つぶやき抄  (落語に関係する雑文集)


宗助(惣介)さん、WHO? 2004年 4月27日 NEW !!

小さん師匠 vs 名演奏家     2003年 1月17日

三平師匠の23回忌と いっ平の真打ち昇進:2002年10月 4日

志ん朝さんの一周忌:2002年10月 4日

志ん朝師を偲んで :2002年 8月17日

春風亭小朝著『言葉の嵐』を読んで… :2002年 8月 4日

ああ、百年目  2002年7月 6日

居残り佐平次の……:2002年 6月17日

愛宕山は、春…: 2002年6月17日


小さん師匠 vs 名演奏家     2003年 1月17日(金)

小さん師匠は、私が間に合った数少ない昭和の名人で
実演にも何回か接しました。
若い頃から名人に数えられてはいましたが、先代文楽・志ん生・圓生という
大看板の前では、後塵を拝せざるを得ませんでした。

 
長命でしたが。晩年の円熟というイメージはなかったですね。
落語界には、(先代文楽師を例外として)
名人と呼ばれる条件は人情話の名手という不文律がありますが、
小さん師も文楽師同様 「人情話をやらない名人」でした。
あれほどの名人といわれた人の十八番が、前座話まがいの
滑稽モノというのも意外です。(それこそが小さん師の真骨頂)
 
実は、小さん師の訃報に接して以来
師匠を演奏家にたとえると誰かなあと考えてました。
長命なところは、朝比奈氏か、しかし滑稽話と朝比奈氏とでは
符合しない。
若くして名声を確立したが、円熟には至らなかったところは
メニューインかと思えるが、メニューインほど劇的な天才少年
だったわけではない。
 
因みに、他の名人についていえば

 きちっと型にはまった楷書体の芸風、最晩年のたった一度のミスを機に
 隠退したところは、  先代文楽=トスカニーニ。

以下、 

 凡演もあるが、つぼにはまると超名演の  志ん生=クナッパーツブッシュ、

 テクニック抜群かつ多芸な   志ん朝=バレンボイム、

 玄人好みでエンサイクロペディストの  圓生=ロリン・マゼール

 本格派に憧れながら終生大衆路線を貫いた 三平=A・フィドラー

 クスリ依存者だが、やらない時には超名演の 先代三木助=ホロビッツ

 最晩年に大バケした 正蔵(彦六)=Gヴァント

   等々ですが… 小さん師匠にはピッタリが思い浮かびません。

どなたか、これはと思い当たる方をお教えください。

 
それにしても、落語が話題になるのが訃報がらみだけというのも
さびしいことです。
 

<2002/5/19 にWeb I教授の家 掲示板に投稿したものに加筆・修正しました

http://masao.prof-i.com/c-board/c-board.cgi?cmd=all;page=16;id=main


三平師匠の23回忌と いっ平の真打ち昇進 10月 4日(金)

志ん朝師一週忌のニュースと前後したが、
故林家三平師匠の23回忌は、先月20日であった。
その直前、師匠の末っ子である 林家いっ平の真打ち昇進披露パーティーが
盛大に行われたそうな。
 このパーティ以外にも、浅草仲見世を練り歩く『お練り』とか
〜これは通常歌舞伎役者の襲名披露の時に行われるもので落語家は異例 
パフォーマンスが行われたそうな。

この件に関連して 姉 みどりさん(峰 竜太夫人)と 
母 香葉子さんの確執などかきたてられ、ゴシップ記事としての
話題もにぎやかだった。

詳しくは、下記 9/20付け Webスポニチをご参照頂きたいが
ゴッドマザー海老名香葉子さんの力の入れ方を見ていると、
何となく Xデー?(こぶ平師匠による 林家正蔵 襲名?)をにらんでの
デモンストレーションという気がしてならないのだが、果たして真相は?

