正良親王
まさらのみこ
- 生没年 810(弘仁1)〜850(嘉祥3)
- 系譜など 嵯峨天皇の第2皇子。母は橘嘉智子。深草帝と称される。子には道康親王(文徳天皇)・宗康親王・時康親王(光孝天皇)・人康親王・源多(右大臣)・本康親王・国康親王・常康親王・源冷・成康親王・源光(右大臣)・源覚・時子内親王(斎院)・新子内親王・柔子内親王・真子内親王・親子内親王・平子内親王・重子内親王・久子内親王(斎宮)・高子内親王(斎院)・源効・貞登らがいる。
- 略伝 823(弘仁14)年、叔父にあたる淳和天皇の皇太子となる。833(天長10)年2.18、践祚(仁明天皇)。淳和天皇第2皇子恆貞親王を皇太子に立てる。835(承和2)年、空海が遷化すると、内舎人を派遣して喪を弔い、のち比叡山に定心院を建てた。842(承和9)年7月、嵯峨上皇が崩御した直後、春宮坊帯刀舎人伴健岑(とものこわみね)・但馬権守橘逸勢(たちばなのはやなり。奈良麻呂の孫)らが恆貞親王を擁して謀反を企てたとの報告を受け、直ちに両名を逮捕させ、流刑に処した(承和の変)。ついで恆貞親王を廃し、子の通康親王(後の文徳天皇)を皇太子に立てた。これにより、平城―嵯峨―淳和―仁明と続いた王統の迭立(てつりつ。皇位を兄弟とその息子が交替して相続する)の原則が崩れ、嵯峨―仁明―文徳の直系王統が成立した。844(承和11)年、橘氏公(清友の子、嘉智子の弟)を右大臣に任じた。承和14年、外曾祖父にあたる橘奈良麻呂に正一位太政大臣を追贈。850(嘉祥3)年3月、落飾入道した直後病により崩御。山城国紀伊郡の深草山陵に葬られた。皇位は藤原氏を外戚とする道康親王に移り(文徳天皇)、やがて藤原氏全盛時代を招くことになる。
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