紺天宮秘事集 −こんのあめのみやひめごとあつめ−
壱 杏の章
建礼門内には浮舟がいない。
空虚な空間をきょろきょろと見回して、宮卒も人もいないことを確かめると、杏は内門と外門の間の浮舟倉に飛び出した。
その名の通り、淡いだいだい色の髪を肩下あたりで切り揃えた娘だ。年のころ十三、四か。青の唐衣の袖を大きく振り、足首までの水色の袴をひるがえして走る。
浮舟倉の片隅へ行き、物入れの戸をそっと開けると、思った通り、葡萄がしゃがみこんでいた。
杏は、安堵のため息をついて、声をかける。
「やっぱりここだね、葡萄ちゃん」
「杏ちゃん……」
杏よりさらに一つ年下の黒髪の少女、葡萄が泣き濡れた顔を上げた。
「どうしてここに……?」
「承香殿の廊下で見かけたから。だめだよ、ここは星帝しか通っちゃいけない禁門なんだから」
「知ってるわ、だから隠れたんだもの。杏ちゃんも早く出てって。じゃないとまた叱られるわ」
「行かない。だってわたしは」
色白ではかなげな葡萄の顔を見つめて、杏はこくりとつばを呑み込む。
「……葡萄ちゃんの、恋人だもの」
葡萄が黒い瞳を大きく見開き、すぐに嬉しげに細めた。
「ありがと」
「ううん、わたしこそ。……さ、一緒にもどろ。守ってあげるから」
「……うん」
杏は葡萄の手を取って立ちあがらせた。彼女の手のたおやかな感触に、かすかな胸の高鳴りを覚えた。
無理やりそれを抑えつける。
内門をくぐってしっかりと施錠する。内裏に戻ろうと振り向くと、天井に届きそうな大きさの、石碑のようなものが宙に浮いていたので、二人して驚いた。
その石碑――宮卒は、真円の朱の瞳で二人を見下ろして、感情のない声で言った。
「杏さま、葡萄さま、ここは危のうございます」
「し、知ってるよ。迷いこんじゃったの」
宮卒は、宮の規則を破った者には容赦しないという噂だ。言いわけなんか通じないかも、と杏は首をすくめる。ぎゅっと力のこもった葡萄の手を、より強く握り返す。
しばらくして、宮卒が言った。
「門の外は人の生きられぬ世界でございます。お気をつけを」
そしてくるりと後ろを向き、しゅうしゅうと音を立てて去っていった。葡萄がほっと息を吐く。
「機嫌がよかったみたいね」
「玉兎だったらだめだったかもね。……さ、行こう」
手を引こうとすると、すっと引き抜かれた。ひやりとした感触で、杏はにじみ出た汗に気づいた。気持ち悪かったんだな、とこぶしを握って隠す。
宮の外陣を抜けて内裏にはいると、深い青色の天球が二人を包んだ。足元には一面の白い花畑、今の季節は可憐ななずなだ。その左右にいくつかの棟があり、正面に、勾欄造りの簀子に囲まれた承香殿が見える。
花々を踏みつけて動いていた黒色の石碑が、素早くこちらを向いた。後宮を司る口うるさい宮卒頭の玉兎だ。甲高い声が飛んでくる。
「杏さま! 葡萄さま! どこへ行ってらしたのですか!」
玉兎の叫びを聞きつけて、後宮の媛たちが次々に簀子に出てくる。その中に、冷酷無比と恐れられている湖藍媛、すべての媛の上に立つ太白媛などもいるのを見て、二人は震えあがる。
「まずい、大事になっちゃった。……葡萄、いそご」
走り出しながらちらりと横を見ると、花園の片隅に、白色の石碑がじっと立っていた。金烏だ。宮卒の一人なのだが、彼だけは目的もなくうろうろするだけで、何のためにいるのかわからない。
やがて、南殿にたどりついた二人の頭上に、玉兎の叱声が降り注いだ。
紺天宮は、天上に浮かぶ宮である。
その形は床に落ちた水滴に似ている。玻璃の天蓋、瑪瑙の床に挟まれている。差し渡しは百間あまり。名前の通り天が紺色に染まるほどの高みに浮いていて、地下人が立ち入ることはできない。もっぱら宮卒たちだけが、浮舟に乗って出入りする。
ここには二十四人の媛がいる。まだ幼いころに地上から浮舟で連れてこられ、星帝に侍る媛としての教えを受けている。歳を経り齢十八を越えると、機を逸したとして地上に戻され、また新たな媛が連れてこられる。
しかし星帝がここを訪れたことは、まだ一度もない。
杏と葡萄も、数年前にここに連れてこられ、姉媛たちの教えを受けつつ、星帝のお渡りを待っていた。
