逃げ出したい。
しかし逃げられない。
周りには手が6本、足が2本ある蟹星人に取り囲まれている。
蟹の癖になぜ手が6本、足が2本の計8本しかないのだ。
つめはどうしたつめは。
それに何だその目は。
垂れ目じゃないか。
蟹としての誇りはどこへ行った。
しかも尻尾があるじゃないか。
何なのだこの蟹星人は。
とりあえずここから逃げ出さなければ。
今持っている武器はといえば・・・。
綿棒と伊予柑。
こんなものでどうしろと言うんだ。
伊予柑でおびき出しておいて綿棒で蟹の身を穿って食えということか。



補足
捕獲した人ならご存知かもしれないが、蟹は何でも食らう。
捕まえた蟹の餌はかぼちゃで十分な程だ。
かぼちゃを食う甲殻類など蟹くらいのものだ。
とは言っても甲殻類で思いつくのは蟹、海老、うにくらいだが。



しかし蟹星人も私を見て戸惑っているようだ。
どうやら私の指が両手に5本ずつある事に驚きおののいているようだ。
この隙を突けば逃げ切れるかも。
そう思って私は走り出した。
あっさりと逃げ切り、私は太陽の下草笛を吹いていた。

このような夢を見た。
夢の中ながら見事な突っ込みを炸裂させているようだ。
と、言うより、なぜつめの無い手足が8本の垂れ目の生き物を蟹と判断するか、という辺りも不思議ではあるがまあ、よしとしておこう。



夢診断というものがある。
夢で見た事を元に本人の精神状態等を診断するものだ。
初夢で富士山と鷹と茄子を見ると縁起が良い、というのも一種の夢診断かもしれない。
夢の中でいつも髪の毛が抜けるとか、歯が抜け落ちていくとか、目が見えなくなるとかそう言うのがある場合、カウンセリングを受けた方が良い場合もあるらしい。
平気な事も往々にしてあるのだが。



そう言えば夢日記を毎日付けていると気が狂う、と言う噂があった。
実際のところどうなのだろう。
確かにオカルト的な感覚で行けばありそうな気はするが。
現実と夢の境目が不明瞭になってくるのだろうか?
対策としては現実の日記も同時につける、なのだろうか。
これはこれで余計悪化しそうだ。
まあ、夢日記をつけなければそれで良いからどうでもよい。



ところで、冒頭に出てきた私の見た夢はどう診断されるのだろうか。
夢として考えてもかなり突拍子の無い物なのではないだろうか。
姿形の違うものを見て自分自身や自分の生まれ変わりと瞬時に思いこむ人は少なからずいるらしいが、何だかよく分からないものを見てすぐに蟹と判断する俺はちょっとどうかと思う。
そんなちょっとどうかと思う夢、診断自体可能なのだろうか。
夢にジャンル分けがあったとしたら「その他、何だかよく分からない夢」と言う部類にされそうだ。



ところで、夢を見る、という表現に疑問を持っている人は日本人ではそうはいないだろう。
しかし、夢を“見る”という表現をするのは日本人だけ、と言う話を聞いた事がある。
他の国の表現を日本語に無理やり訳してみると、夢を“する”になるらしい。
北京語、英語がそのような使い方をする代表格らしい。
使っている人間の最も多い言語と使っている国が最も多い言語に見られる特徴と言う事は、日本語の表現は標準的ではない、と言えるかもしれない。
実際、見る、と言う行動は普通は目を使う行動である。
まれに手で湯加減を見る、などと言う事もあるが、これはなぞなぞではないので却下。
さて、夢を“見て”いるときは目で“見て”いるのだろうか?
恐らくそんな事はないだろう。
もちろん眼球は寝ているときも忙しなく動き回っている。
むしろ起きているときよりも激しい運動をする。
だが、それは別に夢を見ているからではない。
夢を見ていようが見ていまいが動き回っているはずである。
しかも、目は閉じられている。
可視光線は入ってきていないのだ。
その状態で目で物を見る事など不可能である。
そしてもう一つ目で見ている訳ではない証拠がある。
冒頭に書いた私の見た夢が何よりの証拠である。
あんな突拍子もない出来事なんてそうそう目で見れるものではない。
せいぜい映画くらいである。
だが、映画で私自身が出てくる事はちょっとまだない。
夢は目では見ていないのだ。
そうなってくると、果たして夢を“見る”という表現は正しいのだろうか。
結論として、日本では正しいです。



投げやりに進めつつ次へ行こう。
夢占い、というものがある。
夢診断とどう違うか、と言うと、占いなので将来どうなるか、という点に重点が置かれると思われる。
占い師でまずその人の性格や近況を言い当てて相手の心を掴む人がいるが、それはプロファイリングと同レベルで大した物ではない。
もちろん相手の心を掴むために出会い頭に「津軽海峡冬景色」を最後まで歌われたりすると大した事ではあるが、普通そんな事をしてみる占い師はいない。
占い部屋等に入った途端水晶に手をかざしながらさびしげなメロディを歌う占い師。
それだけで胸がいっぱいになり帰りたくなってくる。
しかし、夢占いはカード占いや水晶だけを使った占いよりは信憑性があるのではないだろうか。
なんと言っても自分の内面的な物を打ち明けた上での占いになる。
しかしこれは冷静に考えると占いなのだろうか?
夢によって本人の精神状態等が判明してしまうので、それから推測する物と思われる。
つまり根本的に夢診断と夢占いは同じ物になってしまう。
それより、現実の事象から類推する場合、占いとは言わないのではないだろうか?

このように、夢とは複雑且つ怪奇な特徴を多数持ち合わせている。
なるほど、この分野の研究は難しいのだろう。
類推に過ぎない話も多数転がっている。
この複雑怪奇な現象をいとも簡単に再現してしまう動物たち。
恐ろしい才能を持っているといわざるを得ない。
ところで、夢診断って言葉、本当にあったのだろうか?



トップへ A Thinker インデックスへ 一つ前へ戻る