猫時間通信

2003年12月

 

■2003/12/31■ 言葉と「本当の自分」

クリスマス前あたりに、ちょっとした炎症だった外耳炎が悪化。リンパ腺が腫れて、耳も痛く、寝返りを右側にうてない(つまり右耳)。寝ている間に自分で耳をほじくってしまうのが原因なので、自業自得。だが、もはや自分でどうにか出来る状況を越えてしまい、22日に医者に行く。2〜3年ぶりですかね、と尋ねたら、1年半ぶりだとのこと、思ったより短い間隔。ただ、子供の頃は季節が変わるたびにやっていたように覚えている。幸いにして、少しの投薬で順調に回復した。

耳鼻科に行くと、たいてい親子がいる。風邪、鼻詰まり、私のような外耳炎などは、子供に特に多いからだろう。待合室で思ったのだが、ここ数年病院で出会う子供の情緒不安定さが、今回はあまり感じられない。子供の情緒が安定してくるのは、親の気持ちが安定してくるからだ。親が不景気に慣れてそれなりに気持ちが落ち着いてきたのか、景気が回復してきたのか、そんなのとはまったく関係がないのか。

こんな少ないケースで一般化などする気はないけど、ちょっと気になった。


クリスマス明けに、イラン南東部で地震。SARS、テロと戦争、そして地震被害(日本でも多かった)。

これほど被害が大きいとは。ニュースクリップで収集される情報によると、支援物資よりも、暖をとる家、そして人が必要らしい。しかも、イラン政府がどこから手を付けていいかと考えるくらいの被害のようだ。実際に現地で活動をしようにも、インフラが破壊されていて、救援自体が困難を極めているとも聞く。

日本も自衛隊を派遣するなどとやってるが、イラクへ出す分を回したほうがずっといいくらい。


もはや暦日付では元旦に入ってしまったが、テレビで「年越しトーク 心に灯をともす」というのが目に入ってしまった。犬養道子、養老孟司という豪華対談。養老本が売れまくった年だが、この方はさらりと軽く放つ一言が、わかりやすくて力がある。売れるのも道理だ。しかも、難民問題に自力で行動してきた犬養氏である。確かな言葉を語る二人のそろい踏み。上記のような問題が多発して、しかも日本も自衛隊をどうするかと騒いでいる今こそ、このような番組をもっと皆が見る時刻に!

犬養氏の「日本人はsense of humorがないの、つらい時ほどそれがいるの」という、すてきな言葉。

また、番組の最後に、日本人が自ら動けない人が多いことに関して養老氏が触れた言葉。「考えても、筋肉を動かさなければ伝わりようがない。そして、語る、手を動かす、そういった筋肉の動きを通じて、周囲への働きかけが起きて、そこからほんの少しでも世界が変わる。またそれを感じて、次がある。これを繰り返していかないと」という言葉は、そっくり私の大学時代の指導教授の言葉と同じである。分野の異なる学問であっても、人や生き物について徹底的に考えた方は、同じ結論に達する。これも大切な言葉である。


厳しいときほど、一発で解決してくれる何かを期待する。うまくいくには、いい方法、わかりやすいストーリーがあるはずだと期待する。それを得て、本当の自分、本当の心、本当の人間らしさ、本当を求めることが出来る・・・しかし、自分は自分、あなたはあなた、本当の自分は今ここ以外にはいない。

生き物というのは、偶然の経験を集約しながら、環境にうまく適応できるようになる。学習するということだ。猫が人に媚びて餌をもらえると知る、といったことも、人間の学習も、ほ乳類としての基本原理は似ている。ただし、人間は言葉を使って、経験を記述する。つまり、言葉で経験を保存しておける。誰かに伝えれば、別の場所や未来のどこかで同じようにやれる。そのためにこそ、大きく複雑な脳組織を持っている。記憶容量が大きく、雑多な事象の中から共通点を探しだし、目前の現実から一歩引いて、抽象的に考えることも可能だ。

言葉を使う際には、手順や、場所や、行き方や、時間などを筋道立てて記述する。平たく言えば、ストーリー(筋書き)を描く。それがあるからこそ自分も他人も、言葉に沿って行動を再現できる。言葉を持てば、それは必然的に他人との関係と、ストーリーを持つ。いいストーリーがあれば、うまくやれる。そこまではいい。