姉媛たちにさんざんお説教された杏は、疲れきって住みかの淑景北舎に戻った。
中庭に近い承香殿、弘徽殿などとは違って、内裏の北東の端にある、日もろくにあたらない小さな舎である。日頃はそれがうらめしいのだが、今は逆にありがたかった。こんなところに住む格下の媛は杏しかおらず、気兼ねがいらないからだ。
畳もない板の間に、人目もはばからず大の字に横たわっていると、渡殿にさらさらと足音がして、葡萄が顔を出した。杏は驚いて起き上がる。
「葡萄ちゃん。来ていいの? また叱られない?」
「だいじょうぶ、太白媛がとりなしてくれたから」
「そうなんだ。話がわかるね、あの人」
「うん、いい人みたい」
にこりと笑って、葡萄は杏のそばに腰を下ろした。おずおずと聞く。
「ね、楽にしていい?」
葡萄は姉媛の一人と同じ麗景殿に寝起きしているが、杏より待遇がいいわけではない。姉媛の側仕え扱いなのである。だから自分の部屋もなく、いつも気苦労している。
「もちろん」
杏がうなずくと、葡萄は両手を後ろについてはーっと息を吐いた。
だが、弛緩しても杏より行儀がいい。絹の織物が水中で揺らいでいるように優雅だ。その物腰と控えめな優しさに、杏は惹かれた。
そんな葡萄は杏の明るさ、快活さにほだされたようだった。互いに、自分にないものを求めたということなのだろう。足を投げ出して座っている杏が、よそを見ながらそっと手を握っても、葡萄は拒まなかった。
きゅっ、と握り返してくる。
杏の胸がまたざわつく。恋をしてから知ったうずきだ。もっと葡萄に近づきたい、もっと長く触れていたい。
意識すると、声が震える。
「……ぶ、葡萄ちゃん。もうちょっとだけ……握ってていい?」
「ちょっとだけなんて……どうして?」
「だって、さっき歩いている時に、汗、嫌だったみたいだから」
「あれは……私のが嫌じゃないかと思ったから」
「いやじゃないよ!」
杏は叫んで手に力を込めた。
「今日も……いい?」
「……うん」
腕を引き、唐衣に包まれた体を抱きしめた。
はあっ、と同時に息を吐く。好きな人が腕の中にいるという、幸せな甘い震えが全身を走る。力を込めると相手も込める。その髪に頬を押しつけて杏はささやく。
「悪い子……」
「あ、杏ちゃんも」
「星帝以外の人に触れちゃいけないのに」
「そんなの知らない。来た事もない人なんて」
さわっ、と背に当たる指が動き、せせらぎのようなささやきが耳に沁みる。
「杏ちゃんが好き。杏ちゃんだけ……」
「わたしも、葡萄ちゃんだけ」
ぞくぞくと震えが連なり、ぎゅっ、ぎゅっ、と何度も抱きしめあう。
それにつれ、杏は下腹に熱を感じる。
小袖に隠れた自分のもの。小用を足すときしか使わないそこが、なぜか熱くなる。血が集まって脈打ち、硬く反ってうずく。なぜなのかわからない。でもどうしたいかはわかる。
それで、葡萄に触れたい。
……抱いた思いを、首を振って打ち消す。誰に言われるまでもなく、それが穢れた思いだと知っている。そんなことを、大切な葡萄に告げるわけにはいかない。
それに、危うい。渡殿の向こうはすぐに、隣の淑景舎だ。姉媛たちがいつなんどき来るかもわからない。
次第に高まる思いに流されてしまう前に、杏は細い体を押し戻した。
「さあ、この辺で、ね。見つかっちゃうから……」
「ううん、だいじょうぶ」
葡萄が首を振って、意外なことを言った。
「姉様たちは登華殿よ。みんなで絵合をしているの」
「え……」
「あと一刻は誰もこない。だから、もっと仲良く……」
物も言わずに、杏は再び抱きしめた。
葡萄の髪は夜の帳のように暗く滑らかだ。指を入れて梳き、顔を当てて吸う。焚き染められた甘い香が頭の芯をくらくらと揺さぶる。一刻は長い。時間を気にしなくてもいいに等しい。思いを止めるものがない。今までにない激しい興奮が杏を高めていく。
髪をくわえてささやいた。
「葡萄ちゃん、髪、すごくきれい……」
「うそ。こんな暗い髪」
「きれいだよ、紺天宮を包む天みたい」
「杏ちゃんこそ……この夕焼けみたいな髪、私、うらやましい」
葡萄も髪をくわえて引く。きゅっと頭皮にかかった力の強さに杏は驚く。葡萄も興奮している、自分と同じほどか、それ以上に。