******************************************
☆林家いっ平真打ち昇進披露パーティーの意義――

 爆笑王だった「どうもスイマセン!」の故林家三平さんの23回忌は、きょう
20日である。22年前、54歳の若さで他界したのだった。

 そして、あす21日からは上野・鈴本で二男・林家いっ平の真打ち
披露興行がスタートする。

 その披露パーティーが17日に帝国ホテルで行われたのだが、様々な意味
で歴史的にも画期的なものだった。
落語界的に言えば、円楽一門会を率いる三遊亭円楽が、1978年(昭和53)の
“落語協会分裂騒動”でタモトを分かって以来24年ぶりに落語協会の公式行事
で“祝辞”を述べたのが、第一の理由だ。
 分裂騒動は円楽の師匠だった故三遊亭円生と、先に他界した人間国宝・
柳家小さんの対立が発端だったが、円楽は師に従って協会を脱会。
円生没後は“円生一門の再分裂”を経て、自らの一門だけで独自に
“落語家による落語家のための寄席”「若竹」を建てて経営。
閉場後も独自に一門会として別派活動を続けている存在で、今も落語協会との
寄席定席での活動とは一線を画しているのだから、
実質的には“24年ぶりの雪解け”と言っても過言ではないのだ。

 もちろん背景にはいっ平の師匠・林家こん平との名物演芸番組「笑点」(日
本テレビ系)での“長年の共演”や、分裂・対立はしていても、“冠婚葬祭は
別”という暗黙の了解事項があるのだが、それでも祝い事の公式行事では、こ
れまで一度も円楽が祝辞を述べたことも、頼まれたこともなかったのだから、
それを思えば寄席演芸界では「小泉首相が北朝鮮を訪れるよりも大変なこと」
(パーティーの司会を担当した露木茂アナ)だったのである。

 「志ん朝さん(古今亭)の葬儀にも、目白(柳家小さんの別称)が亡くなら
れたときにも葬儀には伺っていますが、そうですねえ、祝辞は本当に昭和53年
以来ですねえ…」と、円楽自身も感慨深げだった。
「アタシはね、組織がどうのでなく、今、寄席演芸界は全体として活性化へ
努力しなくちゃいけないと思ってるんです。
おめでたいじゃないですか、いっ平君の昇進。
こういうことを機に落語界にみんなの目が向いてくれれば、それが一番いいこと」
と、付け加えてくれた。
 
 そして、大女優・森光子ら800人を超える参会者の多彩な顔ぶれと、北島三郎
の30分にも及ぶ異例の“ご祝儀歌謡ショー”などの実現の背景に三平夫人の
海老名香葉子さんの“政治力あるいはプロデュース力”と、
全体を仕切った“石原プロの力”が貢献していたことが2番目の大きな理由だ。
 こうして、長男・林家こぶ平と二男・いっ平、義兄の春風亭小朝・泰葉夫妻
らのファミリー愛もひっくるめて、いっ平の昇進パーティーは戦後最大の規模
と豪華さで彩られていったのだが、それは単にいっ平の昇進のクローズアップ
だけでなく寄席演芸界全体が注目されるという“役割”をも結果的に果たした
のだった。
 この“いっ平効果”を本物に出来るかどうかが、寄席演芸界の浮沈
にかかわってくる――。                 (岸谷 祥)
 


志ん朝さんの一周忌 10月 4日(金)

早いものですネ、志ん朝師の一周忌!!

昨年、このWebの準備中、悲報に接したことを思い出します。
(ということは、このHPも一周年!!)
Webスポニチから……

――――――――――――――――――――――――――――――――――
☆平成名人・古今亭志ん朝さんの一周忌、しめやかに営まれる――

 昨年10月1日に63歳で他界した昭和・平成の落語名人、古今亭志ん朝さんの
一周忌が、この1日、丸の内・東京会館で営まれた。
  <中略>

歌舞伎俳優の坂東三津五郎さんら俳優が多かったのも志ん朝さんが
それだけ舞台に力を入れていたことの証だろう。
森繁さんは最後までとどまって、志ん朝さんの思い出話に加わっていた。

 参会者は400人を超え、全員が着席スタイル。
志ん朝夫人の美濃部聖子さん(60)が、一門を引き継いだ古今亭志ん五(53)の後見で、
すべてのテーブルを回って、丁重にあいさつしていたのが印象的。

