■ 福 祉



 人口の高齢化が急速に進んでいます。「福祉も聖域にあらず」の政治が強まる中、将来への不安が大きく広がっています。

 リタイアした人たちや病弱者をお荷物のように見なす社会は、決してまともではなく、実は現役の者たちや健常者にも過酷です。高齢者や病弱者や障がい者の尊厳を大切にし、人間的な暮らしを保障する義務が、社会にはあります。

 義務だけでなく、それを可能にする条件も、実は存在しています。世界第2位の巨大な経済力を合理的に活用すれば、福祉は切り縮める必要がないばかりか、さらに充実させることさえ可能です。無駄な公共事業、巨大な官僚組織の維持費、膨大な軍事費、ため込まれるだけの巨額の不労所得等々。その一部を回すだけで、今以上の福祉を実現できるはずです。

 もちろん、「何でも国でやれ」と言うのが正しいわけではありません。国に「お任せ」してしまうことは、官僚の無駄遣いの口実、権力の源泉として利用される危険性と隣り合わせです。

 流山でもNPOなどが地域の介護システム作りに大きな役割を果たしています。高齢者や障がい者や住民自身がイニシアチブを発揮し、自治体職員とも協力しながら、国の横やりをはねのけて、自治体を福祉の砦に変えていきましょう。

 まわりのお年寄りを見て下さい。まだまだ健康で、働き続ける意欲を持っている方が多いはずです。多くの障がい者の方々も、必要な配慮や設備の改善があれば、働く場に進出することが可能です。そうした人々には、収入も得られ、税や社会保険料も納められる仕事を保障すべきです。「自助」の前提である働く場から閉め出しておいて、「養うのにカネがかかる」というのは矛盾した理屈です。

 現役時代の豊かな経験を眠らせておく手はありません。高齢者協同組合などをどんどん作って、社会活動、経済活動を積極的に担っていくのも愉快ではないですか。
 高齢、病弱、障がいなどの故に、他の者たちが気づかないことに心が行き届くことも多いはずです。そうした力を生かした社会活動に、健常者をサポーターとして取り込みながら、どしどし乗り出していきましょう。




■ 環 境



 空気も、水も、食べ物もみな汚染され、大気温は上がり、異常気象が頻発しています。利潤追求を原動力とした産業社会は、物的富を生み出す力を飛躍的に高めましたが、反面で豊かな自然を破壊しました。

 高度化した生産力、発展した科学技術を、今度は環境の回復に役立てるべきときです。科学・技術はその思想を自然尊重に転換することを迫られており、それに成功すれば、環境と調和した経済システムづくりに役立つことは可能です。

 そのためには、自然を省みぬ者たちへの市民からの厳しい監視と規制、そしてゆがんだ消費欲望の扇動に乗せられた私たちの生活を見直すことも重要です。しかし「企業が元凶の公害は終わりつつある、消費者の姿勢こそ問われている」という流行の理屈は一面的です。

 身辺の改善に努力する賢い消費者であるとともに、企業や国に対して厳しくものを言う市民が再登場すべきです。加えて、環境と調和した生産活動、安全な生産物を自ら作り出していく試みも、これからの挑戦課題です。

 水の中から発生し、森の中で育まれた人間は、きれいな水と森と空気を欠いては生きられない宿命をDNAの中に埋め込まれています。手つかずの大自然、人と共存する里山的自然、自然を取り入れた街区・産業地区がバランス良く配置された社会が必要です。

 江戸川や坂川や利根運河、各所に残された緑は流山市民の財産です。これらの河川や緑を、近隣市やその住民とともに自然とのふれあいの場に再生させていきましょう。






■ 平 和


 「誰もが平和を願っている」というのは、嘘です。残念ですが、世の中には戦争で儲ける人々、戦争への備えを煽ることで自分の地位を強化する人々がいます。だからこそ戦争は起こるのです。