言葉を保存し、使っている「主体」。脳の中での活動である。これが「本当の自分」である、と思い込むと、五感の示す状況を受け入れながら恙なくやっていこうとする意識下の自分が、本当の自分ではなくなってくる。言葉は本来、人間がより活発に生きるための道具だ。それが主体になってしまうと、自己の分裂が始まってしまう。他人がどう思ってるかが気になり、自分をどう見せるかが気になる。そして、本当の自分になるため、あるいは本当の自分をわからせるために、どうすればよいかが課題になってしまう。

また、言葉の道具としての鋭さを追い求めすぎることもある。出来るだけ単純な原理で、より多くを説明しなければならないという「オッカムの剃刀」は、思考の上で重要だが、それにこだわって「世界のすべてを単一の原理で理解しよう」と考えると、原理主義に簡単に陥る。宗教、学問、様々な文化活動、どの分野においても。

しかし、どうあっても、自分はここにいる。ここにいる自分以外に、自分はいない。本当の自分は、今ここにしかいないのだ。主体を追い求めすぎて、自分を見失ったり、原理主義に浸って他を圧倒するだけでは、生命がもったいない。自分が、あっちにもこっちにもいっぱいいて、皆がそれぞれの自分を持って生きている。相手を完全に否定し抜くことは、しないほうがお互いに得だ。

いろんな自分同士がいて、それぞれにまぁ愛らしいやつだと思ってみようか、そう考えるだけでも気が楽になるんじゃないかな。危機の多かった今年、いつも思っていたことだ。もっとも、最初に考えたのは19歳くらいだったけど。


今年はこれまで。皆さま、よいお年を。


 

■2003/12/23■ 冬至前後の小ネタを3つほど

今日は妙に暖かい。穏やかなのはありがたいですけど。

だいぶ以前にいただいたかぼちゃが残っていたので、先週は半分だけ煮てみた。どうもうまくいかん。で、昨日の冬至は外食になり、しかも今日はクリスマス風料理になってしまう(本当のクリスマス料理ではない)。近所のいい食材を置くスーパーがクリスマスモードになっていて、たんぱく質とビタミンや繊維質をバランスよくとれるように、クリスマス向け食材を組み合わせるのが、意外に簡単だから。ケーキなどはどうでもよし。チキンは買ってくる。ニンジンやキャベツを温野菜付け合わせにして、サラダと茹で卵などを用意。ご飯を炊いてしまったので、なぜかスープでなく、しめじのみそ汁。なんだかなぁとは思うが、どうせ甘辛の日本風照焼きチキンだし、いいんだ、家庭料理だから(強引)。おいしかったし、ラクだったので、よしとする(ちょっと忙しいんです)。チーズはこのラインナップには少々あわないし、お腹がいっぱいになってしまったので延期。

そういえば昨日は休みを前に、忘年会など行事のピークだったようだ。そして23日以降は身近な人々との行事が増えていくのかな。帰路に人々の様子を観察する。駅を降りると、カップルは休みを一緒に過ごすための買いだし袋を、二人で分担して下げている。もちろん野郎どもや女性だけで楽しそう(?)に歩くのもあり。と思うと、野郎ども数人組が、押し掛けた友人のアパートの入り口で固まっていた。

「すげー、おれの部屋より汚ねぇぜ!」

「余計なお世話だ、用がないなら帰れよ!」

・・・味わい深い応酬ではある。卒論を抱えた学生は、今が忙しいピークだろうしね。

世間は景気が回復しつつあるとかいうが、企業の業績が予想より良かった程度。まだ誰も景気回復を実感しているわけではない。そうは言いつつも、デパートの売り場は以外に混雑している。家で、昨年より少しだけでも豊かに、という気持ちだろうか。いずれにせよ、平和と微笑みを。


この夏、緑茶系飲料「生茶」の広告に「生茶パンダーズ」なる人形が使われた(松嶋奈々子さんは夏休みなので、とかなんとかいうやつ)。セサミストリートのクッキーモンスターのような構造で、手をいれて、口をバクバク動かせるヤツ。

秋からはUFOキャッチャーでもたくさん見かける。動いている人形はともかく、うつろに口を開けた人形が山積みになっているのは、かわいいを通り越して、不気味。しかも深夜のゲーセンの店先で、暗がりにぼうっとUFOキャッチャーが光っているのは、なお不気味。

磁石を内蔵させといて、遠くから強い磁力で引っ張ったりすると、ガラスケースの中のパンダーズが口を開けたまま、むわーっと張り付いてくるように見えたりして。そうなると、不気味というより怖いかもな。


