康資王母 やすすけおうのはは 生没年未詳 別称:四条宮筑前・伯(はく)の母

筑前守高階成順(なりのぶ)伊勢大輔の間の娘。大中臣家重代歌人に列なる。妹の筑前乳母・源兼俊母も勅撰集に歌を載せる。神祇伯延信(のぶざね)王の妻となり、康資王を生む。のち常陸守藤原基房の妻となり、義理の孫娘(のちの郁芳門院安藝)を養女としたらしい。
後冷泉天皇の皇后四条宮寛子に仕え、筑前の通称で呼ばれた。藤原師実(もろざね)ら時の権力者に寵愛され、歌会で活躍する。甥の藤原通俊が後拾遺集を撰する時、歌を請われたと家集詞書にある。嘉保元年(1094)の高陽院七番歌合に出詠した際には、源経信の判をめぐって書状による応酬があった(下記「紅のうす花ざくら」の歌参照)。康和四年(1102)の堀河院艶書合にも出詠。長治三年(1106)、大江匡房が大宰大弐に再任された時歌を贈答している。以後の消息は不明。
後拾遺集初出。勅撰入集四十首。家集『康資王母集』(伯母集ともいう)がある。

  4首  2首  1首  3首 計10首

二月雪落衣といふことをよみ侍りける

梅ちらす風もこえてや吹きつらむ香れる雪の袖にみだるる(新古50)

【通釈】私の髪に挿していた梅の花を散らして、風が頭上を吹き過ぎたのだろうか。良い香りのする雪が、袖に散り乱れている。

【語釈】◇二月雪落衣 和漢朗詠集の「折梅花而挿頭 二月之雪落衣」(梅花を折りて挿頭す。二月の雪衣に落つ)に拠る。

花見侍りける人にさそはれて、よみ侍りける

山ざくら花の下風ふきにけり木のもとごとの雪のむら消え(新古118)

【通釈】山桜の下を風が吹いていったのだ。どの樹も根元のあたりに雪がまだらに消え残っている。

【補記】『康資王母集』には詞書「花見にまかれりしに、みな散りにけり」、第四句「木のもとごとに」とある。

京極前太政大臣の家に、歌合し侍りけるによめる

くれなゐのうす花ざくらにほはずは皆しら雲と見てやすぎまし(詞花18)

【通釈】山にぼうっとした白いものがかかっている。一点、薄紅色の桜の花が薫るように映えている。あれがなかったら、すべて雲と思って通り過ぎてしまっただろう。

【補記】京極前太政大臣、すなわち藤原師実の家での歌合に出詠した作。この歌は判者源経信によって「くれなゐの桜は詩にはつくれども、歌には詠みたることなむ無き」と前例のないことを批判され、番えられた歌と引き分けにされた。それに対し、歌合の主催者であった師実は康資王母を擁護する歌を贈り、康資王母はこれに感謝の歌を返すという経緯があった(詞花集)。康資王母はこれとは別に、経信の判につき書状を以て反論し、経信と書簡で応酬している。本格的な歌合陳状の初めとされる(『和歌文学辞典』)。

土御門右大臣の家に歌合し侍りける時、藤をよめる

いづかたににほひますらむ藤の花春と夏との岸をへだてて(千載118)

【通釈】どちら側がよりいっそう色美しく咲くのだろうか。藤の花は――こちらの岸を春とするなら、あちらの岸は夏と、川の両岸に離れて花房を垂れて。

【語釈】◇土御門右大臣 源師房(1008-1077)。具平親王の長男。当時の歌壇のパトロン的存在。

【補記】藤の花は春から夏にかけて咲くので、川の両岸を春と夏にふりわけて言ったのである。

宇治前太政大臣家の歌合に郭公をよめる

山ちかく浦こぐ舟は郭公なくわたりこそ泊りなりけれ(金葉122)

【通釈】山が近くまで迫っている入江を、舟は漕いでゆく――と、ほととぎすの声が聞え、船頭も櫂の手を止めた。ほととぎすの鳴くあたりが、碇泊の場所だったのだ。

【語釈】◇宇治前太政大臣 藤原師実(1042-1101)。頼通の子。関白太政大臣従一位に至る。

題しらず

寝覚する袂にきけば時鳥(ほととぎす)つらき人をも待つべかりけり(千載152)

