文学、そしてその可能性において



世界には文章の表現技法は多々あるものだ。
それはもうわんさかと。
ここに書けないほどわんさかあるので書かないのだが。
私自身はその中でも偉大な表現法だと思うのは擬人法とメタ表現である。

擬人法は物を人として見立て、感情、言語、思考などを人間と同じように持っているかのように表現するのだ。
無論、その場合元来実際に感情を持っている生き物である場合、そちらの感情は切り捨ててしまう事が多い。
人間に理解可能な感情や思考を持っているかどうか定かではないので文章化出来ないし、出来たとして普通の人間が理解できるかどうか不明だからだ。
動物の感情→人間の言語→特定の人間による文章化→他の人間による理解、と三度の変換作業が必要になってくるので誤差も大きくなるだろう。

メタ表現とはつまり、小説の主人公が自分が小説の主人公である事を知っているような文章を指す。
「そろそろ俺も引退時期かもな、だってこの小説自体がもう五作目だし。」とか主人公が言ってた小説があったが、そういうものだ。
ただ、問題はあんまりメタ表現が過ぎると、主人公が自分自身が出ている小説を読んで最終ページを見て謎を知って、二ページ目で解決するというなんだかメビウスの輪のような話が出来てしまう。
都合の良すぎる事は主人公に教えては駄目という事だ。
つまり、ページ消費のためのご都合主義であり、ええと、何だっけ。
話を戻そう。

この二つをよく使っている小説としてこれがあげられる。
「拙者は猫なんだニャー」(熱狂的なファンとかが文句言ってきたりするとやなのでやや変えています)
だからどうしたと言われると困ってしまうが、まあこの「拙者は〜ニャー」は擬人法とメタ表現が使われている小説としてある世界で有名だ。

この擬人法やメタ表現、出来たいきさつは詳しくは知らないのだが結局こういう事が可能なのだ。
どちらもある意味視点の追加と言う事になるかと思う。
擬人法であれば小説の内側の内側に対する思考可能なポイントを増殖させる。
例えば主人公一人しかいない部屋の様子を表現するとき、主人公の思考または発言か地の文以外で表現する事が出来ない。
が、擬人法を使えば部屋のドア、壁、ソファー、服、時計、部屋の隅っこに出来る埃の塊、耳たぶ、薬缶坂、シシカバブー、湯上り卵肌等からの視点も追加できる。
つまり、内→内の視点の追加、である。
メタ表現は内→外、つまり主人公や他のキャラクター、さらには擬人法を使って表現された鉛筆、ミミガー、なまはげ、松山名物一六タルトにすらも小説外への視点が追加する事が出来る。
つまり、何と言うか、孫宇宙から子宇宙や親宇宙のイメージをつかめるというか、ええと、ええと、もういいです。

そういう事で、この文章でメタ表現を使えばつまりンガヴァさんとあなたとを会話させる事すら可能になるのだ。
はい、ンガヴぁさんに「こんにちは」と挨拶してみてください。

で、提案なのだが、擬人法があるならば擬描法や擬犬法があってもいいのではないかと思うのだ。
例えば「拙者は猫なんだニャー」を擬描法で書いてみるとこうなる。
「にゃーにゃーにゃにゃにゃにゃー。」
擬犬法だとこうなる。
「わんわんわわんわんわわわにゃー。」
視点の追加だけではなく、使用言語や思考、感情すらも無限に使えるようになる。
これは文章における革命、文章革命ではないだろうか。
名づけて「文章革命'97 夏、いえなくて」である。

それならばメタ表現にも機能拡張をしてやらねばえこひいきと言うものだろう。
メタ表現には、今度は外→内の機能を追加してあげよう。
ええと、つまり外側の視点の人が内側を知るようになる、とそういうことだ。
つまり外側の視点の人間、つまりあなたが外側の知識を持ったまま内側、つまり小説内に取り込まれるのだっ!
そしてそこで生き絶えればそのまま人生終了と、何とスリルとサスペンス、エロチックで恍惚な光を放つ小説だろう!
とか書くと幻でも見てるのではないかとかんぐられるがそんな事はない。
名づけて「文章革命'3.16 雨季、鍋焼きうどんは汗かくなあ」である。

「メペオペフォー」
ンガヴぁさん照れ屋だからやっと勇気を出して返事したみたいですね。



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