草 枕 2011
Wandering in 2011
穏やかな日
秋冬山水図再会
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東京国立博物館 表慶館 |
サイモンとガーファンクル
桜はまだか
町田市郊外 |
大震災
高い民度
3月17日、余震の回数は減ってきたが、被災地の救助活動は困難を極めており、福島原発は予断を許さない状況が続いている。
被害が軽微な神奈川でも、水や保存食、ガソリンなどの買い溜め行動が起きている。不安解消行動が、逆に不安を増幅することが分らないか、分っていながらどうしようもないのだろう。そうであればあるほど、厳しい環境に置かれている被災地の方々の沈着冷静な行動には心から敬服する。
株価
港区芝浦 |
遅い春
後悔
本郷、谷中坂巡り
4月15日、地下鉄を湯島で降りて、湯島天神の切通坂を登る。
本郷三丁目の交差点を右折、本郷通りに出ると、通りにそれと言われなければ分らないほどのゆるやかな勾配がある。これを見送り坂と見返り坂と言い、江戸払いになる罪人を身寄りの人が見送り、罪人が見返ったということだが、どう見ても坂とは思えない。司馬遼太郎さんの「街道をゆく 本郷界隈」に、江戸時代の文献「御府内備考」にも「坂の様にも相見へ不申候」とあることが紹介されている。
本郷通りから左へ、菊坂を下る。緩やかな長い坂は右へ弧を描くようにして続き、坂の途中には、樋口一葉が暮らしのために通った伊勢屋質店も残っている。菊坂下から再び本郷通りへ上る途中に、古い大きな木造の建物が見えた。「本郷館」といい、築約百年とのことだ。ここだけ時空が異なっているようだ。関東大震災と東京大空襲にも耐えた姿にしばし見とれた。
東大を過ぎて向丘高校から白山の交差点まで歩く。老舗のパン屋さんで昼飯のパンを買う。店には昭和17年のご家族と店の写真が掲げられている。写真の少女が、おそらく目の前の年配のご婦人だろう。
交差点を右折、しばらく歩いて団子坂を下る。江戸末期から明治には菊人形で賑わっていたらしい。坂の上には漱石、鴎外も住んでいた。三四郎が美禰子と歩いた坂だ。
坂の名前の由来は、坂の途中に団子屋があったとか、道が悪く、雨の日に転ぶと団子のように泥まみれになったからだとか。先ほどの菊坂に合流する坂に「炭団坂」があり、この名前の由来も、坂の途中に炭団屋があったとか、雨の日に転ぶと炭団のように真っ黒になったからだとのこと。見送り坂、見返り坂といい、まともに受け取っていいものか。
そのまま真っ直ぐに歩いて、三崎(さんさき)坂を上る。坂上の和菓子店「荻埜」で団子を買う。ご主人は福島の出身とのことだ。
道なりに歩いて谷中墓地を抜けて東京藝大に出る。上野公園でパンと団子とビールの昼食。わずかに残った桜の花が雪のように舞い散っていた。
本郷館 |
4月25日、今日も風が強い。散歩していると、空から轟音が聞えた。振り仰ぐと、厚木基地に向う米軍の戦闘機が頭上を通り過ぎた。大震災の日から絶えて飛ばなかったホーネットだ。Hornetとは、スズメバチ、うるさい人、という意味だ。確かにスズメバチのように精悍で、とてもうるさい戦闘機だが、今日はその姿と爆音が少しなつかしかった。
爪のしわ
4月29日、ふと左手の親指を見たら、根もとから4、5ミリのあたりに、横しわができている。この指はストレスに遭うといつもこうなる。しわは、大震災が原因だろう。どうも逆境に弱い体質らしい。
爪にしわができるようになったのは、20年ほど前のことだ。初めてのアメリカ出張で、不自由な英会話と嫌いな飛行機にくたびれ果てたときに、左手の親指の根元にくっきりと刻まれた。おおよそ4、5ヶ月ほどで爪先まで移動して、消える。
一度仕事に行き詰ったときにできたこともあるが、ほとんど長時間飛行機に乗ったときに限られている。飛行機に乗ると、無意識に「揺れを探す」気持になっている、ということを山口瞳さんが書いておられたが、私もそうだ。
このひと月余りは大地震とその余震がそれだったのだろう。飛行機の揺れと地震の揺れは、嫌なことに、とても似ている。
5月1日、午後から黄砂で千燈岳が見えなくなった。この季節の大陸からの贈り物だが、お返しに困るほどのすごい量だ。
2日、野田の親戚にご挨拶。午後、両隣の友人と文殊仙寺へ。秘仏のご本尊文殊菩薩像が12年ぶりに開扉されている。お茶をいただきながらご住職と歓談。来浦、熊毛の海岸を回って帰る。夜は隣家で遅くまで宴会。
3日、今日も空が霞んでいる。親戚宅へご挨拶。ご無沙汰を詫びる。帰りに栽培している苺をいただいた。海老で鯛を釣ってしまった。
4日、鷲ノ巣岳の鬼籠古墳まで登る。不思議な地形だ。夕刻Ko氏宅訪問。