顔を離して正面から見つめる。雪白の頬が見とれるほど美しい紅に染まっていた。大きな黒目が濡れて輝いている。桜色の唇がかすかに開いて、触れて、というように震えていた。
「葡萄ちゃん……っ」
口づけを止められなかった。止めても一緒だったかもしれない。葡萄も顔を進め、唇を重ねてきたから。
柔らかな感触を押しつけ、受け止めると、深みに落ちていくような浮遊感が体に満ちた。落ちないようにしがみつき、同じようにしがみつかれ、無我夢中で口を吸った。
「んっ、くふっ、んむぅ……」
敏感な舌が葡萄の滑らかな肌を味わい、葡萄の舌が自分の肌を味わう。これ以上ないほど心が満たされる。同時に体の奥底の飢えが強まっていく。もっと、もっと、もっと、と何かを求めている。
股間のものが痛いほどに張り詰めている。小袖と袴を内側から持ち上げて小山を作っている。飢えはそこから来る。でもそれがなんなのかわからない。
ずる、と葡萄が腰を引いたので、杏は口を離して目を落とした。はっと気づく。葡萄の帯の下にもふくらみがある。葡萄も、飢えているのだ。
同じ姿勢ゆえに、葡萄も気づいたらしかった。互いの股間を見つめて、抑えた声でささやきあう。
「杏ちゃんも、おのこねが……」
「おのこね?」
「男の根、と書くの。お小水の出るところ」
「葡萄ちゃんも、こんなに……」
「なっちゃうの、どうしてもこんな具合に。ごめんなさい、気にしないで」
「う、うん。わたしもだから……」
二人は再び抱き合って、口づけを再開した。だが、それはどこか気の入らないものになった。
いくらもたたないうちに顔を離して、見つめ合う。
「我慢、できる?」
「う、うん……」
「我慢したくないでしょ?」
「それはそうだけど」
「うずくんでしょ? 押しつけたいんでしょ?」
「あ、杏ちゃん!」
「隠さないで、わたしもそうなの! 賤しいことだってわかってるけど、でも……」
震える手を、葡萄の股間に伸ばす。
「二人一緒なんだから……いいんじゃない?」
言いながら手の平をふくらみに当て、さらりとこすった。
その途端、葡萄が目をきつく閉じて跳ねた。
「ひぃんっ!」
「ぶ、葡萄ちゃん? 痛かった?」
杏はあわてて手を放したが、葡萄は勢いよく首を振った。「ち、違うの……」とつぶやいて、すっと手を伸ばしてくる。
さらりと撫でられた途端、股の部分が溶け消えそうなしびれが走った。
「くぅんっ!」
同じような悲鳴を上げて腰を引き、杏は気づいた。まじまじと見つめ合う。
「これ……」「うん、すごく……」「な、なんだろ?」
今度はお互いいっしょに手を伸ばして、包んだ。
「ひぅん……」「はあっ……」
それはまぎれもなく快感だった。好きな人の手で穢れたところに触れてもらえる悦び。口づけよりももっと強烈で、もっと純粋な快感。
これが、したいことなんだ。
学んでもいないのに二人はそう悟ってしまった。さらさらと、止めどもなく互いの袴をさすり始める。
「葡萄ちゃん、これ、これぇ……」
「いいね、杏ちゃん、気持ちいいね」
「うん、すごく、とてもぉ……」
くったりと体を預けた葡萄の下腹、清潔な水色の袴のひだを、彼女のしとやかさからは考えられないほどこわばったものが、くっきりと持ち上げている。まるく包み、こわこわと絞り上げると、その形がはっきりとわかる。葡萄の秘所をこんなにはっきり知ってしまっている、そのことに息が詰まるほどの興奮を覚える。
まったく同じことを葡萄が口早にささやく。
「杏ちゃん、どうしてこんなにすごいのっ、どうしておのこねがこんななのっ?」
「葡萄ちゃんに当てたいからっ、触りたいからっ! 葡萄ちゃんも、そうなのっ?」
「そう、そうなのっ。私しあわせ、すごく幸せっ!」
「わたしも、わたしもぉ!」
遠慮がちだった触れ方が、いつしかざらざらと布でこそぎ上げるほど激しいものになっていた。それがいいと、自分のそこからわかるのだ。
「はっ、はぁっ、杏ちゃあん!」
叫んで求めた葡萄の口に、同じ熱さで杏も口づけした。片手を休めないまま頭を抱きしめあい、ちろちろと舌を触れ合わせて思いを流しこむ。
他の感覚がなくなって、快感だけではちきれんばかりになっている根が、ひくひくと脈動し始めた。手の中の葡萄のものもそうなっている。手を止めることができないまま、杏は呼びかける。