新聞などで今年を振り返って、という記事が多い。朝日新聞の読書欄、書評担当の各氏が挙げる「今年の3冊」を掲載。川上弘美氏が一番に「博士の愛した数式」(小川洋子、新潮社)を挙げていた。私としては、これと丸谷才一「日の輝く宮」が、上半期の小説でのすてきな収穫だ。

下半期は、未読がある。「ららら科學の子」、「シンセミア」といった大作。ので、まだどれがどうとは決めかねる。ただ、今月の文學界に掲載されていた山田詠美「間食」。するりと読めて、すごく心に引っ掛かる。こういうのがあるから、やっぱり雑誌を買うのはやめられない。そして、川上弘美氏は上記3冊の選外の形で、やっぱり触れていた。

書籍が出てから文庫まで待つのは個人の自由だけど、雑誌も楽しいもんです。漫画の週刊誌や月刊誌を買ってる人なら、その楽しみは本来はわかるものだと思う。まだまだ捨てたもんじゃないよ、活字雑誌も。もっと目を通そう、図書館じゃなくて、自腹で!


 

■2003/12/18■ MacPowerで今一番面白い記事

Macintosh関係の雑誌はかつて大量にあった。月刊誌としてMacLife(BNN)、MacJapan(技術評論社)、MacPower(アスキー)、MacWorld(IDGジャパン)。これらが最初にそろった月刊誌か。他に季刊誌としてMac+Cyber(マックプラスサイバーと読む)なんてのもあった。Mac+Cyberは、まだMacLifeもなかった頃に刊行された幻の「日本語版MacWorld」2号の後を受けたような雑誌(後のMacWorldとは違う)。実はこの幻の雑誌がMacLifeへと発展したと記憶している。少し遅れて出てきたMacJapanは一部でかなり人気があったけど、割合早く休刊(Macがエンジニアの興味の対象から、ビジネスマンの興味の対象に変わる頃、つまりMacWorld Expo開催が安定した頃のはず)。

これは1980年代末から1990年代前半の話。Macに限らず皆が情報に飢えていて、月刊誌は出せば売れる状態、毎月18日に分厚いパソコン情報誌が店頭に並ぶため、書籍雑誌取次会社が「頼むから18日に集中させるのはやめてくれ」と頼むくらい、雑誌も書籍も大量に出ていた。

少し遅れて加わってきたのはMacUser(ソフトバンク)。また、MacFan(毎日コミュニケーション)が月2回の隔週誌として、新しいノリを生み出した。いずれもMacWorld Expoの全盛期に対応している。

1995年以降のインターネット時代に突入してから、Web日刊に多くの情報が流れるためか、月刊誌の役割は減っていった。これに伴い、本来雑誌の大きな役割であった広告も目を通す人が減り、そのためにさらに部数が減るという悪循環。MacUserは早めに休刊し、MacWireというWeb日刊に移行(これも2003年にPCUpdateという総合PC情報に統合)。紙媒体での休刊では、MacLife休刊の衝撃が大きかった(2002/01/18の記事)。


現在も続いているのは、毎日コミュニケーションズのMacFan系(MacFan、MacFan Beginners)と、アスキーのMacPowerおよびそこから派生したMacPeople

特にアスキーは今年、長らく初心者向けを掲げてきたMacPeopleを、すべてのMacユーザのための情報誌に転換させている。いわゆる情報誌としての内容はほとんどすべてMacPeopleへ移った。たとえば新しいOSであるPantherが出た際に、新機能紹介と速度の徹底比較といった記事をこちらに集中させた。

そしてMacPowerは、Macを業務に使う、あるいはヘビーな使い方をする人々に対して、読んで考えさせる記事中心に構成しているようだ。Pantherでも、むしろ技術と使い勝手がどう作用しあうかを考える記事が中心だった。すべて成功しているかは別にしても、この方向は面白い。読み捨てるだけではない雑誌も必要だ。それに、本当に重要な情報は、2誌の内容を重ね合わせたムックとして刊行される。最近出たPanther特集のムックなども同様。こういう形のほうがありがたい。

私はココロザシを買って、MacPowerを買い続けている。両方買わないのか? いや、情報誌的な内容は不要になるのも速くて、雑誌の処分にいつも困るから、MacPowerだけ。