5日、朝から東山の墓掃除。帰りに畑の夏蜜柑を30個ほど捥ぐ。午睡後、伊美に買物。同級生のRさんに遇う。
6日、風が強い。大分からKi氏来訪。両子寺、天念寺、長安寺、真木大堂を巡る。長安寺の太郎天像を初めて拝観する。脇侍の二童子像も実にいい。顔の表情もそうだが、手の表現が何ともいえない。真木大堂では馬城山に登った。山頂には金比羅さんが祀られていた。戻ってKoさん宅へ。
7日、小雨。母と、父の13回忌の日取りなどを決める。
8日、神奈川に戻る。Ko氏に宇佐駅まで送っていただいた。
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黄砂に霞む千燈岳 |
くじ運
5月18日、宮内庁の京都事務所に修学院離宮参観を申し込む。この10年来、思い立ったときに往復はがきで申し込んでいたが、毎回、「落選」の印が押された返信はがきが戻ってきた。
昔からくじ運は悪い。当選したいときは落選し、当選などしたくないときに限って当選する。
落選はがきを5枚ほど持っていけば拝観させてくれないものか。今回はインターネットで申請した。当りますように。
5月27日、友人のCさんと北鎌倉駅で待ち合わせる。傘を差すかどうか迷うほどの小雨が静かに降っている。円覚寺の新緑がきれいだ。
氏は正午ちょっと過ぎの電車から降りてきた。昨年9月の神保町以来だ。今日の目的は精進料理と日本酒の昼飯だ。近くの店で乾杯。酒は二人で3合。足りないぐらいがちょうど良い。
東慶寺を散策した。墓苑には後醍醐天皇の皇女、用堂尼の墓がある。質素な五輪塔だ。ここには鈴木大拙、岩波茂雄、和辻哲郎、小林秀雄さんも眠っている。
美人で名高い水月観音様を拝観したかったが、予約が必要とのことで、お目にかかるのは次の機会にした。
建長寺から巨福呂坂を越え、八幡宮の段蔓を歩いて鎌倉駅で別れる。Cさんには墓参りなどにお付き合いいただいて申し訳ない。
北鎌倉 鉢の木 |
第三の火
6月22日、夏至。朝から暑い。梅雨が上がったかのような夏の陽射しに少しひるむ。
原発事故はまだ終息していない。
たしか小学校6年の時、国語の時間に「第三の火」という詩を教わった。第三の火、とは原子力のことで、文明の進歩を賛美した詩だとずっと思っていたが、読み直してみたら、そうではない。第4連の末文には、「人間は こんなおそろしい火を 手に入れたのだ。」と書かれていた。
ギリシア神話では、火はプロメテウスが人間に与え、彼はその罪で山上の岸壁に鎖で縛りつけられ、毎日鷲に内臓をえぐられる罰を受けた。もし人間が本当に火を使いこなせないのなら、神がプロメテウスを罰したのは正しいことになる。
だが今日も、プロメテウスと同じほどの苦痛に耐えながら、事故を終息させようとしている方々がいる。それが救いだ。
読書感想文
6月24日、プルーストの小説「失われた時を求めて」を、1年以上かけてようやく読了した。この間、塩野七生さんの近著「十字軍物語」や、小林秀雄さんの未読の本に手をつけず、これだけを読むというのは、それなりに辛かった。特に読後感が湧いてこないわが身も哀れだ。つまらない見栄や義務感で読んだ報いか。これからは読みたいものだけ読もう。
ふるさとの山にむかいて
6月26日朝、テレビを見ていたら、湯島天神下の「岩手屋」のご主人が出ていたので驚いた。NHKの「小さな旅」という日曜日の番組だ。
「上野界隈」というテーマで、集団就職で上野駅に降り立った15歳前後の少年少女の映像と、「ああ上野駅」の歌が流れ、店内で往時を懐かしむ常連客の姿があった。ご主人は十数年ぶりに震災後の故郷に向かう。盛岡では、「ふるさとの 山にむかいて言うことなし」という、啄木の歌を口にされていた。いつもは穏やかなご主人の表情が、少し揺れていた。
この店の酒は岩手の「酔仙」だけだが、蔵元はこの大震災で壊滅した。店の在庫も底をついた。この店を紹介してくれたKさんは数年前になくなったが、生きていれば、明日にでも店に行こうよ、と言うだろう。
湯島 岩手屋 |
途中下車
6月30日、念願の修学院離宮を参観した後、友人と会うために大阪に向う途中、出町柳からの京阪電車で、フェルメール展の吊広告が目に止まった。
「フェルメールからのラブレター展」とあった。歯が浮くようなタイトルに、みぞおちの辺りに違和感が走ったが、気を取り直して神宮丸太町駅で降りて、疎水に沿って京都市美術館へ歩く。
「手紙を読む青衣の女」「手紙を書く女」「手紙を書く女と召使い」の3作品を見た。
外に出ると、気絶しそうな暑さだ。木蔭を伝って青蓮院から知恩院前を通り、祇園へ出る。福栄堂の団子を買って、祇園四条から大阪へ。
ある日突然
