歌枕紀行 筑波山

―つくばのやま―

筑波山

昔、筑波山は関東平野のどこからでもよく見えたらしい。海抜800メートル程度の山に過ぎないが、広大な平野が東北方向に尽きるあたり、平坦な台地の上にいきなりその秀麗な山容を顕しているからである。

筑波はどこから見ても姿のよい山であるが、男山と女山、双つの嶺がぴったり寄り添って見えるような方角から眺めるのが最もよい。それはまるで大地に横たわった巨大な女神の乳房のようだ。常陸の古老が、駿河の富士と比べた筑波山の情の篤さを讃美している(常陸国風土記)のも、尤もだと肯かれるのである。

筑波はエロティックな饗宴の山であった。

鷲の棲む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に
(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集ひ かがふかがひに
人妻に ()も交はらむ わが妻に 人も言問へ
この山を うしはく神の 昔より (いさ)めぬわざぞ
今日のみは めぐしもな見そ (こと)もとがむな
   反歌
男神(をのかみ)に雲立ちのぼり時雨ふり濡れとほるとも吾帰らめや

「筑波嶺に登りてカガヒせし日に作れる歌」と題された、高橋連虫麻呂歌集出典の万葉歌である。カガヒは歌垣(うたがき)と同じことを指しているらしい。常陸国風土記の寒田郎子安是嬢子の伝説にみられるように、未婚の男女が歌をやりとりすることで、求婚相手を見つける集いの場であった。気の合ったカップルは、そのまま歌垣の場を抜け出し、木陰などに隠れて共に一晩を過ごしたのである。上の虫麻呂歌集の歌からは乱婚パーティーのような印象も受けるが、そうした風聞もあったのだろうか。おそらくこれは、筑波のカガヒの噂だけ聞き知っていた都人士を娯しませるための、専門歌人によるサービス過剰な(?)誇張表現だったのではないかと思われるのだが。

万葉時代の都人にとって遥かな東国の果てであった筑波山が、すでに伝説の山であり、一種の名所となっていたことは確かである。たまたま常陸に赴任する機会を得た官人たちは、苦労を厭わず筑波に登り、その感懐をいくつかの歌に残している。

   筑波岳に登りて丹比真人国人がよめる歌
(とり)が鳴く (あづま)の国に 高山は (さは)にあれども
二神(ふたかみ)の 貴き山の 並み立ちの 見が欲し山と
神世より 人の言ひ継ぎ 国見する 筑波(つくは)の山を
冬こもり 時じき時と 見ずて行かば まして(こほ)しみ
雪消(ゆきげ)する 山道すらを なづみぞ()が来る
   反歌
筑波嶺(つくはね)(よそ)のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも

   筑波山に登れる歌
草枕 旅の憂へを (なぐさ)もる こともありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る 師付(しづく)の田居に
雁がねも 寒く来鳴きぬ 新治(にひはり)の 鳥羽の淡海(あふみ)
秋風に 白波(しらなみ)立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば
長き日に 思ひ積み()し 憂へはやみぬ
   反歌
筑波嶺の裾廻(すそみ)の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉(もみち)手折らな

むろん、土地に根づいた人々にとっては、筑波は自ずから別な意味を持っていた。生産に追われる日常に、ふと見上げては抒情を託する対象であったろうし、恋人の面影に結びつく親しい歌枕として、さかんに歌にうたわれたのである。また防人として故郷を遠く離れなければならなかった男たちにとって、痛切な望郷のシンボルであったことは言うまでもない。

筑波嶺に雪かも降らるいなをかも(かな)しき子ろが(にの)乾さるかも
筑波嶺にかか鳴く鷲の()のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに
()(もて)の忘れもしだは筑波嶺を振りさけ見つつ妹は偲はね (占部小龍)
筑波嶺のさ百合(ゆる)の花の夜床にも(かな)しけ妹そ昼も愛しけ (大舎人部千文)
橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも (占部広方)

