自転車の記憶



自転車についてはずいぶんと思い入れがある。
独りで乗れるようになるには少々時間がかかった。
まず、車輪が直線に二つ。
それまで補助輪(俗称「ごろ」)をつけていた俺には信じられなかった。
三角形がもっとも安定した形らしい。
そのためにはタイヤがもう一つ必要ではないか・・・?
自転車ごときの速度で安定を保つことが出来るのか・・・?
幼心(五歳)にそんな事を考えてた。
・・・いやなガキだな。
それはまあよい。
そんな事を考えてはいたがやはり自転車の便利性には目をみはるものがあった。
気がする。
そこで練習!!
と普通は思うのだろうが俺は違った。
誰かに乗せてもらおう!!
全く自分で運転するなど考えてなかったのだ。
・・・いやなガキだ。

乗せてくれる人は家が近くじゃないといけない!!
そう思って思いついたのは「まーさん」だった。
が、彼女は自転車に乗れない!!(注:俺の思い込み。本当は乗れたかも。)
こはいかに!!!(注:現代の言葉ではない。)
近所に住んでいる人で頼める人がいないではないか!!


ここでやっと普通の人と同じ考えにいたる。
つまり自力で自転車に乗ろうと思ったのだ。
やっと人並まで考えが到達したといっても過言ではない。
最初のうちはバランスの取り方が分からなくてこけたりしていたが・・・。
やがてコツをつかんで何とか自転車に乗るという言葉が当てはまる程度までになった。
しかしここで大問題が起きた。
曲がるのが苦手になったのだ。
ハンドルを曲げると腕の角度が変わりバランスを取るのが難しくなる。
いとをかし!!(注:現代の言以下略)
これには悩んだ。
いくらやってもその都度角度を変えるから慣れることが出来ないのだ。
そんなある日。
あるテレビを見ていて気付いたことがあった。
競輪の選手はハンドルを曲げることではなく自転車自体を倒すことによって曲がっていた。
これに気付いたら話は早かった。
そうでもないな。
でもまあ、何とか出来るようになった。
ここで気付いたのだ。
なぜ自転車が二輪なのか。
どうやら曲がる時のためらしい。
三輪だと車体を倒しても曲がれないようだ。
倒しやすいようにだな。
それからというもの、素敵な自転車ライフを送るようになった。
一例を挙げよう。

「車と2kmの道のりをどっちが早く着くか勝負して勝った」
「自転車で車をあおった」
「前輪が穴にはまり、俺はそのまま吹っ飛んで空中で一回転した」

などである。
かなりのスピードを出していて、その時に横から信号無視の車が来たこともある。
ガードレールを蹴って無理矢理自転車を止めたものだ。
よくあれで足が折れなかったなと驚いている。
やはり日ごろの行いがよいせいか?
うむ、そうであろう。
まあ、ガードレールを蹴って足を折った人間の話もあまり聞かないから普通なのかもな。
いや、ガードレールを蹴って自転車を止めた人の話しも聞かないな・・・。
みんな照れているのか?
まあよい、たまにはガードレールも役に立って本望だろう。
それはそうと何の話だったか?
・・・・・・ぬぅ・・・。
まあよい、悩むから俺は生きている。
最近の学説では必ずしもそれが正しいとは限らないようだが。
考えるから「私」が存在する。
しかし考えているのは「私」ではない事のほうが圧倒的に多いらしい。

脱線中脱線中

なぜなら自分の知覚(特に視覚)で感じ取ったものは錯覚に陥りやすい。
長さが同じなのに周りに描かれているもののせいで違うように見える線分などは代表的だな。
つまり自分自身が感じ取っているのは長さの違う二つの線分。
なのにその長さを指で示そうとするとどちらも同じ長さを示してしまう。
つまり自分が思った行動にどこかで修正がかかっているのだ。
それがどこかは分からないが。
しかし視覚にも引力のような物が効くらしい。
このあたりは実際見てもらわないと分からないかもしれない。

小さい点を結ぶと何の形に見えるだろうか?
実は小さな点同士を結ぶと正方形になるのだ。
実際に取り込んでやってみるといい。
正確な正方形になるはず。
このように人間の視覚など簡単に騙せるのだ。

たしか・・・これは自転車の話だったような気がするな。
そうだな、自転車の話をしよう。
高校の頃だったかな?
自転車を許可されてないのに毎日自転車で行っていたのは。
懐かしいなぁ。
まあ、専門学校の頃などは校則などあってなきがごとくだったが。
・・・いきなり書く事がなくなったな。
俺の脱線能力をいかんなく発揮したことで満足してこの話を終わろう。



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