7月30日、パソコンが起動しなくなった。最近熱が高いので、ときどき団扇で煽いでやったりしてはいたが、ついにダウンした。ハードディスクが壊れたとのこと。過去10数年のスケジュールや、住所録、このホームページのデータもバックアップしていない。
マシンは買い換えられるけれど、記録は戻ってこないかもしれない。とりあえず、メーカーにデータセーブをお願いした。必要なものだけを残すいい機会だと思うしかない。
シラカシ
10月1日、台風15号が吹き荒れてから10日ほど経った。戸外にはキンモクセイの香りが漂い始めたが、まだセミが鳴いている。セミが鳴くのは夏だと思っていたが、鳴き始めたのがパソコンが壊れた頃だったから、今年は夏の後半から秋の前半に鳴いたことになる。あるいは毎年そうだったのだろうか。
台風で倒れた駅前の桜や公園のケヤキは片づけられたり、無残な切り株になっていた。散歩道の林の中で風に飛ばされたドングリの付いた葉を拾った。ドングリにもいろいろあるけれど、これは白樫の実だろう。たぶん。
側切歯
10月20日、5月末から歯の治療に通っている。ようやく治療が終わったと思ったら、最終チェックで、新たに左上2番が怪しいと言われた。X線写真ではよくわからないので、歯茎を切開してみて治療方針を決めていいかとのこと。良くないけれど、いい歳なので、嫌とは言えない。メスを入れて、歯根をガリガリと削る。痛くはないが、麻酔がなかったら相当に痛いのだろうなあと想像していたら、次第に痛くなってきた。途中で2度麻酔を追加して、1時間程で終了。歯は無事だった。切開はこれで2度目だ。できれば最後にしたい。本当に。
保木コレクション
10月30日、外房線に乗って、土気のホキ美術館を訪ねた。土気は上総台地にあり、歩くと空がとても広い。駅前から南にまっすぐに伸びる道はゆるやかな起伏があり、楠の並木が美しい。
ホキ美術館は日本初の写実絵画専門の美術館だ。写実画が好きなので、昨年11月に開館した時からぜひ来たいと思っていたが、ほぼ1年経ってようやく叶った。回廊式の展示室を巡って、森本草介、青木敏郎、五味文彦さんなどの作品を鑑賞した。どれも溜め息が出るほど美しく、素通りできるような絵は1枚もなかった。もっと早く来れば良かった。
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ホキ美術館 |
十三回忌
11月12日、父の十三回忌の法要をした。母の希望もあって、久しぶりに父の妹、従弟妹、子供と孫が揃った。実家で法要、赤根の里で斎をした。盃を交わしながら、この12年は何かふわふわと過ぎたような気がした。緊張感が希薄になったのは間違いない。いつの間にか父のいない世界に馴れたことを、父に詫びた。
五七五
「学問の 自由はこれを 保障する」
書店で立ち読みした、竹内政明さんの「名文どろぼう」(文春新書)にあった、日本国憲法から拾った五七五の文だ。季語や切字はないが俳句(みたい)になっている。「相続は 死亡によって 開始する」(民法第882条)というのもあった。
他にもないか、もしかしたら短歌(のようなもの)もあるのではないかと、小六法で探してみた。暇なのだ。
「衆議院 議員の任期は 4年とする」(憲法第45条)これは字余り。「4年とす」にしてほしかった。
「罰金と 他の刑とは 併科する」(刑法第48条)あるではないか。
さすがに短歌はなかったが、字余り字足らずながら惜しいものはあった。
「何人も 裁判所において 裁判を 受ける権利を 奪はれない」(憲法第32条)
「裁判の 対審及び 判決は 公開法廷で これを行ふ」(同82条)「公開法廷」が「裁きの庭で」だったらなあ。
「この編の 規定は他の 法令の 罪についても 適用する」(刑法第8条)惜しい。
遊びはここまでにして、竹内政明さんは、読売新聞の「編集手帳」の筆者として知られている。以前このHPに引用したこともある。氏は時に名文を引きながら、達意の文を綴る。
年賀状
12月24日、年賀状を投函する。早すぎるとその後に喪中欠礼状が届くことがあり、遅ければ遅いで元日に届くかどうか気になる。以前は仕事納めの日に徹夜で書いたこともあった。切羽詰まった状態にならないと手がつかないのは生まれつきだったが、最近は少しまともになった。今更遅いけれど。
坂の上の雲
12月25日、NHKドラマ「坂の上の雲」の最終回を見た。明治という時代と人の切ないまでの健気さを感じた。
内容とは直接関係ないが、エンディングの登山道の映像がいい。多分、かつて登ったことがある、北アルプスの小蓮華岳の山稜だ。私にとっての「坂の上の雲」の「坂」は、岸田劉生の「切通しのスケッチ」のような、郊外の小高い丘を登る坂道のイメージだったが、3000メートル級の登山道をイメージした人がいたのだ。もちろんこの方がいい。