洛北:鷹峯・概略

 

鷹峯の位置関係

鷹峯は江戸初期の文人、本阿弥光悦が開いた芸術村として有名です。その位置関係は、大徳寺から西へ進んで仏教大学に至り、そこから始まる長い坂を上ってゆく北西方面。上賀茂神社も同じくらい北にありますが、山中にある分、鷹峯のほうが離れている感じがあります。

ここといい、詩仙堂から北のエリアといい、江戸期の文人趣味は、市中より離れる傾向があったようです。芸術村という触れ込みがよくガイドブックに載り、私も一応そう紹介しましたが、実際に訪れてみればそこは実に静か。現代の芸能人のように華やかな街を生きるアーティストとはまったく違い、拝領した土地を活用して、世間より少し距離を置き、芸術技芸に浸りつつも、どこか醒めた目を常に光らせている・・・そんなイメージの場です(とはいえ、光悦は大成功した総合芸術家だったのですが)。

往時のここは、学僧や芸術家が数百名もいたと言いますから、人々が数多く暮らしていたのは確かでしょう。しかし、単ににぎやかというより、志を持つ者同士の場だったのでしょう。

名跡は三つ

バスで鷹峯源光庵前に降りると、始まりです。まずは一番奥の常照寺へ。

常照寺は光悦と息子により開かれました。日蓮宗の学僧が数多く学ぶ場として興隆しました。歌舞伎「桜時雨」では、島原の傾城・吉野太夫と、豪商・灰屋紹益とのドラマチックなストーリーが有名ですが、その吉野太夫ゆかりの寺としてのほうが知られているでしょう。山門は吉野太夫の寄進。そして、吉野太夫の墓もここです。吉野太夫は江戸初期の実在の名妓であり、鷹峯の興隆と時を同じくしています。ここが当時、知られた場所だったこともわかります。

バス停のほうへ戻って、源光庵が見えてきます。江戸初期に曹洞宗として再興されてから、現代に至っています。本堂の「迷いの窓」「悟りの窓」が有名。また、桃山の血天井も有名。関ヶ原の戦いの前に伏見城が西軍に包囲され、激戦の末に徳川方が自刃し、廊下が血に染まりました。その板を寺に手厚く弔ってもらった遺構です。実を言うと、私は鷹峯に二度訪れていますが、二度ともなぜか源光庵の拝観停止日に当たっていました。なぜか、ここには縁がありません・・・実は桃山の血天井のある寺に関してはこういうことが多く、ここより北にある正伝寺は迷って到着をあきらめそうになったり、大原の宝泉院は数度に一度、拝観停止日にあたっていたりしています。見るな、ということか?

そして、光悦寺。もともとは光悦が徳川家康より与えられた土地を、芸術村として運営していたところです。日蓮宗の寺院として保存されてきたもので、茶亭が立ち並ぶ姿はやはり寺院とは思えません。その優美な姿を眼にとどめながら、斜面に沿って歩くと、鷹峯や鷲峰が気持ち良く望めます。

周辺情報をいくつか

さらに先には、円成寺があります(私は未訪)。その先のホテル然林房から坂を下りると、着物のしょうざんが開いた庭園もあります。

ただ、源光庵前の鷹峯交差点から、仏教大学方面へ坂を下って歩くのも一興です。松野醤油から香ばしい醤油の匂いが漂ってきたりする中、のどかな坂道を何も考えずにゆっくり下るのもいいもの。仏教大学へ出たら、衣笠(金閣寺)方面今宮神社・大徳寺方面へ行けます。

逆に、バスに乗って思いっきり北にある、正伝寺方面へ行く手もあります。もっとも正伝寺とセットにする場合は、神光院までバスで行き、神光院や正伝寺を見て、そこから西方寺や大将軍神社に立ち寄ってから、鷹峯へ至るほうが、行きやすいと思います。(この場合、ゆっくり見ると大徳寺まで廻りきれないかもしれない。大徳寺メインなら、鷹峯→大徳寺が無難かも。)