平安時代以降も、「筑波嶺」「筑波の山」は歌枕としてもてはやされた。古今集仮名序には「つくば山にかけて君をねがひ」と、筑波山を代表的な歌枕のひとつに挙げている程である。男女二峰を有する山容と歌垣の連想から、歌人たちは筑波を恋の山として仰いだのである。また動詞「付く」の懸詞として使われることも多い。

筑波嶺の木のもとごとにたちそよる春のみ山の陰を恋ひつつ (橘潔興「古今」)
筑波嶺のこのもかのもに蔭はあれど君がみかげにます影はなし (「古今」)
人づてにいふ言の葉の中よりぞ思ひつくばの山は見えける (「後撰」)
筑波嶺の峯より落つるみなの河恋ぞつもりて淵となりける (陽成院「後撰」)
筑波山は山しげ山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり (源重之「新古今」)
今はみな思ひつくばの山おろしよ繁き嘆きと吹きもつたへよ (定家)

平安時代に詠まれた筑波山は、多くの歌枕同様、現地を知らないまま想像の中でのみ詠われたようである。しかし、この時代でも、奥州行脚を試みた能因法師など、実際筑波山を訪れた人もいたらしい。

よそにのみ思ひおこせし筑波嶺の峰の白雲けふ見つるかな (能因集)

筑波山系周辺には平安時代の山岳寺院跡が点在しており、筑波山は当時神仏習合の山として仏教者の信仰を集めていたことがわかる。以後も修験の山として、また民間信仰の山として、篤い敬いを受け続けて今日に至っている。以下には、中世から近世にかけて詠まれた、叙景風の筑波山の歌を挙げよう。

おしなべて春はきにけり筑波嶺の木のもとごとに霞たなびく (実朝)
筑波嶺の裾わの田ゐの松の庵このもかのもに煙立つなり (桓覚「新拾遺」)
を筑波も遠つ葦穂も霞むなり嶺越し山越し春や来ぬらむ (賀茂真淵)
筑波山雫のつらら今日とけて枯れ生の薄春風ぞ吹く (同上)
しげ山も葉山もわかぬ霧のうへにほのぼの見ゆる筑波山かな (香川景樹)

私は今年(平成十一年)の初春、ついでがあって二十五年ぶりに筑波山に登ることができた。中学生の頃、友人と遠足して以来だった。もっとも、ガマの油売りの実演のほかこれといった記憶も残っていなかったので、初めて登るようなものだ。

朝早く宿泊地の石岡市を発ち、土浦からバスで筑波山麓に至ったが、道路の渋滞のため、乗り継ぎのバスがいつまで経っても来ない。折しも梅が満開の日曜日、筑波の梅苑めあてのマイカーが山へ向かう道路に溢れていたのだ。「坂より東の諸国の男女、春の花の開くる時、秋の葉のもみづる節、相携ひつらなり、飲食をもちきて、騎にも歩にも登臨り、遊楽しみあそぶ」と風土記に謳われた筑波は、昔も今も変わりない。

しびれを切らしてタクシーを頼み、中腹の筑波神社に辿り着いたのはもう昼を過ぎていた。

筑波神社
筑波神社

筑波神社の祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命ということになっているが、ご神体は山そのものである。その証拠に、神社境内に本殿はなく、山を背後に拝殿が建っているだけなのだ。

神社の脇からケーブルカーが通じていることを知り、これを利用すると山頂まではあっという間だった。

筑波山頂
筑波山頂からの眺望

好天に恵まれ、春霞がかかっているとは言え、山頂からは「堺はこれ広く、地もまたはろか」な常陸の国がよく眺められた。

白遠(しらとほ)ふ新治の国は北に白じらと霞み、立雨(たちさめ)ふり行方(なめかた)の国・霰ふり香島の国は東の霞の彼方である。

筑波嶺ゆ振りさけ見れば水の狭沼(さぬま)水の広沼霞たなびく (長塚節)

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©水垣 久 最終更新日:平成11-04-07
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