高市皇子 たけちのみこ 生年未詳〜持統十(696)

天武天皇の第一皇子。母は胸形君徳善の女、尼子娘。御名部皇女(天智天皇の皇女)との間に長屋王をもうけた。異母妹の但馬皇女を妻としたらしい(万葉集巻二)。
生年は一説に白雉五年(654)。高市県主のもとで養育を受ける。天武元年(672)六月、壬申の乱勃発の際は大津皇子と共に近江にいたが、吉野の大海人より報が届き、直ちに近江を発ち、父の一行に合流した。父より将軍に任命され、不破に派遣される。翌月近江方を破り、父が即位すると、皇后・弟草壁・大津らと共に皇親政治の一翼を担うが、母親の出身が低かったためか、皇太子の地位には弟の草壁皇子が就いた。父帝崩後の持統称制三年(689)、草壁皇子が薨ずると、皇太子に立てられたらしいが、皇后は孫の軽王の成長を待ち、翌年正月、即位の式を挙げて自ら皇位に就いた(持統天皇)。同年七月、太政大臣に任ぜられる。その後、五千戸という莫大な食封を得、浄広壱の高位に昇った。持統十年(696)七月、薨ず。四十三歳か(四十二歳説もある)。万葉集に殯宮の時の柿本人麻呂の挽歌がある。
万葉集に十市皇女が亡くなった時の挽歌三首を残す。

十市皇女の(こう)ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首

みもろの神の神杉(かむすぎ)已具耳矣自得見監乍共(いね)ぬ夜ぞ多き(万2-156)

【通釈】三輪山の神聖な神杉……第三・四句解読不能……眠れない夜ばかりが多いのだ。

【語釈】◇みもろ 神の鎮座する場所。「みむろ」とも言い、「御室」の意か。「みもろの山」と言えば奈良県桜井市の三輪山を指した。◇已具耳矣自得見監乍共 未だ定訓が無い。『万葉集略解』の本居宣長説は「かくのみにありとし見つつ」、井上通泰『万葉集新考』は「夢にだに見むと思へども」。

【補記】十市皇女(648頃〜678)は天武天皇額田王の間の子。大友皇子の妃となったが、壬申の乱(672)で夫を亡くした。天武七年(678)四月七日、宮中で急死。その後、異母弟にあたる高市皇子が作った挽歌である。

 

三輪山の山辺(やまへ)真麻(まそ)木綿(ゆふ)短か木綿かくのみ故に長くと思ひき(万2-157)

【通釈】三輪山の麓に掛ける麻の木綿(ゆう)、その短い木綿。こんなにも短いものであったのに、私は長いとばかり思い込んでいた。

【語釈】◇三輪山 奈良県桜井市の山。三諸山・御諸山とも。神体山で、祭神を大物主神とする大神(おおみわ)神社がある。原文は「神山」で、旧訓は「かみやま」。◇山辺真麻木綿 (三輪山の)麓で祭る真白な木綿。木綿(ゆう)とは楮(こうぞ)の繊維から作った糸で、神への捧げ物とされ、榊の枝などに垂らして神事を行なった。

【補記】十市皇女の短命、または皇女との仲の短さを歎く。

 

山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく(万2-158)

【通釈】山吹が飾りを添えるようにほとりに咲いている山の泉――その水を汲みに行きたいと思うけれども、道を知らないことよ。

山吹 鎌倉市二階堂にて
山吹の花

【語釈】◇立ちよそひたる 目立って美しく飾る。原文は「立儀足」。

【補記】土居光知『古代伝説と文学』は古代シュメールの叙事詩『ギルガメシュ』に見える伝説――西方に生命復活の泉があり、そのほとりに金色のキク科の花が咲いている――との関連を指摘している。この伝説がシルクロードを通って日本にまで伝わり、キクが山吹に取って代わられたのではないか、と。すなわち「山清水汲みにゆかめど道の知らなく」は、皇女の生命を復活させる泉に水を汲みに行きたいのだが、その道がわからない、と言っていることになる。

【他出】高市皇子「夫木和歌抄」
山吹のにほひし山の清水をば汲みにゆかんと道のしらなく


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月17日