藤原俊成 鑑賞ノート

春の歌(3)

またや見ん交野(かたの)御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙

新古今集巻二、春下。詞書は「摂政太政大臣家に、五首歌よみ侍りけるに」。建久六年(1195)二月、藤原(九条)良経邸での歌会に出詠した歌のひとつです。俊成、八十二歳。
 またや見ん
ヤを反語と見る注釈書があるが、無理でしょう。反語なら、「また見めや」などとあるのが自然。いわゆる疑問を含んだ詠嘆、「再び見ることができるだろうか」ととるべきでしょう。
ただし東常縁の注に「またやみんかたのとは、又みむ事はかたきとうけたる句法也」とあるように、次句の交野は「難(かた)い」意を掛けています。交野と続けることで、「いや、また見ることは難しいだろう」と、結果的には反語をなしていると言えます。
 交野の御野の桜がり
交野は河内国の歌枕、皇室の狩猟地。「桜がり」は花見にふさわしい桜を求めて野を逍遙することを、狩に譬えて言ったもの。伊勢物語八十二段に、惟喬親王が在原業平らを従え、交野で花見の遊びをしたことが見えます。

今狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りて、かざしにさして、かみなかしも、みな歌よみけり。(むま)(かみ)なりける人のよめる、
 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
となむよみたりける。

狩の遊びが、いつの間にか花見に取って代わられた。俊成の歌は、歌と花を愛した古人の風雅な遊宴を想起させつつ、下句で花の雪散る春の曙と、さらに桜を雪のイメージに反転させます。

めでたし、詞めでたし、狩は、雪のちる比する物なるを、その狩をさくらがりにいひなし、其雪を花の雪にいひなせる、いとおもしろし。

本居宣長の評言です。花を雪に見立てるのは万葉以来の常套ですが、春の曙を背景に据えて、これほど麗々しく、あでやかに歌い上げた例はまたとないでしょう。
 またや見ん、交野の御野の桜がり、花の雪ちる春の曙。
「またや見ん」と置いた初句切れの清々しさ・潔さ。つづく、「の」でつないだ体言の流麗な連なりは、冬の鷹狩→桜→雪→春の曙、とイメージを折り畳んでは繰り広げてゆく。春の曙の忘れ難い情景が、心にいつまでも余韻をひくようです。
なおこの歌は、俊成の家集『長秋詠藻』に、文治六年(1190)女御入内御屏風和歌として次のように掲載されている歌を、改作したものと推測されています。

   野辺に鷹狩したる所
又もなほ人に見せばや御狩する交野の原の雪の朝を
***

春の歌(2)

み吉野の花のさかりをけふ見れば越の白根に春風ぞ吹く

千載集巻一、春歌上の巻末。詞書は「十首の歌人々によませ侍りける時、花の歌とてよみ侍りける」。俊成の家集『長秋詠藻』には「家十首の歌の中の、花」とあります。「家十首」とは、俊成自邸での歌会に持ち寄った十首歌のこと。
立春に始まって、花、更衣、郭公、と四季の歌を二首づつ詠み、祝の歌と恋の歌を継いで、計十首となっています。その二首目ですね。
この歌会が開催された正確な年は分かっていません。しかし、参席者の顔ぶれはほぼ知られ、彼らの没年などから、仁安二年(1167)から承安二年(1172)頃と考えられるようです。俊成五十代後半、脂の乗りきった頃の作です。
一見、叙景風の歌ですが、詞書にあるとおり、花を主題にした題詠歌です。
何々を見たら、何々が見えた、といった形を取る歌は古来多く、叙景歌のひとつのパターンです。古事記に応神天皇御製と伝える歌謡、

千葉の 葛野(かづの)を見れば 百千(ももち)足る 家庭(やには)も見ゆ 国の()も見ゆ

あたりが最も古いものになるでしょうか。もともと王の「国見歌」に原型があったようにも思われます。万葉集にはこの類型にあてはまる歌が沢山ありますが、山部赤人の、

田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

で典型として完成され、この種の叙景歌のお手本になったと言えると思います。
もっとも、古今集の時代には、「見立て」と言って、

秋の野に置く白露をけさ見れば玉や敷けるとおどろかれつつ(忠岑)

のように、何々を見たら、何々かと思われたという趣向が多くなります。俊成の歌も基本的にこのパターンを踏襲したものですが、さすがに俊成だけあって、一工夫も二工夫もある歌だと思います。さて、上句、

み吉野の花のさかりをけふ見れば

ありふれた句のようですが、「けふ」に注意したい。ほかでもない、花が満開になった今日、春の絶頂としての今日、ということです。時を特定しているのは、この歌にとって重要な点です。下句、

越の白根に春風ぞ吹く

これまた句自体としては何ということもありませんね。
「越(こし)の白根(しらね)」は加賀白山。白山ヒメ神社を祀る信仰の山です。万葉集の東歌にも「之良山(しらやま)」として見えますが、古今集で躬恒・貫之らが詠み、歌枕として定着しました。

消えはつる時しなければ越路なるしら山の名は雪にぞありける(躬恒)

遥か遠国の、四時雪の消えない山として、王朝人に憧憬されたことは、次の和泉式部の歌からもうかがえます。

もみぢ葉もましろに霜のおける朝は越の白根ぞ思ひやらるる(和泉式部)

「霜」の白さから「越の白根」を想起した、という歌です。何々を見たら、何々かと思われたの型に似ていますが、古今集の歌のように観念的な「見立て」でなく、「連想」と呼ぶ方が適当でしょうか。
さらに時代が下り、応徳三年(1086)の「若狭守通宗朝臣女子達歌合」では、次のような歌が見えます。

