した。邸内の部屋は一見どこも居心地が良さそうだが、無駄や隙がない空間は白洲ご夫妻が作り上げただけあって、尋常ではない。ヤワな精神では住みこなすのは難しいと思った。数寄というのは本当の大人の世界だ。
勧進能
- 3月になって奈良の興福寺さんから能のご案内があった。寺は「天平の文化空間の再構成」をめざして、中核事業となる中金堂の再建準備をしており、そのための第1回勧進能である。7月26日(土)国立能楽堂、曲目は「海士」とのこと。三省堂の「能楽ハンドブック」を見ると、「海人」は一日の最後に上演される切能(五番目物)で、山奥、水中、月世界など、異界からの来訪者を主として扱う曲目だとあった。房前、不比等の名前も見え、興福寺に関係の深い曲のようだ。夏には花粉症も鎮まっているだろうから観にいこうか。
紅と緑
- 4月23日、ツツジが咲き始めた。花の色は「浅い紫」から「冴えた赤」まであるが、葉は「冴えた黄みの緑」がほとんどだ。人事の季節も過ぎ、穏やかな気分で見ることができる。2月の梅や木蓮などは「いかにせよとのこの頃か」と思いながら見ていたが、4月には人事は公知のものになり、良くも悪くも心のざわめきはいつしか治まる。なおさらにツツジの紅と緑が目と心に沁みることになる。
5月連休
- 5月2日、最寄の駅前で久しぶりにスケッチ。スーパーのすぐ隣なのでビールには不自由しない。陽射しと風が強いが、小椋佳を聴きながら穏やかに、中島みゆきを聴きながらどんどん描く。影響されやすい性格だ。出来栄えなどは最初から問題にしていないが、あと2日ほど楽しんで描きたい。
ニセアカシア
- 5月11日、ニセアカシアの花を見た。私が通った中学の校舎のグラウンド側の窓辺の木もニセアカシアではなかったかとふと思ったが、花の記憶はないから、あるいは別の木だったか。利休梅や色合いが美しいハコネウツギ、欧米で「メイフラワー」と呼ばれる白いサンザシも咲いていた。帰りの店でごく小さな一輪挿しのような薄手の有田の湯呑を買う。花やお茶よりも、シングルモルトのウイスキーが似合いそうだったからだ。
馴染みの店
- 6月26日、今日を限りに自宅近くの馴染みの小料理の店が閉店になる。神田生まれで生粋の江戸っ子の女将さんはご長男夫婦のいる長崎に移られる。常連の友人と別れを惜しむ。16年通った店が閉じて明日から立ち寄るところがなくなると思うと寂しい。一番寂しいのは女将さんご本人だろうが、最後まで気丈に振る舞われていた。28日、散歩道のヤマモモの実が色づいている。
瀋陽夕景
- 7月20日、出張で上海から瀋陽へ。瀋陽は雷雨だった。3日間滞在したが、20日に熊本に大雨を降らせた前線の低気圧が次々と瀋陽周辺から湧いており、重苦しい天候だった。23日にマリオットホテルの隣の住宅街で地区の納涼会が行われていた。盆踊りの風情だった。
曇天の故宮
- 24日北京に入る。スモッグに覆われ、街全体が夕暮れのようだったが、やはり首都の空気はどこか違う。古い風景、たとえば洛陽であれば杜子春が佇んでいたような街区も残ってはいるが、街はオリンピックや万博を前にインフラの整備が急速に進んでいる。故宮から景山公園を見る。
煙雨の長城
- 7月26日、帰国の前に、北京市郊外の万里の長城「慕田峪長城」に登る。ロープウエイ往復券は55元だったが、障害保険費1元の券と保険証書を貰った。万一の事故の場合は最高1万元が給付されると書いてある。ロープウエイで保険ということもないだろうと思ったが、乗った後で理由が分った。ロープウエイとはスキーのリフトと同じものだった。違うのはスキーリフトの場合は落ちても足を挫く程度の高さであるが、ここでは峡谷の上を行く。感覚的に言えば箱根の大湧谷の上をスキーリフトで渡る感じである。人生で予め分っていれば決して選択しなかったはずのことがあるが、私の場合はこれが2回目だ。深い霧で足元はるかな渓谷がよく見えなかったことが不幸中の幸いだった。長城は霧にかすみ、幻想的だった。帰途は無論徒歩で下山した。約12、3分で駐車場に着き、渓谷の食堂でニジマスとサメと黄魚の料理を注文。いずれも淡水魚で、サメの視線を避けながら食す。淡白で美味。
夏の帰省