聖子さんの考えもあって、全員が何らかの形で志ん朝さんと親交のあった人ばかりで、
写真撮影などマスコミ取材は一切辞退しての催しでもあった。
 理由は、おそらく志ん朝さんの他界直後に週刊誌に心無い記事を書かれたことから、
取材が入ることで志ん朝さんを偲ぶ席が混乱してはいけないという配慮だったからだろう。

 志ん朝さんは本当に落語を、芝居を愛した人だった。昔、文京区の三百人劇場で独演会を
やっていた頃、40代だったと思う…。
志ん朝さんはピリピリしていた。
その日の出来が、高座を降りてくる雰囲気で分かったほどだった。
納得のいかない高座の時は、近寄り難い空気を漂わせていたものだった。
微妙な描写、登場人物たちの活写ぶり。
楽しんで、笑ってもらうための芸の裏にある“ひたむきさ”真剣さに打たれて、
ボクは決して楽屋にお邪魔しなかった。
 それが、50歳を過ぎた頃から、不意におおらかになった。
聞いてみた。
「師匠、50代に入って、ハラが出てきたら、芸が変わりましたね?」と。
答えはこうだった。
「うん、分かる?やなとこみてるねぇ…。
芸ってのは、もっとぞろっぺい(ある意味での気楽さ、ラフさ)でいいってことに
気がついたんだよ。
楽しんでもらうにゃ、自分も楽しめないといけないんだよなぁ…」。
目は笑っていなかった。
 ボクがよく聖子夫人らと徹夜マージャンをしている時など、寿司を買って帰
ってきたりしてくれただけでなく、時には自分でお茶なども入れてくれた優しさ。
空気を察して、そこに居やすくしてくれる繊細な思いやり。
思い出せば、涙がにじむ。そうした繊細さで、芸は裏打ちされ、しかも一徹、
直球の芸だった。
柔らかい名人芸の裏の、剛毅な落語家魂…。
志ん朝さんの芸は、これからも評価が高まり続けるだろう。
一周忌を機に甦った思い出の志ん朝さん。
既にソニーからのCDやカセットも未曾有の売れ行きを示している。
もちろん、ボクの手元にもある。人生の財産だ。            (岸谷 祥)
 


志ん朝師を偲んで : 8月17日(土)

住吉踊りの季節となりました。
例年なら、志ん朝師が座長となっての公演が催されるはずです。
(暑いから)そのうち観よう、そのうちに、と思っている内に
遠くへ行ってしまわれました。

観たいと決めたら、何をおいても観る!
 という意気で行かなくては、と痛感します。う〜む…

ちょうど、今日のスポニチに好記事がありますので、
引用します。
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 亡き古今亭志ん朝さんをしのんで、にぎやかに浅草演芸ホールで追善興行―