桜咲く春の山辺は雪きえぬ越の白根の心ちこそすれ

山桜の白から、越の白根を連想する趣向です。俊成の作は、この歌を下敷きにしたものと考えて間違いないでしょう。

桜 具満タン

俊成の歌に戻りましょう。

み吉野の花のさかりをけふ見れば越の白根に春風ぞ吹く

まず気づくのは、この歌が一見、何々を見たら、何々が見えたという叙景歌の古い型にあてはまるように見えることです。一首が丈高い印象を与えるのは、そのことと無関係ではないでしょう。しかし、もちろん吉野に越の白根があるわけではありませんから、これは実は何々を見たら、何々かと思われたの型になるのです。俊成は、本来あるべき「〜かと思われた」「〜が思いやられた」といった句を、省略してしまったわけです。
山桜が満開の吉野の山を今日眺めると、(まるで)越の白根に春風が吹いている(かのようだった)。このカッコ内が省かれているわけですね。
こういうやり方も、別段俊成の独創ではありません。たとえば、

山桜咲きそめしより久かたの雲ゐにみゆる滝のしら糸

金葉集の源俊頼の歌です。山桜を、空の彼方から流れ落ちる瀑布に見立てています。この歌なども、俊成の作にいくらか影響を与えているかも知れません。
俊成の歌の創意は、離れた二つの歌枕=聖地を、「白」のイメージで繋げてみせたところにある、と言うべきでしょう。今度は、上句と下句を分けて再引用してみましょうか。

み吉野の花のさかりをけふ見れば
            越の白根に春風ぞ吹く

「ここ(吉野山)」から「彼方(越の白根)」へ、思い切りよく場面を転換してしまうことによって、かえって桜の吉野山は残像として残り、あたかも映画の二重写しのように、二つの山のイメージが併存しているかのような感じがしてきます。比喩として言表しなかったことが、結果として一首に幻想的な効果を与えた、とも言えるのではないでしょうか。
しかも、聖地吉野の桜の白は、遥かなる聖山の雪の白さに置き換えられることで、いっそう清浄なイメージに磨き立てられます。そして、そこに「春風ぞ吹く」。
今日、神聖なばかりに白い、清麗たる吉野山を、春風が吹きめぐる。風もまた春の盛りの一日を祝福しているかのようではありませんか。なんとめでたい歌でしょうか。

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春の歌(1)

藤原俊成の歌を、一首ずつ、いくつか取り上げてみたい。

今日といへば唐土(もろこし)までもゆく春を都にのみと思ひけるかな

新古今集巻一、春歌。詞書は「入道前関白太政大臣、右大臣に侍りける時、百首歌よませ侍りけるに、立春の心を」とある。治承二年(1178)七月、九条兼実に請われて詠進した百首歌のひとつである。俊成はこの年六十五歳、すでに出家して釈阿と名のっていた。
「もろこしまでもゆく」という詞は、俊成が自ら選んだ千載集の大弐三位の歌、

遥かなるもろこしまでも行く物は秋の寝覚の心なりけり

に基づいている。三位の歌は、秋の寝覚の悲哀の深さ、眠りに戻れない独り寝の淋しい心持ちの果てしなさを、唐土までの遥かな距離になぞらえてみせたもの。俊成はこれを立春の詠に置き換えたのである。
節季に彼我の隔たりはない、というか、そもそもわが国は暦法を唐土に借りたのである。暦の上で立春にあたる今日、春は唐土までも行き渡っているはずだ。それを、この国の都のこととばかり思い込んでいた、と省ている。それほどに都の春がすばらしい、と言っているとも受け取れ、とすれば、立春を言祝ぐばかりでなく、宮都賛歌の体をも成している歌になる。しかし、それがこの歌の主眼とは言えまい。
「ゆく春」との言い方には、問題がないわけではない。たとえば本居宣長は、「立春の歌に、ゆく春とはいかゞ」と文句をつける。「三月盡の歌にもなりぬべし」、「などたつ春とはよまれざりけむ」と「くちをし」がるのである(『美濃の家づと』)。
たしかに、

花もみな散りぬる宿はゆく春のふる里とこそなりぬべらなれ(拾遺集)
春のゆく道に来むかへ時鳥かたらふ声にたちやとまると(金葉集)

など、「ゆく春」「春ゆく」といえば、春の過ぎ去ることを意味するのが普通で、それは今も変わりあるまい。
しかし、「もろこしまでもたつ春を」では、単なる暦の上での気づきとなり、理に落ちてしまう。「ゆく」と遣ってこそ、動感がうまれる。春は霞として、あるいは野山を敷き詰める草花として、あるいは空を吹く風として、広大な空間をすみやかに、かつ悠然と占めてゆく。こうして「春は空の彼方、海の彼方、はるかな唐土まで到達しているはずなのだ」と気づかせる。かかる、大いなる季節の運行への感動にこそ、この歌の眼目があろう。
ところで、大弐三位の歌は「心」が「もろこしまでも行く」と言ったが、こうした詞遣いは、凡河内躬恒の歌、

山高み雲井に見ゆる桜花心のゆきて折らぬ日ぞなき(古今集)

を思い出させる。この「ゆく」は、心が躰を離れてゆく、あくがれてゆく、といった意になる。俊成の歌にも、躬恒の作の反響がみとめられないだろうか。春が唐土までゆきわたっていることに気づいた心は、「都にのみと思ひけるかな」と反省して済んだはずがない。今度は都から遥かな異土へと旅立って行ったはずだ。丈あり、余情もある歌である。


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