 「日本はまさかもう戦争はしないだろう」というのも、根拠のない幻想です。すでに日本は「国際貢献」を口実にアフガンに自衛艦を、イラクに地上部隊を派遣することで事実上戦争に参加しています。発砲に至っていないのは幸運に過ぎません。

 「国益のため」はさらに危ない理屈です。何万人という人々を殺戮することと引き替えに石油利権のおこぼれや様々な権益に預かろうなどという、浅ましく、残酷な国民に、落ちぶれたくはありません。アフガンやイラクへの派遣は、かつての日本の戦争と同様、「国益」のためにさえなっていません。

 平和を生みだすには、「国際貢献」や「国益」などの嘘を見抜く目や、戦争をしたい人々や戦争に備えたい人々を包囲し孤立させる運動が必要です。経済システムも、資源の奪い合いや覇権の競い合いをしなくて良い仕組みに、地域が主導しながら変えていく必要があります。

 靖国参拝は、戦争を反省せず、再び繰り返してもいいと考えている良い証拠です。他国の何千万もの人々を殺戮した戦争の支柱をつとめ、いまもその戦争を賛美し続ける施設を擁護する行動は、ドイツなら犯罪行為です。中国や韓国ばかりでなく、欧米ほか世界中から批判が高まっています。

 軍事力強化や海外派兵反対を主張すると、「平和ぼけ」という悪罵が返ってきます。しかし、アフガニスタンで20数年にわたって命がけで人道支援活動を行ってきた中村哲医師は、「9条を変えて派兵できる国にしよう」などと言っている人々こそ、戦争の実態を何も知らない真の「平和ぼけ」だと喝破しています。

 殺人マシーンというダーティな仕事を押し付けられている自衛隊は、地震・台風国日本で切実に求められ、世界からも必要とされる災害救助隊に再編成していくべきです。

 平和の世論を高めるため、国際条約に根拠を持つ「無防備地域宣言」(他国に敵対せず軍備を持たないことを条件に他国からも攻撃を受けない権利を保障)を、私たちの町から発信していきましょう。






■子育て・教育


 少子化が止まりません。長時間労働、育休の取りにくさ、保育体制の貧弱さ、子育てコストの増大などが原因です。

 ヨーロッパでは、女性の社会進出を支援する政策が、少子化を緩和しています。女性の働く環境整備を後押しするとともに、男女ともに労働時間を抜本的に短縮し、それでも生活が可能な収入を保障し、子育てを豊かで充実した生活のひとこまとして楽しめる条件を整える必要があります。

 学校での勉強は苦役、教室は我慢道場と化し、競争主義や個人主義が蔓延、いじめや校内暴力があとを絶ちません。この現状は、実は大人社会の反映であり、またその要請でもあります。

 学校が、企業や国家の都合による人材育成の場と化しているのです。ゆとり教育などの美名による大衆切り捨てと、少数エリートへの個性重視・才能開花の教育という、二極化が進んでいます。障がいを持った子どもたちへの隔離・分離も続いています。日の丸・君が代の強制は熾烈を極め、偏狭なナショナリズムを植え付け、長いものに巻かれろの物言わぬ従順な国民づくりが系統的に行われています。

 生きた社会生活から遊離したガラクタ知識の詰め込み、点数主義が、知的好奇心の萎縮、学業忌避を生むのは必然です。

 文科省や教育委員会はもはや子どもをまともに育てられなくなっています。子どもが発する救難信号にもっと敏感になり、子どもと親と地域社会が手をつないで、企業や国の都合を優先したゆがんだ教育をただしていきましょう。

 学校がダメならNPOによるフリースクールなどをどんどん作り出していきましょう。






■ 働き方


 ニート、フリーターの増大、社会の二極化の背景には、働く人々への安上がり、使い捨ての横行があります。自治体もこの風潮にのっかり、非常勤職員、NPOなどを安上がり労働力として利用しています。流山市が雇用する非正規雇用者、事業委託する会社やNPOなどでは、地域の労働条件の低下をくい止め、それを引き上げる役割を持たせるため、「リビングウェッジ」(条例で定める生活保証賃金)の考えを導入するべきです。