そのMacPowerで、私がいま一番面白いと思っている記事。それは巻頭連載エッセイ群の「ノート〜コンピュータとMacにまつわる思考の遍歴」。劇団主宰および作家、宮沢章夫の筆。いまのMacPowerに、もっともふさわしいと思う、このエッセイは。毎月楽しみにしている。今月もおもしろい。読み飛ばしている方、バックナンバーを遡ってみましょう。

・・・我ながら今月は本当にMacの話題が多いな。Pantherを使いだして気に入ってることが、無意識のうちに影響しているのかな。でも、この使い心地はもっと脚光を浴びていいと思うよ、うん。


 

■2003/12/16■ 東京と北陸の空、女子十二楽坊とYMO

穏やかだった昨日とは打って変わって、北からの強風にさらされる。夕刻から急激に気温が下がり始めた。東京の冬。空は高く澄み、気温の割には北風が冷たく感じる。寒さより冷たさが強いというか。

数日前まで、北陸方面にいた。山が海際まで緩やかな傾斜を造って、雲が去っては現れる。低く灰色の空。同じ季節の、同じ国土とは思えない。気温は低いが、風が吹かなければ冷たくはなく、単に寒い。もっとも、雪のシーズンになれば話は別だろうけど。

低い雲が去ってからのぞく青空は、とても優しい色だ。ちょっとした川やせせらぎの近くに、ススキの穂が並んでいる。緑が多いが、関東の雑木林と何か違う。ただ、何か昭和の景色を連想させるものがある。こういう風景を描いたものは、京都が画壇の中心だった19世紀までではなく、20世紀以降に目にするようになったのかもしれないな。国木田独歩が武蔵野を見出したように。

東京に戻って空を見上げた時、やっぱり私は太平洋側・関東平野で育った人間なのだと思った(善し悪しの問題ではもちろんない)。


女子十二楽坊。今年TVと新聞広告にのって、大きく売れ出した。今年の紅白歌合戦に出場する他、NECの携帯電話への広告出演も決まった。CDショップから外に出て、あちこちで売られている。

デビューCDが出た直後、試聴した際の第一印象。

「おぉ!YMOって、新しかったんだなぁ・・・」

もちろん、響きもメロディも違う。第一、彼女達が奏でるのは中国の古典楽器だ(古典といっても、明代清代あたりの響きが中心)。ただ、ビートに乗って、アジアを連想させるメロディが駆け抜ける姿は思いの外、似ている。というより、当時既に民族音楽やアンビエント、響きそのものに関心を寄せていた細野晴臣が集めたユニットがYMOだったわけで、連想させて当然か。

もちろん「だから女子十二楽坊は古い」などと言うつもりはない、あれはあれで魅力あるもの。ただ、1979年に別の文脈でコンセプトを提示していたYMOが今でも聞き続けられ、リスペクトされているのも、大変に面白い。


 

■2003/12/06■ まっとうな相談というサービス

雨の予報がどんどん変わっていき、今日の東京は雨が降らず、夕方には雲もなくなっていった。夕刻、東からぽっかり月が上がってくる。買い物をする街はクリスマスの電飾に彩られて、冴えてきた空気が美しい。やっと師走を実感し始めた。


ところで、パソコンについてわからないことが出てきたら、どうするだろうか。多くの方々は、とりあえずメーカなどのサポート電話にかけてみるが、つながらなくてイライラして、手近の自分より詳しそうな人をつかまえて相談する、というケースが多いようだ。少し知識があれば、インターネットで調べてあたりをつけてから、尋ねるとか。

私も尋ねられることはしばしばあるのだが、ここでいつも思うこと。たとえば自動車メーカーに勤めている人がいるとわかった途端、「今度車の調子を見てもらえますかね」と尋ねるだろうか。まぁそういうケースもあるかもしれないが、たいがいは整備屋かディーラーに尋ねる。困った場合に、どこにどう尋ねるべきか、ある程度の目安が社会全体にでき上がっているからだろう。

実際、エンジンの設計をしているからと言って、目前の人の質問に必ず答えられるとは限らない。そういうことはむしろ、普段顧客に接することが多いサポートエンジニアやフィールドエンジニアのほうが得意だ。どういう問題が起きた場合にどう答えるべきか、ディーラーや整備関係のところにはそれなりのノウハウも確立されてきているだろう。さらに、社会全体に関わることだけに、長い時間をかけて法律なども整備されてきている。