- 8月9日朝、驟雨の中を台風とすれ違うように大分に帰省した。数日前から帰っている妹と妹の長女の家族に合流。●10日、遅れた夏を取り戻そうとでもするかのような快晴。庭のクマゼミも必死に鳴いている。午前中に東の山の墓掃除。周囲の雑木を何本か切り払い、朽ちた倒木を片付ける。夕方から雲が広がってきた。●11日、義父の初盆で安岐町へ。瀬戸内海は台風の余波も消えて穏やかだ。法要の後、杵築城下の料理屋で直会。夜は寒冷前線が通り過ぎ、遅くまで遠雷の音がして寝付けない。●12日、曇。蜜柑畑でカボスを籠に摘む。家の中の不用品を整理。●13日、盆の入り。夜、隣家の友人と遅くまで飲む。今日伊美で買ったばかりの山崎を二人でほとんど空にする。●14日、強い雨の中、国東半島の中央部を南へ縦断して大分市の友人を訪ねる。帰りも雨は止まず、寒い夏が現実のものとなってきた。●15日は一転して朝から好天、暑い。午前中に伊美港と別宮社を歩く。友人に送ってもらい宇佐へ。小倉から「のぞみ」で神奈川に戻る。横浜は雨。夏休みは終った。
風蝶花
- 9月7日、散歩道に風蝶草が咲いていた。図鑑で見たらKleome spinosa、酔蝶花ともいう、とある。かなり以前に実家の裏に咲いていたが、今は見かけない。最近、休日は雑用か散歩だけにつかっていて変化がない。来週から上野の西洋美術館で「レンブラントとレンブラント派展」が始まるので見に行こうか。昨年の京都国立博物館での大規模な「大レンブラント展」とは趣を変え、物語画家としてのレンブラントに焦点をあてたものだそうだ。
マルガリータ
- 10月3日夜、遠来の友人2人と最寄駅近くのメキシカンレストランで会った。ビールとマルガリータで乾杯。店は庭先までお客で溢れていてとても賑やかだが、周囲の会話の殆どが外国語なので思考回路に入ってこない。その意味では店の前を通る小田急の電車の騒音と同じであまり気にならない。友人とは1月末以来。しばし歓談。次回は日本酒の飲める店が良さそうだ。
レンブラント展
- 10月10日午後、久しぶりに上野に行き、西洋美術館で「レンブラントとレンブラント派」展を観た。素描と油彩、レンブラント工房の作品が揃い、圧巻だった。「物語画家としてのレンブラント」がテーマだけに、聖書のさまざまな場面が展開されている。知っている物語もあるが、そうでないものも多い。異教徒の限界とあきらめ、途中から気持ちを切り替えて物語としてではなく絵として見ることにしたら気が楽になった。この看板にある「悲嘆にくれる預言者エレミア」は大作ではなく、むしろ小品といってもいいほどだが、完璧な絵だと思った。エレミアが考えているのはバビロンの捕囚の行く末のことでもあろうか。常設展示場も廻ってみた。クールベの「波」やモネの「睡蓮」も久しぶり。帰りはアメ横、人形町と決まったコース。人形町の「柳屋」で鯛焼き7匹を買う。840円也。
さいはての銀河
- 11月4日、日経夕刊にハワイ・マウナケア山頂の国立天文台の「すばる望遠鏡」で地球から129億光年離れた「髪座」の近くにある銀河を発見し、これまでの最遠記録を3百万光年塗り替えた、との記事が掲載されていた。宇宙が定説どおり137億年前に誕生したとすれば宇宙誕生後8億年の星の光が見えたことになる。興味を覚えて、子供が小学校で使っていた星座板で「髪座」を探すと、北斗七星と乙女座の間にある。5月の夜8時頃にはほぼ天頂に来る。今だと夜明け前の4時ごろ東北東から昇って来るはずだが、神奈川の空では残念ながら見えない。
オリオンの季節
- 11月21日、曇りのち晴れ。遅い帰り道で空を見上げると、オリオンがもう少しで南中するところにあった。星の見える冬になったのだ。昨日の雨の後でもあり、オリオンの左肩のペテルギウスと、大犬座のシリウス、子犬のプロキオンの大三角形もよく見える。明日は鎌倉にスケッチに行こうか、と思う。
流鏑馬
- 11月22日、報国寺の孟宗竹を描こうと出かけたが、竹林の遊歩道は狭く、抹茶をいただいた茶寮の方に訊くととスケッチはご遠慮くださいとのことで断念。瑞泉寺、鎌倉宮、荏柄天神と歩き、鶴岡八幡境内の鎌倉国宝館で特別展「建長寺」を見学。以前宝物風入のときに一度拝見した国宝の「蘭渓道隆像」は、展示替えで拝見できなかった。相国寺から出展されている風神雷神図屏風も同様。今日はついていない。ただし大覚禅師墨蹟や長谷川等伯の「猿猴竹林図屏風」を初めて目にすることができた。等伯は京都の智積寺、東京の大徳寺障壁画展と、この秋3作品に出会った。館を出ると八幡宮の70年ぶりの修復を祝う本殿遷座祭が行われており、流鏑馬の最終射的を見ることができた。今日はツイていることにしよう。八幡宮前の蕎麦屋で新蕎麦を食す。
