牛には牛の生き方がある



世の中には「食ってすぐ寝ると牛になる」という格言があるようだ。
よく考えると何とも理解しがたい格言である。
冷静に考えてみよう。
牛になるのだよ、牛に。
角が微妙にあって四本足で歩いてあまつさえモーと鳴くあやつらなのだ。
なんとも摩訶不思議である。
つまり、線虫の中間宿主になってしまうのだ。
これまで最終宿主だった人間が、中間宿主である牛になるのだ。
それはもう、寄生していた寄生虫もびっくりの仰天現象である。
と言うか、折角人間に寄生できたのに、またわざわざ人間に寄生しなければならなくなるのだ。
ところで、二行上に出てきた仰天はお分かりだろうか?
天を仰ぐって事である。
天を仰ぐがどうしてびっくりにつながるかお分かりだろうか?
天を仰ぐ→雨が降ると冷たい→びっくり
この三段論法であっさりと解決だ。
これで一安心。

で、牛である。
食ってすぐに寝ると牛になる、の一文に「何を」が書かれていない事から判断するに、食材は問わないようだ。
つまり、ありとあらゆる物が対象になってしまう、とそう判断しても問題なかろう。
つまり、サバの味噌煮だろうが、新巻鮭だろうが、ヒゲの人気者が食べると体のサイズが大きくなるキノコだろうが、カンピョウだろうが、ユン・ピョウだろうが何だろうが食ってすぐ寝ると牛になるのである。
驚いたことにユン・ピョウを食って牛になるのだ。
どちらかと言うとサモ・ハン・キンポーの方がイメージに合う気がするが。

さらに驚くべき事実に、牛を食って寝ても牛である。
つまりは共食いと言えなくもない行為であり、しかしそれは現在でも普通に実施されている事であり、そこから私たちが食べる美味しい牛肉が出来るのだ。
そりゃユン・ピョウも困る。

そんな訳で食ってすぐ寝ると牛になるのだそうだが、ここに来て重大な事に気がついてしまった。
「何を」が無いのは先ほど書いたばかりだが、しかし「誰が」または「何が」まで無いのだっ!
つまり、私がカンピョウを食ってすぐ寝たら、誰がまたは何が牛になるのか、それが明記されていないのだ。
由々しき問題である。
「あなた」かもしれないし、「ユン・ピョウ」かもしれない、はたまた「箪笥の角にぶつけられた足の小指」かもしれないし、「つのだ☆ひろ」かもしれない。
箪笥の角にぶつけられた足の小指が牛になったらそれはもうとてつもない膨張率だ。
質量保存の法則にのっとればその箪笥の角にぶつけられた足の小指はどこからか質量を得なければえらい軽い牛の一丁上がりだ。
一丁上がりと言えばやはり豆腐屋のイメージがあり、しかし普通豆腐屋に牛一丁と言うと箪笥の角にぶつけた小指が牛になったりはしないし、自分自身が一体何を言ってるのか分からなくなってきた気味であるが、そこは豆腐屋に免じて許して欲しい。
そんな訳で豆腐屋だが、最近見ない。
元気でいるだろうか、豆腐屋。
そういえばユン・ピョウも最近見ない。
つのだ☆ひろはドラマーである。

ところで、牛が牛を食ってすぐに寝ると牛になる、という文章も成立してしまうのだが、牛は元々牛だから牛なのであり、牛になる、の部分が成立しないから特別ルールとして牛には「食ってすぐに寝ると牛になる」は通用しないものとする。

世の中には逆の手順を踏むことによってもとの状態に戻る事が往々にしてある。
この場合を逆に進んでみるとしよう。
「牛じゃなくなれば寝てすぐに食る」
つまり牛じゃなくなれば寝てすぐに食べてしまうらしい。
寝てすぐ食べてしまうとどうなるか、思考実験してみよう。
結果:むせる。

しかし、一番の問題は「食ってすぐ寝ると牛になる」と言う迷信をわざわざ無駄にこんなに話を広めてしまう私の頭だろう。



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