パソコンとなると、誰に聞いていいかわからないまま、とにかく手近な人をつかまえて尋ね、相手がコンピュータの仕事に何らかの仕事で関わっているのに答えられないと、下手すれば「使えない人だね」などと言い出すことさえある(私は言われたことないけど)。コンピュータの仕事と言っても、ソフトウェアなのかハードウェアなのか、組み込み機器なのかエンタープライズ向けマシンなのか、ネットワーク寄りなのか単体で済む話なのか、一般ユーザ向けなのか特定業務向けなのか等によってまったく異なる仕事なのだが、そんなことはおかまいなしに相談する。さらに、一度相談して回答があった相手に再度相談された際に、「あれ、あなたの機種とメモリ、それにOSは何でしたっけ?」と尋ねると、「専門家なんだからこっちが何使ってるかぐらい覚えとけよ」などと言い出す人がいるという(これも私が言われたわけではないのだが)。

設計・開発エンジニア、テスト担当、サポートエンジニアという職種によってもスキルがそれぞれ少しずつ異なるし、先に挙げたような分野によっても必要とされる知識が異なる。もちろん重複する部分はあるし、知識の幅が広いほどよいのだけれど、確信を持って答えるにはやはり日頃培ってきた知識や経験が大きいし、まったく異なる分野には責任を持って答えられない。また、コンピュータ分野はエンジニアがとにかく不足しているため、技術のある人をサポートにあまり回さない傾向が強いかもしれない。

さらに、パソコンは誰かに何かしてもらうのではなく、自分で学んで自分で設定する以外にどうしようもない部分が多い(企業なら部門のパソコン担当か、情報システム部門の人がやってくれるけど)。それなのに、相談を受けられる場所が異常に少ない。サポートも「持ち込んでやってくれる」ことはまずない(秋葉原にある東芝のPC工房などは数少ない例外だろうか)。サービスやサポートが必要なのに、あまりに素早く変化し、追いつく前に次の段階に入り込んでいく。そのために、手近な人に相談し、うまくいかないとなじってしまう人さえいる、という現象につながっているのだろう。


Apple Store Ginza(再三で申し訳ない)。ここにはGenius Barがある。誰がつけたんだかえらく恥ずかしい名だが、要するに駆け込み寺。マックは割合簡素に扱えるほうだが、それでも使っていれば疑問はいろいろ出てくる。新版のOSを安全にインストールするにはどうすればいいかとか、時々ディスプレイがちらつくのだがとか、メモリを増設してほしいとか、インターネットにうまくつなげないとか、ビデオカメラとうまく接続できないとか、映像をこう編集するのは標準添付のソフトで出来るのか別に買うのかとか。わかりにくいことについて、OS、ハードウェア、周辺機器、各分野のソフトウェアに精通した人がいて、質問をすれば彼らが答えてくれる。

これはアメリカで好評であり、Apple Storeの目玉でもあるせいか、日本でもかなり力を入れてスタートしたようだ。実際、メモリ等の増設や、インストール方法や使用方法などの相談も受けられる。無料である。

あえて利用してみた。新しいOS、"Panther"のアップグレード方法について注意すべき点を聞いてみる。相談カウンターの近くに質問票を持った人が数名いて、近づくと「ご相談ですか」と声を掛けられる。そして、主な相談内容を聞くとカウンターの中に取り次ぎ、椅子を勧められる。そこにエキスパートがやってきて、相談が始まる。

相手は米国人(と思われる英語訛り)だったが、流暢な日本語で質疑応答を受け付けてくれる。最初に今使っているOSのバージョンを確認されたので、こちらからもNorton Internet Securityを使ってるのだが外した方がいいのだろうか、手順はどうするのがいいかと告げてみる。こちらの質問内容を受け取りながらしっかりと把握し、質問の裏にある困りそうなポイントまで先回りして教えてくれる。上書きインストールではなく、アーカイブインストールが安全であること。ホームフォルダを新たに作って設定を一からやり直すまで気を遣わなくても、基本的にシステムだけ新規インストールであれば安定していること。心配なら全部バックアップをとって初期化することになるが、時間のコストが大きいこと。こういった質疑応答をしながら、Nortonの対応状況がどうなっているかはこちらで確認できると言いつつ、その前にさらに確認したいポイントなども教えてくれる。おそらく彼にとっては母国語ではない言語のはずだが、非常に的確な質疑応答だった。

