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ライン 毛越寺延年

更新日'02年01月10日
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リストマーク 毛越寺延年撮影記 リストマーク

 1976年(昭和51年)。

写真 「毛越寺延年」

    

「老 女」      「若女ネギ」
1976年渡辺国茂撮影。毛越寺HP


常行堂二十日夜祭  1月20日
献膳行列・蘇民祭・古式の常行三昧供・延年の舞などが深夜まで続く
摩多羅神祭ともいう。五穀豊穣、家内安全などを祈願する常行堂の大祭で1月14日から勤行が始まり20日が結願の日。献膳行列・蘇民祭・古式の常行三昧供・延年の舞などが昼から深夜まで続く。この日奉納される常行三昧供と延年の舞は国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 タイムテーブル
 15時 献膳式
 16時 初夜作法
 18時 後夜作法
 19時 護摩祈祷
 20時 献膳行列到着(蘇民祭)
 21時 延年の舞奉納


【延年の舞】 [この解説文は毛越寺HPからのいんようです。 解説元文章]

 毛越寺の「延年の舞」は次のような順で進行されます。田楽踊の始まる前に「呼立(よびたて)」があり、二人の僧が田楽衆に囲まれ、向い合いに腰を下げ、足声(そくせい)という秘事を行います。
 「田楽躍」は、太鼓三人、編木(ささら)三人、瑟丁(しってい)伝でん(機織りに似た音を出す)一人、銅撥子(とうはっし・二個一対で指にはさんで打ち鳴らす)一人、笛二人の都合十人で構成されます。麻布の水干に裁着(たっつけ)、脚半(きゃはん)姿で、太鼓と編木方はクルミの樹皮に網代(あしろ)に編んだ笠をかぶります。笠の頂きには太鼓方は桜の造花を挿し、編木方は白玉椿の造花を飾ります。この花は笠花と呼ばれます。瑟丁伝と銅撥子の童師は日月模様の烏帽子をかぶり、周囲に四垂(しで)を垂れます。舞いは粧(けはい)、散(ちらし)、行道、立法(たちのり)、大水車、中八返、小水車、鳥ばみの8曲が伝えられています。陣形を変えて舞うもので、約40分要します。
 次の「路舞(ろまい)」は唐拍子(からびょうし)ともいわれ、古風な節まわしで上の句を一人が舞い、下の句を他が舞います。慈覚大師入唐の折に清涼山麓に二人の童子が現れて舞い、また大師が当山を草創された時に再び、忽然と童子が現れて舞った故事を伝えたものです。
 「祝詞(のっと)」は台詞(せりふ)を口中で、つぶやくように唱えるので、側からはほとんど聞きとれません。
 古来常行堂別当の大乗院が勤め、摩多羅神の御本地と御利益を唱え、御願円満、息災延命を祈ります。
 「老女」は、神前に蹲(うずくま)って白髪をくしけずる真似など、奇異な所作をします。「若女(じゃくじょ)」は、昔、鎌倉より神子(みこ)がこの地に下って舞ったことから、坂東舞ともいわれます。若女は金の風折に似た古実舞独特の烏帽子に水干の姿で、振る鈴の音にも趣があります。後から、禰(ねぎ)が一人からみます。
 「児舞(ちごまい)」は立合(たちあい)ともいい、桜の枝を肩にして向かい合うごく緩やかな舞楽風の舞で、春の息吹を感じさせます。花折と王母(おぼ)ケ昔の二曲が伝えられており、一曲ずつ干支隔年に舞うことになっています。花折では、当山四方の山河を愛で、千秋万歳の長保楽を取り入れて舞います。王母ケ昔では、シテが「吾は是れ天台山の傍に年来住める仙人にて候」と名乗り、桃花のいわれを語り、先年の春を寿ぎ、地謡に合わせて舞います。
 「勅使舞(ちょくしまい)」は京殿有吉(きょうどのありよし)舞ともいい、一種の典雅な狂言です。シテは立纓(りゅうえい)の冠に狩衣姿の勅使京殿左少弁富任(とみとう)、ワキは両手にバチを持つ狂言の有吉。越天楽(こんてんらく)を奏し、互いに物語をし、相舞いに舞います。

 このように、延年の舞の基調には、問答の答弁と、乱舞があると言えるでしょう。答弁と言っても即興性があり、乱舞も何か物語性を持った舞で、そのさわりを一差し舞うといった趣きがあります。

 このほかに、毛越寺には延年の能と言うべきものが数十番あったと言われますが、近年に残ったのは「留鳥(とどめどり)」「卒都婆(そとば)小町」「女郎花(おみなえし)」「姥捨山(うばすてやま)」の四番で、これを年二番づつ交互に演じました。
 四番の謡は完全に残っていますが、舞は明治維新後途絶え、現在「留鳥」だけは復興されています。



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