初コート
- 12月8日、今日からコートを着る。今年の夏は秋のように冷たく、秋は夏のように暑かったが、冬はいまのところ冬のように始まっている。昨日年賀状のデザインを考えた。はがきの上半分に自作のスケッチを入れてみた。配偶者は、正月早々そんなものを目にする方の迷惑も考えろ、と言う。そういうことを気にするようだったら、恥かしげもなくこういうHPを作ったりはしないのだ。寒い冬になりそうな気配だ。
博多の夜
- 12月17日夜、中学の同窓の3人と久しぶりに会った。博多呉服町の料理店で河豚を食しながら歓談。それぞれの今のあれこれを話題に、3時間が忽ちにして過ぎた。再会を約して別れたが、次はいつになるだろうか。
千灯岳登山
- 12月28日、帰省。12月29日、晴。千灯岳に登る。子供のころから親しんだ山なのに登るのは初めてだ。8時50分出発。まず不動山に登り、尾根を南へ辿る。千灯岳とのコルには舗装された林道が横切っている。北側の稜線に取り付くと急な登りになり、大きな岩が斜面のいたるところに目立ち始める。山肌の黒い土を残雪が覆っている。10時36分、山頂着。山頂は思いのほか平坦で数十個の岩が散在し、そう高くはない木々が立っている。フリードリッヒの「雪の中の巨人塚」のような風景だ。樹木で眺望は必ずしも良くはないが、360度を俯瞰できる。北を見ると伊美谷と岐部谷が足元から次第に広がりながら海に達し、姫島が浮かんでいる。海を隔てて中国地方の山なみが見える。伊美川を隔てて西側に鷲ノ巣や西の不動の岩峰群、黒木、伊美山が迫っている。南から東には半島最高峰の両子山と文殊、小門山が西側とは対照的に穏やかな山容を見せている。11時下山、12時自宅着。
60年代の雑誌
- 12月30日、朝食後餅つき。150個ほどを作る。うち鏡餅は6つ。午後、普段は足を踏み入れない2階の掃除をしていて、1962年(昭和37年)発行の「新しい日本」という全24巻の写真誌を見つけた。父が買ったもので、東京オリンピックを前に変貌著しい日本全国を写真と紀行文で綴ったものだ。子供の頃に眺めた記憶はあるが、第5巻「近畿A奈良・三重・和歌山」を開いてみて驚いた。写真は入江泰吉、紀行文は亀井勝一郎、山本健吉、監修が井上靖だったからだ。●「奈良の都」と題された亀井勝一郎の文は3つの文章構成で、最初の「『廃墟』への愛惜」では、廃仏毀釈で廃墟と化していた奈良の価値を発見し保存のために力を尽くした人の隠れた努力を思うべきこと、復活した古寺が急速な観光化によって別の意味で廃墟になりつつあるのではないかという危惧を語っている。次の「時代背景を知ること」では奈良を知るためには「日本書紀」と「続日本紀」双方を読むことが必要で、古寺などの造形の跡をとどめないところでは万葉集を携えて巡り歩くことの面白さを説いている。●最後の「奈良八景」では氏が推薦する場所を挙げている。全て書くと、1.若草山の頂上 2.奈良坂から見た東大寺大仏殿 3.興福寺の五重塔 4.西の京の道 5.深夜の東大寺境内 6.平城京跡 7.法華尼寺の庭 8.新薬師寺の周辺、である。最後の文章は、「奈良にはまだまだ隠れた風景や、見のがされている古寺や神社や古跡が多い。出来るだけ歩いてみることだ。自分で迷いながらたずねあるき、そして自分で発見することだ。そこには必ず歴史がある。また万葉の歌の現れた場所もあるだろう。同時にそこが各人にとって、忘れ難い場所になる。」で結ばれている。●「新しい日本」はどれだけ売れたのだろうか。古書街でも見かけたことはないので発行部数はそう多くはないにしても、一般向けの普通の雑誌には違いない。真面目な時代だったのだ。楽しい発見だったが、片づけが遅れてしまった。
正月支度
- 12月31日、雨のち曇。ご近所にウラジロを貰い、昨日搗いた鏡餅、橙とセットにして半紙に乗せ神仏に供える。座敷の神棚、仏壇、水神(井戸)と竈の火の神(台所)と家の北西の庚申祠、庭の弘法大師像、の6ヶ所。玄関に注連飾りを付ける。母は神棚に松竹梅を活け、正月の準備完了。

トップページへ
To the top page