これほどまっとうなサービスを受けた記憶は、東芝のPC工房と、日本NCRの持ち込み修理システムくらいか(Amuletも丁寧だったな)。しかも、Apple Storeは修理が中心ではなく、これからやることの不安や問題点などを先に相談して解決することも出来る。これは東芝でもやれるし、彼らもものすごいプロフェッショナリズムがある。ただ、Appleは店舗と一体化してサービスを始めた。

見て相談して、買って、さらにマシンの増強をして、インストールなどの相談も出来る。無料デモや有料セミナーも逐次開催されている。しかも店の雰囲気造りから一貫した空気がある。こうした動きは、車のディーラーを連想させる。そのようなサービスさえ、PC業界はいままでなかったに等しい。ある意味、画期的と言える。

しかし、こういう動きから踏み出して、自動車や電気業界がやってきたようなサポートの整備がもうちょっと進んでもいいと思う。そうなれば、相談したい人が、どこに何を相談するのかも、以前よりよくわかってくるだろう。

ちなみに、日本では「サービス」というと、無料で何かくれることを意味することがしばしばあるが、それは「フリー」だ。サービスとは、まっとうな扱いを受けたおかげで、きちんと目的が達成できることじゃないだろうか(もちろん有償の場合だってある、欧米のホテルや飲食店にはチップの伝統が残っている)。


 

■2003/12/05■ iPodと音楽

11月末から銀杏の黄色が映えてきて、12月でも少し暖かいほうかなと感じていたら、いきなり今日の東京は9度。肩を怒らせて歩く人が目立つ。11月下旬、少し雨が続いた頃に蛙があちこちの道を渡っていた。あれは冬眠の準備だったに違いない。

そういえば数日前、就寝しようと、後ろ手に部屋の戸を閉めようとした。天井の明かりは落としてあり、枕元の小さなスタンドだけがついている状態。なんかドアを閉め切る直前に、ミキミキというようなイヤな音がする。なんだろう、木片でも挟まっているのかなと、暗がりで見えないまま、ちょいと指でドアの根元に何があるかなとつついてみたら、なんかヌルッとしたイヤな感触。思わず声が出そうになり、明かりをつけてみる。

ゴキブリが一匹、死んでた・・・素手でゴキブリに触れちまったのなんて、小学生以来だ(同じように偶然触れちまったことがあったんだ)。暖房で部屋が温まっていたからか、いつからいたのか、もう寒くて動けないんでこんなことになったのか。

そんなこと、どーでもいい。急いで手を洗いに行くと、風呂上がりで暖まっていた自分の顔が、みるみる蒼白になっていくのがわかる。気持ち悪い〜〜(感触を思い出しちまって)。

死骸を処分して、今度はドアを閉めるとき、さっきの音を思い出しちまう。ミキミキって殺っちまったんだよな、う〜。ドアの掃除は翌日にした。


Apple Store Ginza開店初日の行列で、iPodを持ち歩く人々を大量に見た(先日の記事)。私はしかし、iPodで大量の音楽を持ち歩きたいとはあまり思わない。iPodはすぐれた製品だとは思う。それを使っている人々、気に入る人々も当然たくさんいるとは思う。でも、iPodを使おうとは(いまのところ)思わない。私にとっても、音楽はとても大切だが、だからこそ使う気にはなれない。

iTunesはいいソフトだと思うし、私も時々使っている。もともとパソコン類は雑音を発する機械なので、何か雑音を遠ざけるものがほしくなる。そのために、iTunesをジュークボックスにする(インターネットラジオが便利)。いずれにせよ良い音を聞く環境ではないのだし、そこそこの音質でいいやという割り切りだ。それを外にも持ち出すのがiPodだろうし、外はもっと雑音が多い環境で聞くのだから十分な性能を持っているのはわかる。

ただし、これは私の望む音楽ではない。iPodから流れる音楽は「音楽を聞く」という体験ではない。それは自動車の通る音や、雑踏の足音と話し声同様に、環境音のひとつだ。そういう音楽の楽しみ方もある。軽く楽しいポップスや、低音域を厚めに作り込んだダンサブルな曲を緩急つけて流すのはそうだ。一方で、少し気取って、あるいは少し真摯に耳を傾ける方が楽しい曲もある。iPodから大シンフォニーを流しても、実感が全然湧かない。繊細なルネサンス時代のポリフォニー声楽曲も同様。音質もそうだが、それ以上に「聞く」という体験ではなく、周囲に溶け込む記号のような音になってしまうからか。