【通釈】自分の袂を枕に寝てしまったが、眠りから覚めた私の耳に、ほととぎすの声が聞えた。――こんなことなら、つれないあの人のことも待っているべきだったよ。

【補記】都では時鳥の声は滅多に聞けないものだった。待ち寝してその声を聞くことができたのだから、薄情な恋人のことも待ってみれば良かった、との思い。第二句を「たよりにきけば」とする本もある。

高陽院家歌合に

踏みみける(にほ)の跡さへ惜しきかな氷のうへにふれる白雪(新勅撰427)

【通釈】いちめん氷の張った池に、踏みつけていったカイツブリの足跡が点々と…。そんなかすかな跡さえ、無かったらなあと残念な気がするよ。氷の上にうっすらと積った雪があんまりきれいなので。

【語釈】◇高陽(かやう)院家 藤原師実邸。もと賀陽親王邸だった邸を、藤原頼通が治安元年(1027)に自邸として拡張した。天皇の里内裏としても利用された。この歌合は嘉保元年(1094)。

常陸にくだりける道にて、月のあかく侍りけるをよめる

月はかく雲ゐなれども見るものをあはれ都のかからましかば(後拾遺525)

【通釈】月はあんな空高いところにあっても、くっきりと見えるというのに。ああ、都もこんなふうだったなら。

【補記】常陸(ひたち)は国名。今の茨城県の大部分に当たる。作者が夫藤原基房と共に常陸国に下向した時の作。遠くにあっても見える月のように、遠い都も目に見えればよいのにと思い。

あづまに侍りける姉妹(はらから)のもとに、便りにつけてつかはしける   源兼俊母

にほひきや都の花はあづまぢの東風(こち)のかへしの風につけしは

【通釈】ちゃんと香りが届いたでしょうか、都の花は。あなたのいる東の国へと、東風の吹き戻しの風につけて送ったのは。

返し

吹きかへすこちのかへしは身にしみき都の花のしるべと思ふに(後拾遺1134)

【通釈】吹き戻す東風の返し風は、身に染みて嬉しうございました。都の花はこちらの方向なのだと教えてくれる、道しるべと思うにつけて。

【語釈】◇かへし 風の吹き戻しのこと。東風のかえしとは、西風、すなわち京から東国へ向かって吹く風ということになる。◇しるべ 道案内の意とともに、縁のある人、という意味もある。

【補記】東国にいた康資王母のもとに、同母姉妹である源兼俊母が都から便りを寄越したのである。この贈答歌については『宇治拾遺物語』上本二の四一に詳しい。

年おきて久しく母のもとにまからざりしかば、かれより   伊勢大輔

たらちねの親をば捨ててこはいかに人の子をのみ思ふ我こそ

【通釈】大切に育ててくれた母親を捨ておいて、どういうことでしょう。それなのに薄情な娘のことばかり、思いやっている私ときたら。

【語釈】◇こはいかに コに子を掛けている。◇人の子をのみ この「人の子」は「子である者」というほどの意。作者伊勢大輔の娘である康資王母を指している。

【補記】『康資王母集』より。康資王母が年久しく母(伊勢大輔)のもとを訪ねなかったところ、母より贈られて来た歌。

返し

人の子の親になりてぞ我が親の思ひはいとど思ひ知らるる(康資王母集)

【通釈】人の子の親になって、自分の親の気持はますます良く思い知ることができます。お母さんが私のことを思ってくれるのも無理ありません。ほんとうに有り難いと思っていますよ。

【補記】新千載集では伊勢大輔の歌の詞書を「康資王母とり子して、久しくまうで来ざりければ、いひつかはしける」とあり、康資王母が養子をとったと解釈している。新千載集撰者は「人の子」を「他人の子」と誤読してしまったのである。

【参考歌】藤原兼輔「後撰集」
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな

【主な派生歌】
子を思ふ親の心は人の子の親となりてぞ思ひ知りてき(賀茂季鷹)


更新日:平成15年01月31日
最終更新日:平成19年02月02日