川島皇子 かわしまのみこ 斉明三〜持統五(657-691)

天智天皇の皇子(『懐風藻』によれば第二子)。母は忍海造小竜女、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)。泊瀬部皇女(天武天皇の皇女)を妻とする。『新撰姓氏録』によれば春原朝臣・淡海朝臣の祖。志貴皇子の異母兄。
天武八年(679)、吉野での六皇子の盟約に参加。同十年、忍壁皇子らと「帝紀及び上古の諸事」を記し定め、同十四年、浄大参位を授けられる。朱鳥元年(686)、大津皇子の謀反を密告。持統四年(690)、紀伊・伊勢行幸に従駕する。この時の歌が万葉集に残り(巻1-34)、新古今集にも採られている。同五年九月九日薨去し、越智野に葬られた。三十五歳。『懐風藻』に漢詩一首が見える。

紀伊の国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或いは云く、山上臣憶良が作

白波の浜松が枝の手向(たむけ)くさ幾代までにか年の経ぬらむ(万葉1-34)

日本紀に曰く、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国に幸す。

【通釈】白波の寄せる浜辺の松の枝に引き結んだ御供えは、どれほどの年月が経ったのだろうか。

【語釈】◇浜松が枝 有間皇子が刑場へ向かう道中「磐代(いはしろ)の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む」と詠んだのと同じ松の枝であろう。◇手向くさ 旅の無事を祈って土地の神に捧げるもの。布・木綿・糸・紙などを用いた。この場合、松の枝に紐状のものを結んだか。

【補記】持統四年(690)九月、紀伊行幸の折の作。万葉集巻九の1716番歌は題詞「山上作一首」、第二句「濱松之木乃」とし、左注に「或云川嶋皇子御作歌」とする。

【他出】歌経標式、俊頼髄脳、奥義抄、袖中抄、新古今集、定家八代抄、夫木和歌抄、歌林良材

【主な派生歌】
浪あらふ浜松が枝の手向草年ふる恋に袖ぞかわかぬ(藤原長方)
逢ふことをけふ松が枝の手向草いくよしほるる袖とかは知る(*式子内親王[新古今])
風吹けば浜松が枝の手向草つゆばかりこそ幣と散るらめ(寂蓮[新勅撰])
秋といへば浜松が枝の手向草わりなき露もやどる月かな(藤原家隆)
風わたる浜松が枝の手向草なびくにつけて夏やすぎぬる(藤原定家)
年へたる浜松が枝の手向草かはらぬ色も春は見えけり(後鳥羽院)
年ふりて花も咲きけり手向ぐさ浜松が枝の冬の白雪(伏見院)


公開日:平成19年07月29日
最終更新日:平成19年07月29日