 楽しいのに、涙が出る。面白いのに、喪失感が広がっていく…。11日から20
日までの浅草演芸ホール昼席は、やがて一周忌を迎える“名人”古今亭志ん朝
さんをしのぶ追善興行「吉例納涼住吉踊り」だ。
 思い出す、昨年の今頃を。志ん朝さんが、余命いくばくもないことを知りな
がら「最期までこの興行を務めたい」と言って、病名を隠して病院から通って
踊り、落語まで演じて名物公演の座長を全うした姿を。高座では元気だったが
、楽屋へ戻れば、トイレに行くのにさえ壁をつたって歩き、息切れし、疲労の
色を隠せなかった志ん朝さんの覚悟の姿を――。
 24年前、志ん朝さんは落語会の活性化と、落語家たちの“芸の引き出し”の
多様化を目指して、先代雷門助六さんの踊りを、落語協会、落語芸術協会のワ
クを超えて、有志たちを募って学び、夏の名物公演へと育て始めたのである。
それは、当代雷門助六や三遊亭金馬、古今亭円菊、三遊亭円弥、さらにあした
順子・ひろしや古今亭志ん橋、柳家小りん、三遊亭小円歌、松旭斎美智らから
若手の芸人たちまで30人を優に超える人々に広がって、今では正月興行に勝る
とも劣らない“優良公演”になって、定着した。
 15日の終戦記念日、浅草六区興行街はお盆と夏休みの最中ということもあっ
て、大変な人出だった。すれ違う人たちの会話が、関西弁や東北弁など様々だ
ったこともあって、「いいねえ、浅草は!」の気分。お祭り気分で浅草演芸ホ
ールへ入ったら、もう立錐(りっすい)の余地もないほどの超満員。お祭り公
演はこうでなくっちゃいけねえや!うん。
 「住吉踊り」は、かっぽれや奴さんを総称した寄席の踊りのこと。そろいの
浴衣に朱のステテコ、豆絞りのハチマキ姿も勇ましく、次から次へと30人を超
える男女芸人がユニークに、滑稽(こっけい)に、また時に掛け合いのセリフ
や操り人形ふうに踊る「操り踊り」(これは当代助六の十八番)など、バラエ
ティーに富んだ滑稽踊りを繰り広げる。
 人々が集まっての娯楽の原点は“踊り”だったんだ、と再認識させられるよ
うな楽しさと、笑いに満ちているのが特徴だ。形よりも踊る楽しさ、心が滑稽
化されているところが素晴らしい。思えば、それは芸人魂の踊りを借りての発
揚でもあろう。志ん朝さんは話芸の名人でもあったが、同時に優れた実践的プ
ロデューサーでもあったのだ。
 23年間務めた“座長”は、今年からベテラン金馬が引き継いだ。金馬は、独
自に“お座敷芸”である手ぬぐいを人形の形にたたんで橋で両手の分を操って
踊らせる“花柳界の操り踊り”を、風呂敷と操り棒を使ってより多くの人に見
てもらえる芸として披露していた。“風呂敷人形”を操り終わって開いてみせ
ると、そこには古今亭志ん朝と染め抜かれていた。
 生前、志ん朝さんが作って、ひいき筋などに配ったものだった。志ん朝さん
は、人形になって金馬と一緒に踊ったのだ。笑いながら、楽しみながら不意に
涙が流れそうになった。落語家たちの心に、ファンの心に志ん朝さんは生きて
いる――。 (岸谷 祥): (寄席・スポニチ亭  より)

 


春風亭小朝著『言葉の嵐』を読んで…  8月 4日


春風亭小朝師匠が、本やテレビ、新聞で見つけた著名人の「言葉」を取り上げて感想を述べた本。
買ったままツンドクだったのを、今日何気なく読み始めたら面白く一気に読了した。
なぜ、今までほっといたんだろう?

春風亭小朝師匠が、本やテレビ、新聞で見つけた著名人の「言葉」を取り上げて感想を述べた本。
買ったままツンドクだったのを、今日何気なく読み始めたら面白く一気に読了した。
なぜ、今までほっといたんだろう?
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『言葉の嵐』 春風亭小朝 筑摩書房 2000年2月10日発行 \1,429

★感銘を受けた部分
1) 円蔵師匠(当時、 月の家円鏡)のアドリブの凄さについて、円蔵師匠から聞いたという「アドリブっていうのはな、前もってつくっておくもんなんだ」の一言。
 まだ16歳の著者は、目から鱗が落ちたそうだ。
三木のり平の著書にも、「アドリブを小器用に使いたいと思ったら…思いついた時に言わないことだ。
その場ですぐに使う奴が多いが、それは間違い」とあると指摘。
 今のタレントは、その場のヒラメキ=アドリブと思っているので、実際本番では何も浮かばず、
結局誰かが言っていたことのパクリになってしまう、という。
小朝師匠は松本人志について、きちんと用意していると誉めている。