「葡萄ちゃん、もうやめなきゃ、これっ、だめっ!」
「そ、そうだよね、やめっ、ふわぁっ!」
やめてほしくない、手を止めてほしくない。だから手を動かしつづけ、動かしてもらう。
何かが、飛び出しそうなのに。
びくびくと暴れる根を抑えることが、とうとうできなくなった。
「ぶ、葡萄っ、ちゃぁぁんっ!」
「杏ちゃんーっ!」
がくん、がくん、がくん、と腰がにじり出る。許してもいない放出がものすごい勢いで勝手に飛び出す。その一閃一閃が、全身に鳥肌が立って頭皮がひつきれるほどの快感を引き起こす。
「気持ちいいーっ! なにこれーっ!? すごいぃぃーっ!」
「うんっ、いいぃっ、いいのぉぉっ!」
相手もまったく同じということが羞恥心を失わせた。二人はあられもない悲鳴を上げながら、恋人の手にむかって長い長い奔流を吐き出した。
「い……いっ……」
最後の滴まで吐き終えると、二人は吊られていた糸が切れたようにぐったりともたれあった。はあ、はあ、はあ、と肩が上下するほど荒い息が続き、まだ包んだままの手のひらに、じわじわと生暖かいものが染み出してきた。
汗に濡れた頬をはがして、なんとも言えない後ろめたさを感じながら見つめ合う。
「すごかったね……」
「うん……なんなのかしら?」
「わかんないけど……素敵だった。葡萄と一つになれたって気がした」
「私も……」
傾けた顔に穏やかな微笑を浮かべて、二人はもう一度口づけした。
それから、口には出さないまま、気になっていることを調べにかかった。
身を離した杏は、袴の脇にある笹ひだから中に手を入れて、小袖の中をまさぐった。股間に当たる部分にべっとりと大量の粘液がついている。顔をしかめつつも、疑問は押さえられなかった。これは、お小水じゃない。
背中で葡萄に訊く。
「ねえ、これなんなの?」
答えの代わりに、横から畳紙が差し出された。葡萄は気配りが細かい。ありがと、と受け取って、ごそごそと中を拭く。
取り出して恐る恐る見てみると、卵白めいた白いものが付いていた。自分の中にこんなものがあったのかと驚くほど、生々しい代物だ。気味が悪くなって、あわてて部屋の隅に走り、用足しに使う樋箱の中に押しこんだ。
葡萄もやって来て、顔を背けながら畳紙を差し出す。一瞬杏は、それを開いて見てみたい、という誘惑にかられた。しかしそれを抑えて、樋箱に入れさせた。
それが済むとようやく人心地が付いて、腰を下ろした。葡萄が言う。
「私、校書殿で調べてみる。病気だといけないから」
「じゃ、わたしは桜桃とかに聞いてみる。あの子なら姉様たちにも言わないだろうし」
「そうね。……でも、杏」
「ん?」
杏が振り向くと、葡萄は嬉しげに目を細めて微笑んでいた。
「これが病気でも……治したくなくない?」
「……だめだよ、ちゃんと治さなきゃ」
そうは言ったものの、杏もまた思っていた。
一度ではもの足りない。また、葡萄とそれをしたい……
数日後、淑景北舎にやってきた葡萄は、悩んでいるようだった。
「どうしたの?」
「調べたの、あれ」
「あれって……ああ、あれ」
思い出した杏は顔を赤らめる。と同時に葡萄に対してまたもやもやした気持ちを抱いてしまい、そんな自分が嫌になる。
葡萄は妙な気持ちを抱くどころではないらしく、顔を寄せて真剣に言った。
「あれはね、子種なの」
「子種? 星帝がわたしたちにくださる?」
「そう。禁書まで調べたから間違いないわ」
「禁書ってあなた……」
咎めようとした杏は、あることに気づいて驚いた。
「でも、子種を作れるのは男だけなんでしょう? 女はそれを受け止めて、卵から子供を作るはず」
「そうよ」
「じゃ、どうしてわたしたちに子種があるの?」
「答えは一つしかないわ」
葡萄はじっと杏を見つめる。言われずとも、杏にはわかった。
「つまり……わたしたちも、男だってこと?」
「そうよ」
「どうして」
呆然として杏はつぶやいた。葡萄は首を横に振るだけだ。
常寧殿から姉媛たちの笑い声が聞こえてくる。若やいだ黄色い声。
紺天宮には二十四人の媛がいる。しかしそれは、女ではない。
二人にはまだ、その意味がわからなかった。