私にとっては、こういうiPodと似合わない音楽も、とても大切。それに、音楽を持ち歩くよりも、外界の(不愉快だったりする)音も含めて、やはり体験の一つだ。耳を塞ぎたくはない。

古くさい感じ方だな。でも、仕方ない。


交響曲というジャンルが確立したのは18世紀の終わり頃。そして、19世紀を通じて作られ、20世紀に入ってからは注目度が減少している(もちろんまだ作曲され続けているけど)。

この時代は、今ほど機械音に満ち溢れた時代ではなかった。蒸気機関車も工場の機械化も19世紀中葉から。西欧の多くの人々にとって、最速の移動手段は馬か馬車。100万都市など、世界全体でもロンドン、パリ、江戸くらいしかなく、雑踏という概念もいまとは違う。ましてや、人口集中もあまりなかった18世紀以前の西欧や日本はどうだろうか。(中世のコンスタンティノープル/イスタンブールや、唐の長安などはまた別だろうけど。)

現在の都市から自動車と拡声器をすべて取り払った音の風景をちょっと想像してみる。静寂ははるかに深い。高層建築もないから遠くの音も今より響きやすく、耳のいい人がびっくりするくらい遠くの音をとらえていたはずだ。こういう環境なら、鐘やラッパが信号と同様の役割を果たすことも出来る。交響曲で重要なシーンにラッパや太鼓が鳴るのは、単に音響スペクタクル的な効果だけでなく、ラッパと太鼓の音が持つ象徴的な役割が背後にあって「ここが強調点、重要な点」という心理的な効果を帯びたのもポイントだろう。もちろん、楽器の数が増えて音量が増し、音質が複雑になることから生じる生理的な効果(心拍数が上がる等々)も重要ではあるけど。

そして、この時代、今ほど音楽が気軽に聞けなかった分、一度音楽を聞くときにはたっぷりと様々な音と情緒に身を委ねたろう。繰り返しが多いのも、出来るだけそれを目覚ましく感じるためだろう。その振幅の大きさ、広さ、深さを思うとき、CDやLPレコードでも十分な音とは言えない。

コンサート会場で何もかも忘れて音に心身を浸す喜び。言葉の介在もなく、音の陶酔に身を浸すほどに、心がかえって覚醒してくる。これが単に音楽を聴くだけではなく、経験することだと思う。こういうことは音楽のジャンルを問わずに、存在する。CDを買って聞くことは、そのような音楽経験とはまったく違うベクトルにあるとは重々承知だ。iPodやMDで音楽を楽しむ人が増えるなら、まったく別のコンサート会場などで「音楽を経験する」行為の深さにもつながっていってほしい。「MDもCDもMP3も音はたいして変わらない」という人々も、圧倒的な音を経験を重ねれば、別の耳が開けるはずだと思うし。


 

■2003/12/01■ Apple Store Ginza

おぉ、もう12月だぁ。


昨日の11月30日。アップルがApple Store Ginzaを開店した日。場所は銀座三丁目、サエグサビル(旧住友銀行のあった建物)。銀座の目抜き通り、松屋の真ん前、教文館(書店と出版社)の近く。いい場所だ。しかも、エレベーターがとてもかっこいいという噂。かなり気になる。

アップルが何かやらかすと、雨だの台風だの地震だのがあるけど、この日もやっぱり雨。

「雨だし、最近のアップルの注目度は低いし。楽勝でしょう」

そう言いつつ、とりあえず行ってみる。地下鉄有楽町線の銀座一丁目駅から地上に出たのは、10時15分くらいか。行列がある。え?! 銀座一丁目の駅出口は、二丁目のダロワイヨや名鉄メルサのあたり。列は三丁目方向から。そう、まさにそのストアの開店入場のために並んでいる。仕方なく、一丁目方向に向かい、高速道路と京橋を過ぎて・・・おいおい、まだあるぞ!

フランス料理店シェ・イノの前を通り過ぎ、鍛冶橋通へ出て(am.pm.が面するビルの上にアサヒペイントのでっかい広告がぐるぐる回る交差点)、東京駅方面へ。おいおい、まだ列が続くぞ・・・なんと、東京国際フォーラムが見えるところに出て、信号を渡り、そこからさらに歩いてやっと行列の最後尾・・・なんだこりゃぁ?!