 正社員と同じ仕事をしているのに、非正規雇用だ、女性だと言うだけで、時間あたり半額前後の人件費で働かされている人々が多くいます。正規か非正規か、男性か女性かを問わず、同じ仕事に対しては同じ時間あたり賃金が支払われるべきです。

 民間と公務とを問わず、働く場での民主主義、「みんなで決めてみんなで実行する」システムが求められています。上意下達の指揮命令が職場の常識、それでないと仕事が停滞するかのように思われていますが、それは思いこみ、いまや古くさい考えです。

 上意下達の仕組みは、働く人々を単に労働を搾り取る対象としか見なさない場合は合理的です。しかし、それこそが失業・過労死など様々な労働問題、不況・恐慌などの経済上の困難を生み出す元凶となっており、大局的に見た場合には不合理な仕組みであることが明らかとなっています。

 意志決定と実行への平等な参加のシステムは、可能であるばかりではなく、様々な経済的不合理や無駄を除去するためには切実な必要事です。そうしたシステムを実効あるものにするため、働く人々のエンパワメント、能力開発支援が重視されるべきです。

 これは決して夢物語ではなく、スペインのモンドラゴン協同組合によって実際に試みられています。モンドラゴンでは、所有・管理・労働のすべてを働く者が協同で担う仕組みが導入され、一地域全体の生産・流通・金融などがそうしたシステムで運営されており、そうした中からヨーロッパでも有数の企業を排出しています。

 弱肉強食のグローバル競争が席巻する中で、働く者が主人公の協同組合企業も矛盾や困難を免れるわけではありません。世の中、そんなに甘くはないでしょう。しかし利潤第一主義、「後は野となれ山となれ」に堕すことを避けようと、労働・生産の新たなシステムをつくる努力を続けています。弱肉強食の競争戦のための努力よりも、はるかにやりがいのある努力です。

 流山を、社会的使命を優先する諸企業・協同組合企業などが集い、より活発で潤いのある経済活動が営まれる町に変えていくくらいの夢を持ちましょう。






■ 自治と住民の協働

 
 「行政はサービス業」「市民はお客」などと言われます。市民自治とは正反対の主張、市民の主権性への侮辱です。市民は「お客」としての「満足度」などでなく、自治の主体として扱われ、自らをそう高めることこそ求めています。

 どこの自治体でも、いまや「住民との協働」が合い言葉です。住民・市民の力の向上とともに、従来の「お役所仕事」の行き詰まりや自治体リストラの思惑も背景にあります。

 本当の市民自治を実現していくためには、自治体の業務に市民が協力するだけではなく、むしろ市民が自主的に進めている事業に自治体を巻き込み、協力させていく発想が基本になるべきです。福祉でも、環境その他の課題でも、行政の能力を超える深みや広がりを持った取り組みが、市民の自主的な活動として成長しています。こうした活動をさらに発展させていく方向で、市民が主体の「協働」を追及することが必要です。

 「協働」論者の中には、真剣な論争、対抗提案などを嫌う者もいます。激しい意見交換は、あたかも「協働」の精神に反したものであるかのキャンペーンにも出あいます。何事も丸く治まり、和気あいあいの結果となるのが自治の「成熟」であるかに言われます。

 しかし、住民の中には様々な生活背景を持った人々がいます。行政に対する期待や要求も多種多様です。大切なことは、社会的・経済的に不利な立場に置かれている人々、弱い立場にある人々、困難に苦しんでいる人々の声を、「全体の利益との調和を」などを口実に排除しないことです。

 市民自治の核心のひとつは、そうした声を尊重し、きちんと汲み上げていくことにこそあります。福祉でも、環境でも、今日スタンダードとなっている施策は、かつてはほとんどが少数異論と見なされていたのです。弱者、少数者の要求は、未来の社会のあり方を先取りしている場合が往々にしてあります。それは特定の人々の特殊な利害のゴリ押しではなく、全体の普遍的な利益を表していることも多いのです。