2)黒門町の師匠=8代目 桂文楽にまつわるエピソード集
・ 圓生に対するコンプレックス混じりの複雑(アンビバレンツ?)な感情
   柳家小さん襲名に反対した圓生を一喝した事件
   圓生の噺の出来には常に関心を払っていた
   辛口の圓生評 「圓生の噺は無駄ばかりで、あれは素人」
    (磨きに磨き、噺を限界まで刈り込んだ文楽に比較すれば、たしかに圓生の『百年目』『小判一両』
     などは冗漫さを感じてしまうが、それも圓生噺の魅力の1つではある〜 <福>)
・ 川口松太郎、六代目菊五郎とのからみ 
   (細かなニュアンスがあるので興味ある方は著書に当たってください)  

3)名人 志ん生が息子 志ん朝に言った言葉
「一生のうち、3年間でいいから、落語だけに打ち込む時間を作れ」
   う〜む… いい言葉ですね。もって他山の石といたしたい。<福>
 


ああ、百年目 : 7月 6日(土)

先日TVで桂 米朝師匠の『最後の歌舞伎座公演』と名打った高座を
拝見しました。(残念ながら途中からでしたが)
出し物は『百年目』、
大店の番頭が店の主人に内緒で自分の勘定で商売をして蓄財し
大尽遊びをしている現場で主人と鉢合わせ、
ここで会ったが百年目と覚悟するが、
これまでの働きに免じて許されるというお話。

現代でも似たような事件はあると思いますが、
今なら就業規則違反はもとより
刑法の背任罪にも問われかねないところです。
まあ、こういった話は、若手では無理、
三遊亭圓生師のVIDEOを見てえらく感動したことがありますが、
米朝師匠のもよかったです。
大店の旦那のふところの深さ、
これはさすがの志ん生、志ん朝両名人にも描き切れないところです。

それにしても『最後の歌舞伎座公演』とは、なんちゅうタイトルか(絶句…)

〜6月10日付け ミニ日録より再録
 


居残り佐平次の…… : 6月24日(月)

季節はいつなんでしょう?

映画『幕末太陽伝』は、中途に『品川心中』の「移り替え」という単衣(一重)から袷への
衣替えで金に困る女郎の話を挿入して、夏の終りをイメージしてます。
ラスト・シーンもうらぶれた『お見立て』の古寺の墓場、初冬のうすら寒い風景で終る。

しかし、噺の世界、特に志ん朝師の噺の佐平次は威勢いいタンカを切って、奴を振り払って去る。
ここは、冬は似合わない。

春真っ只中に、品川遊郭に繰り込んだ佐平次が数ヶ月居残りをしたあげく主人から小遣いや着物を
ふんだくったあげく、タンカを切って立ち去る、胸のすくようなピカレスク・ロマン。
この舞台は、春から初夏のイメージといっていいんじゃないでしょうか。
 (旦那から巻き上げた着物が、数日前 越後屋から届いた 結城つむぎ(袷)というのが
  気になりますが、まあそこは目をつぶって頂いて (笑)) 


愛宕山は、春… : 6月17日(月)

 

志ん朝師の傑作『愛宕山』の
季節は、一八が 「早蕨の…」といっておりますから「春」なんでしょうね。

でも何となく衣替えして一重になってから、初夏のイメージが
ありますね。
 (一八が着物を裂いて縄をなうのに、袷の着物より一重のほうが都合いいのでは
 なんて考えちゃって…(笑))

志ん朝師の傑作には、文楽十八番が多いですね。
本人も意識していたのでしょう。

話は変わりますが、先日サリエリの『ファルスタッフ』をみて
『鰻の幇間』を連想しました。
ともに、邪な(幇間としては当然だが…)動機からの誘いを
それぞれ完膚なきまでにたたきのめされる。
ヴェルディの『ファルスタッフ』では、フィナーレで個人的なレベルから、初老の男性全員→人類レベルの悲哀に昇華される。
一方、志ん朝師の噺では、野幇間はこの失敗にもめげず、明日になればしら〜と同じ商売に繰り出す『救い』がある。
超一流の芸の『魔力』を感じました。
 (サリエリがヴェルディの作品を知っておれば、暗殺すべきはヴェルディと考えたかも…(笑))


 

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