この地図で、赤い線が行列。もちろん、道の間は一応警備員が付き、横断歩道を渡るべく指示するから、地図の赤線のように人が連なるわけではない。しかし、相当な人数が銀座から東京駅近くまでいたことになる。

これに並ぶのか?>自分 いつもより早く起きて、ここで引き下がる気にはなれないというか、引っ込みがつかなくなったというか。結局、並ぶ。もはや、MacWorld Expoと同じ気分。

いやー、待つこと、待つこと。列の最後尾についたのは10時40分。店に入れたのは午後2時50分くらい。約4時間後か。私が到着したのは、列がいちばん長くなった頃らしい。当然、先着2500名様のTシャツなどもらえない。午後2時過ぎ、店員が行列にこのことを告げに来たときは、店員の顔も(罵詈雑言を浴びるのではと)引きつっていたが、並んでいた人々もただ黙って空気が凍りついていた。もうみんな、寒くて腹へって、どーでもよくなってたのかもしれない。ただ、雨が止んだのはありがたかった。というより、大降りだったら、私はあきらめていたと思う。

店内はしかし、店員がハイテンションで、歓迎ムード。最初、自分たちのために拍手をされていると思わず、なんで店員が拍手してるんだろうと思ってしまった。暖かい空気に飢えていたこともあって、入ると同時にみんなの顔が緩む。

意外に明るい店内(外がアルミニウム色で暗そうに見えるので落差が大きい)、ボタンのない各階停車のエレベータ、白を基調に明るすぎない統一されたトーン。エレベータに乗ると各階ごとに必ず光るリンゴのマーク。常に客に目配せをしつつ、うるさくないように気も配る店員。明るすぎず暗すぎず、質問には熱心に答え、混雑の割には居心地がよかった。特に、4階の鞄のコーナーは、通販ではなかなか決心がつかないものだけに、みんなが見ている。いや、買う人、多数。この階はインターネット・カフェやキッズ・コーナーもある。みんなそれなりに順番を待って、和やかに試している。我が家は一緒にいったツレとともに、4階でMac OS X 10.3 "Panther"のファミリーパックを購入。買うと、リュック型の白いリンゴマーク付き袋に入れてくれる。どこかのブランドみたい。

3階はシアターで、デモが行われていた。2階はユースケース別に、様々な機種でソフトを試すことができる。音楽なら音楽の代表的なソフトが数種類入っている。専門家向けというより、これから揃えたい人向けかな。周辺機器との組み合わせなどもわかるようだ。Genius Barもここで、質疑応答から修理受付なども行う。そして、1階が見下ろせる吹き抜け。

下を見ると、興奮状態と親切な店員の態度もあってか、マシンが大量に売られていく。PowerMac G5とCinema Displayのセット購入者をうらやましそうに見送る人々。PowerBookを買う人、iMacを買う人(20inch液晶のiMac発売日でもあった)、eMacを買う人、などなど・・・

ここは、MacWorld Expoのアップル・ブースだ。しかも、質疑応答も出来る人材が配置され、買うことも出来る。すごく安いわけでも、めちゃくちゃに品揃えがあるわけでもないけど、代表的なものは間違いなく揃う。また、よその店でもっと安い値段がついていたら、それを告げればそれなりに勉強するともいう。快適さを第一に考える人は、ここで本体からソフトまで揃えちゃうかもしれない。量販店のうるささとは別のあり方、これはこれで発展すると面白い。素直にいい店だと思う。

帰るころ、暮れ行く銀座の街にネオンが灯る。それを射すように、白いアップルのマークから放たれる光が回っている。ビルのてっぺんは、白いアップルマークがくるくる回るのだ。インパクトはある。以前、ワーナーグループが銀座2丁目のビルでやっていた、映画のデモを流すのよりずっといい。ただ、これまでの銀座の町並みと感じが違う光り方でもある。カラフルな銀座の街に、あえてモノトーンを持ち込んでいる。それ以上に、カルチェやシャネルとはまったく異なる無機質感も漂わせている。これは風景として定着していくのだろうか。


ちなみに、この日ほど大量にiPodを使っている人を見たのは初めて。いや、電車に乗ると結構iPod愛用者を見かけるので「売れてるんだなー」と思ってはいた。しかし、これほど使用者が並んでいるところは、見たことがない。外に自分のBGMを持ち出す習慣がない(あえて持ち出そうとはしない)私としては、これほど自分の音でくるまれたいと思い、かつ実行する人がいるのだと、感慨にふけってしまった。


 


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