藤原実房 ふじわらのさねふさ 久安三〜嘉禄元(1147-1225) 号:三条入道左大臣

三条内大臣公教の三男。母は権中納言藤原清隆女。権大納言実国の弟。太政大臣公房・権大納言公宣・同公氏の父。
仁平二年(1152)叙爵。左少将・右中将などを経て、永暦元年(1160)、蔵人頭。同年従三位。永万二年(1166)、権中納言。仁安二年(1167)、従二位に叙され中納言に転じる。同三年、権大納言。承安元年(1171)、正二位。寿永二年(1183)、大納言。文治五年(1189)、右大臣。建久元年(1190)、左大臣に至る。同七年、病により引退。法名は静空。
住吉社歌合・広田社歌合・御室五十首・文治六年(1190)女御入内御屏風歌・正治二年初度百首などの作者。日記『愚昧記』がある。千載集初出。勅撰入集三十首。『歌仙落書』に「義理を存候、言葉妙也。末床しきさまなり」の評がある。

守覚法親王家に五十首歌よませ侍りける時、よみてつかはしける春歌

春の夜のあけ行く空は桜さく山のはよりぞしらみそめける(玉葉193)

【通釈】春の曙――明るくなってゆく空は、桜の咲く山の稜線からまっさきに白みはじめるよ。

【補記】建久九年(1198)、守覚法親王が当時の有力歌人らに詠進させた五十首歌。

暮見卯花といへる心をよみ侍りける

夕月夜(ゆふづくよ)ほのめく影も卯の花のさけるわたりはさやけかりけり(千載140)

【通釈】夕月のほのかにさす微光の中でも、卯の花の咲いているあたりだけは、くっきりと明るいのだなあ。

【補記】顕昭が永万元年(1165)〜二年頃に編んだ私撰集『今撰和歌集』では第四句「さけるかきねは」とある。

守覚法親王家五十首歌に

夕されば波こす池のはちす葉に玉ゆりすうる風のすずしさ(玉葉423)

【通釈】夕方になったので、風が出てきた。池に立ったさざ波は蓮の葉を越え、葉の上に露を残す――その露を揺すぶりながら据え置いて、吹いてゆく風の涼しいことよ。

【語釈】◇玉ゆりすうる 露をゆらゆらさせながらも(葉の窪みの部分に)安定させる。参考「夕立の晴るれば月ぞやどりける玉ゆりすうる蓮の浮葉に」(西行「山家集」)。

百首歌たてまつりし時

まきの屋に時雨の音のかはるかな紅葉やふかく散りつもるらむ(新古589)

【通釈】時雨が降り、槙の板で葺いた屋根にあたる。その音が、以前聞いたときとは違っている。屋根の上に紅葉が深く散り積もったのだろう。

【語釈】◇まきの屋 檜・杉の類の樹皮または板で葺いた小屋。

【補記】正治二年(1200)、後鳥羽院が群臣に詠進させた百首歌、いわゆる『正治初度百首』。

百首歌たてまつりし時

いそがれぬ年の暮こそあはれなれ昔はよそに聞きし春かは(新古701)

【通釈】正月を迎える支度に急かされることもない――そんな年の暮というのは、あわれなものだ。昔はこんなふうに、春の訪れをよそごとのように聞いただろうか。

【補記】同じく正治初度百首。出家の身になって迎える年の瀬の感慨をしみじみと歌う。実房は建久七年(一一九六)、五十歳で出家。その四年後の詠である。

【他出】定家十体(事可然様)、定家八代抄、三五記

【主な派生歌】
山里の年の暮こそあはれなれ人のたてたる門の松かは(*宗良親王)

正治百首歌に

なにかその心の(ほか)にしをりせむ立ちかへるべき恋路ならねば(新続古今1024)

【通釈】山道なら、木の枝などを栞にして帰ることもしようけれど、どうして心ならずも道しるべなど置こうか。引き返すことなどあり得ない、恋の道なのだから。

【語釈】◇何かその いったいどうして。「何か」は反語。「どうして…か、いや決してそんなことはない」の意。「その」は強調。◇心の外に 思いのほかに。不本意にも。

【補記】この恋を途中でやめて引き返すつもりはない。その気持に反して、帰り道のための栞などするものか。一途な恋の決意を詠んだ。

ひたぶるに恨みつるかな恋ひそめし心のとがを人に負ほせて(正治初度百首)

【通釈】一方的にあの人を恨んだことだなあ。恋に落ちたのは私の心の咎なのに。それを、あの人のせいにばかりして。

住吉社の歌合とて人々よみ侍りける時、旅宿時雨といへる心をよみ侍りける

風のおとにわきぞかねまし松が根の枕にもらぬ時雨なりせば(千載525)

【通釈】松の根を枕にして旅寝していると、風交じりに時雨が降ってくる。枝の隙間を漏れてくる雨粒で時雨と知ったのだ。こんな場所で寝ていたのでなかったら、風の音にまぎれて時雨とは気づかなかっただろう。

【語釈】◇わきぞかねまし (風の音から時雨の音を)判別し兼ねただろう。「まし」は、現実に反する仮想のもとで、こうなるだろうと予想する心を表わす。


最終更新日:平成17年11月27日